第6話 ヒミツの楽園

「じゃあ、両思いだね」


 春田さんは嬉しそうにそう言った。


 私は恥ずかしくて、俯いて「うん」と答えた。


 眼鏡を外して、ポケットから取り出したハンカチで顔を拭いていたら、春田さんが隣に座ってきた。


 彼女の白くてきれいな足が、私のにぶつかる。


「じゃあ、ユキちゃんって呼ぶ」

「え?」


 私の名前を知っていたことに驚いたが、春田さんの方も驚いた様子でこっちを見ていた。


「眼鏡ない!」


 その顔があんまりにも可愛くて、私は大笑いしてしまった。


 彼女は笑われたことに不服そうな顔をしたが、私は我慢できなかった。


 それから一緒に近くの手洗い場に行って、私が顔を洗うのを彼女は少し離れて見つめていた。


 水のついた前髪も一緒にハンカチで拭いて、涙でシミのついた眼鏡はいったん胸ポケットにしまいこんだ。


 ちゃんと見えない方が、言える気がしたから。


 私は春田さんを正面から見て、深呼吸して、精一杯の勇気を出した。


「春田さん、私と、付き合ってください」


 彼女は二度、素早く瞬きして、

「あ、うん」と、拍子抜けするほど軽く返事をした。


 私は心底がっかりした。


 でも、続いた言葉はもっと信じられなかった。


「もう、付き合ってると思ってた」


 私は吹き出して、お腹を抱えて笑ってしまった。


 春田さんの思う『付き合う』ってどんな状況なの?


 困惑よりおかしさが優ってまた大笑いする私を、春田さんは不思議そうに見つめていた。


 人生で初めて授業をサボって手に入れた、静まり返った廊下で大好きな人と一緒に過ごす時間は、最高に甘くて、最高に心地よかった。


 私たちは『ユキちゃん』『ハルちゃん』と呼び合うことになった。


 もちろん周囲は、私と春田さんが急接近したことに驚いている。


 クラスでも影の薄い私が、学年で有名な軽音部ちょいワル美人とファーストネームで呼び合っているなんて、なにがあったのか気になるに決まってる。


 でも面と向かって事情を聞いてくる人はいなかった。


 一番有力な噂としては、いじめられていた私が『軽音部』の一員になった、というもの。


 もしかしたら春田リツという人物は、不可侵の存在なのかもしれない。


 周囲に迎合することなく生活している彼女は、どんなときも自分のタイミングで動いていて、誰かと居たければそうするし、一人で居たければ平気で誘いを断る。


 私はその堂々とした彼女の姿に強く憧れていた。


 彼女は自信に満ちていて、自分を卑下したりしない。


 そんな彼女と『友達』だということを隠さなくなったら、周囲が私を見る目も変わっていった。


 今までは完全に見下ろされていたのだけれど、今は、もう少し距離を感じる。


 変わっている子だから遠巻きに見ておこう、邪険にはしないけど、友達でもない。


 それくらいの他人行儀が、私にはちょうどよかった。


 意味のない上滑りする会話に興味がなくて、頑張らないと周囲に馴染めなかったけれど、そんな頑張りは時間の無駄だと思えた。


 私は別に、誰かと一緒にいなくても平気だった。


 そしてクラスの全員が悪い人というわけではないから、体育のときとかグループワークで必要なら、協力してくれる人は必ずいた。


 それで十分だった。


 肩の力が抜けて、無理なく呼吸ができている気がする。

「友達を作らなくちゃ」「グループに入っていなくちゃ」「一人でいちゃダメ」「おしゃれにしなくちゃ」「女らしくしなくちゃ」という呪縛から、うっすらドロップアウトしたのだ。

 そしてそんな自分を、そんなに悪くないと思えた。


 代わりに春田さんとの時間は、また密になっていた。


 彼女は私を見たいから距離を取りたがるけど、私はもっと彼女に触れたかった。


 お昼ご飯の後、隣に座って欲しいと頼んだら、彼女は本当に私に好意があるのか怪しいほどに嫌な顔をしてからしぶしぶ移動してきた。


 構わず繋いだ彼女の手は、すごく冷たくなっていた。


「冷たい……。もう外じゃ寒いね」


 彼女はそっぽ向いていて、私はその横顔を見つめる。


 真剣な眼差しが遠くの空に投げられていて、何を考えてるのかわからないけど、返事がないままの彼女の右手を両手で包んで、私はその肩に寄りかかって目を閉じた。


 幸せだな、と素直に思えた。


 次の日、春田さんは第二視聴覚室の隅にランチセットを移動させていた。


 寒さに対するまさかの解決方法だった。

 

 ここは魔窟だ。


「おはよー」って昼休みに登校してくるピアスさん。

「ハルちゃーん」って春田さんに手を振る金髪くん。

「ハル先輩おはようございます」ってあいさつしてくるムキムキくん。


 誰も私に絡んでは来ないけど、ちょっと怖い。


 春田さんは、誰がなんと言おうと私を見てる。


 他の誰も私を見ていない。


 変な空間。


 しかし魔窟に潜入して三日目に、事態は動いた。


「久しぶりー」

「おおーおかえりー」

と、魔物たちが次々入り口に駆け寄って、誰かを歓迎している。


 春田さんも顔を上げた。


 入ってきたのは、たぶん先輩。


 初めて見る人だった。


 背はそんなに高くないけれど、肩や胸に筋肉がついてるのがブレザーの上からでもわかる。


 ツーブロックの黒髪を後ろに撫でつけて、シャツもズボンもだらしなく着崩してる。


 まさに不良だ。


「二週間停学とかマジありえねーよ。ちょー暇だったわ」


 そう言いながらどんどん奥に歩いていくその人をぼんやり見ていたら、案の定目が合った。


「え、誰?」


 へらへらと、笑ってはいるけれど、怖い人だとわかる。


 この楽園の王様だ。


 見つめられて、私は心拍数が急上昇するのを感じた。


(ああ、寝てしまいそう……)


「私のカノジョ」


 すぐ後ろから響いた春田さんの声で、視界がクリアになった。


 それは緊張も不安も感じない、いつもと一緒の低い調子だった。


「え、お前彼女できたの?」

「そう。手出したら許しませんから」


 先輩は呆気に取られていた。


「見るのも話すのもダメです」


 春田さんが強い口調で言うので、私も先輩と同じくらいびっくりして、思わず彼の方に助けを求める視線を送ってしまった。


 他の人は笑いを噛み殺している。


「あー、うん。わかりました。だいじょうぶです」


 両手を小さく上げて降参を示した王様は、私に「大丈夫?」とアイコンタクトをとってくれた。


「あ! 見てる!」

「違う、これはあいさつだ! 人として、初めましてって自己紹介するの当然だろ」


 王様は驚くほど真っ当なことを、素早く切り返した。


 これが不良の適応力なのか。


「そっか。じゃあどうぞ。あ、他の人も、あいさつして」


 春田さんは彼の言葉に納得して、さっと、私に道を開けた。


 そして後ろで笑いを堪えていた人たちにも「どうぞ」とジェスチャーする。


「もしかして、私に声かけるなって、みんなに言ってたの?」

「そうだよ」


 春田さんは、きょとんとしていた。


「だって……、私のユキちゃん見られたらやだから」


 不貞腐れた子どもみたいに、春田さんは足をいじいじと動かしながらそう言った。


 本当に、開いた口が塞がらなかった。


 ぐるり見渡す周りの様子から見るに、春田さんはそういう人なのだろう。


 みんな笑いながら、しょうがないなって感じで受け止めている。


 春田さんは、本当に変な子だった。


 そうだ。


 同性に見られて興奮している私だって十分過ぎるくらい変だと思ってたけど、あの日寝てる私を、起こすでもなく一時間近く見つめてた春田さんは、輪をかけて、どうかしてる。


 これってすごく、おかしくって、気持ちいい。


 

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