遭遇

 由美自身の思っていた通り、廃墟巡りを再開すれば井戸の事などすっかり忘れた。

 朽ちそうで朽ちていない建物、残ったままの道、散見される畑……人の気配を感じさせる数々の異物は、違和感と不気味さを掻き立ててくれる。井戸の事を忘れようと夢中で写真を撮っていた甲斐もあってか、時間はあっという間に過ぎていき――――

 気付けば周囲はすっかり暗くなっていた。具体的には、遅い夕暮れを彷彿とするぐらいに。


「……ん? んん!?」


 由美は驚いた。何度も目を擦り、意図して瞬きも何度かしてみたが、周りは一向に明るくならない。何をしても、由美がいる廃墟の建ち並ぶ領域は暗いままだ。

 言うまでもなく、時間というのは急に加速したり遅くなったりするものではない。光の速度で移動しない限り、地球上での一秒は誰にとっても一秒である。その時間の流れに気付かないのは、当人の感覚の話でしかない。

 まさかこんな遅くまで廃村探索に熱中するとは、由美自身想像もしていなかった。

 確かに好きな事をやると時間も忘れてしまうものだが、しかし彼女とて曲がりなりにも社会人。あまり遅くならないよう、時間には気を付けていたつもりだ。実際社会人になってからは、廃墟巡りをしても明日に響くほど遅くまではしゃぐような事はしていない。少なくとも今日までは。


「うへぇ、不味ったなぁ……」


 困ったように呟くも、当然それで辺りが明るくなる事はない。がくりと由美は肩を落とす。

 此処が辺鄙な町の廃工場などであれば、どれだけ遅い時間になろうと、疲れが残って仕事中に居眠りしないか心配するだけで済んだ。しかし此処は山である。帰るためには山道を下らねばならない。

 強行下山も出来なくはないが、万一崖から足を滑らせようものなら、最悪この世からおさらばする事になりかねない。そして町であれば迷っても警察のお世話になれば助かるが、山であればそれは帰宅不可能の状態……遭難になる。

 一刻も早く家に帰りたい気持ちはあるが、安全を優先して、今日はここで野宿するのがベストだろう。幸い今日は土曜日なので、明日も仕事は休みだ。余程の事がなければ無断欠勤にはならず、この失敗はちょっと『手痛い』思い出で済む。お風呂に入れないのもベッドで眠れないのも夕食がないのも、現代人としてはかなりしんどいが、今回だけならキャンプだと思えば我慢出来るだろう。


「(あれ? でもこの山、獣とかいないのかな?)」


 この事実に気付くまで、由美は暢気にそう考えていた。

 この山にどんな動物がいるのか、由美は詳しく知らない。しかし村に人が住んでいたのはかれこれ八十年前の事。おまけに様々な理由から登山客などは滅多に訪れない。野生動物の王国なのは間違いなく、もしかすると日本の頂点捕食者……クマがいてもおかしくないだろう。クマでなくともイノシシやシカだって十分危険であるし、猿も群れで襲い掛かってきたら怪我では済まない筈だ。他にもヘビや変な虫に噛まれたら、今すぐ病院に行けないのにどうしたら良いのか。

 適当な野宿では駄目だと、手遅れ一歩手前で気付く事が出来た。尤も、それだけでどうにか出来るほど現状は甘くない。日帰りのつもりだった由美は、キャンプ道具など持ってきていないのだ。テントも寝袋もないのにどうやって安全な寝床を確保すれば良いのか。夜通し起きていれば、とも思ったが、登山と廃村巡りで今日はかなり体力を使った。鍛え上げた軍人や登山家なら兎も角、由美は非力な一般女性。この状況で徹夜などまず無理だ。間違いなく寝落ちする。

 少しでも安全なところに身を隠し、そこで一夜を過ごすしかない。


「……廃村で良かった、と言うべきなのかなぁ」


 この廃村では家がある程度形を保っている。基本的にはどの家も老朽化が激しく、中に入る事さえ危険そうだが、一部の物置などの小さな建物は比較的劣化が少ないように見えた。中で暴れ回らない限り、今日倒壊する事はないだろう。

 勿論万が一にも建物が崩れて下敷きになれば、怪我では済まない可能性もある。だが獣に襲われるよりはマシ……と思いたい。所詮は素人判断なので、結局のところ由美の感想でしかないが。

 しかしもっと良い場所を探そうにも、暗くなりつつある今時間的猶予はない。あれこれ考えている暇はない。


「そういや今って何時ぐらいなのかな」


 寝床の心配が(一応は)なくなった事で、落ち着きを取り戻した由美は肝心な事を確認していないと思い出す。辺りの暗さから夜が近いと思い込んだが、時刻すら見てないではないか。

 もしかすると雷雲が来て暗くなっただけで、まだまだ夕方ぐらいなのかも知れない。それならこんなところに野宿するより、急いで下山した方が良いだろう……縋るほどではないが、希望が胸に灯される。由美は早速ポケットからスマホを取り出し、画面を見た。腕時計を持っていない由美とって、これが唯一の時間確認手段である。

 さて、今は何時か。画面上部にある時刻表示に目を向けたところ

 ■■■■と表示されていた。


「……何、これ」


 呆けた声が、由美の口から漏れ出る。

 目を擦る。スマホの電源を入れ直す。しかしそれでも、スマホに表示されている文字は読めないものに変わりない。

 いや、読めなくはないかも知れない。よく見れば数字がぐにゃぐにゃと曲がったような、そんな印象を受ける文字だったからだ。しかも文字の形は、僅かにだが刻々と変化している。

 ひょっとしてスマホが壊れたのだろうか。連続する不幸に頭が痛くなるが、しかし壊れたのが表示機能だけなら書かれている時刻は正しい筈。読めれば現在時刻が分かるかもと、由美は画面をじっと見つめる。

 すると液晶画面にが映し出された。


「ひっ!?」


 驚きから思わずスマホを投げ捨てる由美。彼女は自らの動きによって尻餅を衝くように転び、投げたスマホは暗闇と草むらの中に消えてしまう。


「あ、ヤバ……」


 しまった、と思った時には全てが手遅れ。スマホの落ちた音だけが何処かから響いた。

 咄嗟の行動だったため、自分でも何処にスマホを投げたか分からない。そしてただの人間である由美に、暗闇の中を見通す能力なんてない。音こそハッキリ聞こえたが、残念ながら人間というのは音だけで場所を正確に把握出来る生き物ではなかった。

 これでも見晴らしが良ければ、大雑把な位置さえ分かれば探しようもあったが……辺りは野性味溢れる草だらけである。草の根本にあるスマホを、薄暗い中から見付け出す事が如何に困難であるかは、考えるまでもない。

 今からスマホを探すとしたら、数時間掛けて成果なし、という結果も覚悟しなければならないだろう。恐らく間もなく夜になるという時に、そんな事で時間を無駄にしている余裕はない。


「……諦めるしかないかぁ」


 ぼやきを口に出しながら、由美はへたり込む。ここまで困難だと逆に諦めも付くというもので、由美の身体からは力が完全に抜けた。

 ……そして思い出す。突如液晶に写り込んだ、不気味な女の顔の事を。


「私の顔は、普通、よね」


 そんな筈はないと思いつつ、念のため由美は自分の頬を撫でる。思った通りのすべすべとした肌触り。液晶に自分の顔が映った訳ではないと確信した。

 しかし、だとするとあの顔はなんだったのか。

 スマホが変なウイルスにでも感染したのだろうか。パソコンが一般に広がり始めた頃には、人を驚かせる(幽霊の顔が突然出てくるなど)事を目的としたウイルスがあったという。だがセキュリティソフトが発達し、ウイルスを作るにも金と技術が必要なこのご時世、そんな『無益』なジョークウイルスなど生き延びているのか……?


「……………それよりも、今は休める場所を探そう」


 なんにせよスマホを紛失した今となっては確かめようがなく、考えるだけ無駄だ。頭を左右に振って思考を一旦切り替え、由美はゆっくりと歩き出す。

 目指すは村中心部。自然と接している村の外側よりも中心の方が、多少は獣が来ないという判断だ。薄暗い中を歩くのは怖いが、しかし散々村を歩き回った事で大凡の道のりはぼんやりと見えている。手探り気味ではあっても、転ばずに進む事は可能だ。

 ゆっくり、慎重に、由美は村の中心に向けて歩く。ここで一つ懸念を言うなら、暗さの所為で家の全容が見えないため、安全そうな寝床を探すのに苦労しそうな点か。されど照明にも使えたスマホをなくした時点で、これも諦めるしかない。どの廃屋も八十年間形を持っていたのだから、きっと今日明日で崩れる事はないと信じるしかない――――


「ん?」


 憂鬱な気分でいた由美だったが、目の前の光景にふと違和感を覚える。

 最初はその違和感が何か分からなかった。だからしばしの間黙々と進んでいたのだが……やがてそれが『光』だと気付いて、由美は足を止める。

 そう、光だ。

 夜の自然界で見られる光には何があるだろうか? 例えば月や星、それからホタルが有名どころか。ツキヨタケというキノコも微かにだが光るという。光を出す生物というのは意外と多いのだが、しかし今、由美の目の前にある光はそんな弱々しいものではない。青白い、人工的なライトに似た輝きだと直感的に思う。

 この廃村には人の手が入っている痕跡が幾つもあった。ならば此処に人が訪れたとしてもなんら不思議はない。もしかすると夜でも安全に帰れるルートを知っているかも知れないし、自分と同じ立場でも協力すれば安全を確保しやすい筈だ。


「っ!」


 そう思ったが故に、由美は光目掛けて走り出した。

 ――――もしも彼女がもう少し冷静だったなら、違和感を覚えただろう。

 廃村に人が訪れるとして、何故辺りが暗くなった時間帯なのか。普通に考えれば安全かつ管理がしやすい昼間に来る筈だ。それに廃村にいるからと言って、その人物が畑を作った人間とは限らない。流れ着いた不埒者、或いはなんらかの犯罪……例えば殺人など……を隠滅しようとした極悪人という可能性もある。

 注意深く考えれば、光の正体が分からないうちに突っ込むのは危険だと分かる。されど今の由美は冷静さなど欠片もない。夜遅くなって下山も出来ず、文明の利器であるスマホもなくした現代人に、落ち着いた判断など出来る筈もないのだ。

 故に、彼女は自らの姿を晒してしまった。

 人型をした、されど決して人ではない、異形の怪物の前に……

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る