第38話 僕らのこれから(1)


 二日後。

 病室。


 詩織はゆっくりと目を覚ました。

 

 白い天井。

 天国では無いだろう。

 詩織は病室であることを理解した。


 右手の違和感。

 恐る恐る右を向くと、布団に顔を埋めたまま眠る雅人がいた。

 眠りにつきながらも、彼はその両手で自身の右手を掴んでいる。


 何時からか。

 と言うよりもなぜ彼がここにいるのか。

 どうして、私はここにいるのか。

 詩織は呆然と目の前の景色を眺めていた。


「私はどうして……?」

 根本的な疑問。

 詩織は事の経緯を思い出そうとする。

「階段から落ちたんだよ」

 すると、病室の扉を背もたれにして、一人の男性は言った。


 昔はイケメン俳優と呼ばれていそうな中年男性。

 詩織の父の奏介だった。


 奏介は二時間前に日本に帰って来た。

 そして、慌ててここへとやってきたのだ。


「お父さん……」

 半年ぶりに見る父の姿。

 感動に近い喜びが込み上げた。

「詩織」

 どこか奏介は涙ぐんだ顔で言う。

「なに? どうしたの?」

「すまなかった。――本当にすまなかった」

 奏介は大きく頭を下げた。

「な――え、どうしたのお父さん?」

 どうして、父が私に頭を下げているのか。

「有紗のこと。お前のこと――そのすべてだよ」

 それから奏介は語り出す。

 有紗、それが再婚相手の名前だった。


 海外に赴任している最中、有紗の浮気に気づき、探偵に調査を依頼していたこと。

 その間で知ってしまう、有紗の生活と詩織への暴力を。

 知っていながらも、奏介は何も出来なかった――しなかった。


 しかし、そんな彼に職場の同僚が叱責した。


『何も知らないより、知らないフリをする方が性質悪い――』


 確かにその通りだよ――秀斗。

 その光景を思い出し、奏介は笑みを浮かべた。

 奏介は雅人の父、秀斗に言われた言葉を思い出す。


 不安だった感情が一掃された様な気がした。


 奏介は秀斗に現地の仕事をお願いして、

 急遽日本への帰国を決めた――その矢先だった。


 ――詩織が事故にあったのは。


 これでも最短で来たつもりだった。

 詩織を一人にさせないために。

 しかし、病室へ来ると、詩織の前には一人の男子がいた。

 優香に聞いていた雅人と言う同級生だ。


「ようやく、手続きが出来たんだよ」

「手続き?」

 呆然とした顔で詩織は首を傾げる。

「ああ。離婚とこっちで働くことのな」

 そう言った奏介は安心した様な笑顔だった。

 帰国への手続きをしている最中、並行して職場に依頼していたのだ。

「私が原因?」

「いや、詩織がいたから離婚で済ますんだよ」

「え――」

「詩織がいなかったら、多額の賠償金を請求していたよ」

 証拠はすべて揃っているからな。

 奏介は力強い声で言った。

「そうな……の」

 どこか義母親に申し訳ない気持ちになる。

「だから、詩織。これからはお父さんと一緒に住もう」

「うん……」

「それか――佐伯とでもいいぞ?」

 どこか奏介は慣れた口調でそう言った。

「――へ?」

「最初は詩織をたぶらかすクソ野郎と思ったが、後で詩織が好きな男だと知ったよ」

 現に父娘とも佐伯に助けられるとは。奏介は不思議な感覚だった。

「何で知っているの……?」

 父とは半年間、連絡を取っていなかった。

 それ故、雅人の話なんて知らないはず。


「ああ。詩織は知らなかったか? 江口は沙織の親友なんだよ」


 江口優香、優香さん。

 詩織がよく行っていた喫茶店 杏の店長の名である。


「え、そうだったの……」

 大好きな母の親しき友。

 だから、あそこまで親身になってくれたのだろうか。

「それに佐伯は俺が来るまで丸二日。ずっと詩織に付き添ってくれたしな」


 冴えない顔をした奴がある日、他人のために自身を犠牲にする。

 その姿は奏介の知る雅人の父、秀斗と同じだった。


「丸二日?」

「ああそうだよ。詩織は倒れてから、丸二日間眠っていたんだよ」


「そ、そんなに……」

 翌日の様な目覚めの感覚。

 とても二日間寝ていた感覚は無かった。


「ああ。――お、こんな時間か。ちょっと職場に電話してくるよ」


 腕時計を見て、そう言うと奏介は慌てた顔で病室を出て行った。


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