14





 作業の手を止めて、大塚は何か飲むかと立ち上がった。何もない家だが、コーヒーだけは切らさずに常備してある。豆から挽きたいところだが面倒くささが先に立って、今では手軽いものが一番だと思っている。要するにコーヒーの味がすれば何でもいいわけだ。小腹も空いていて、無意識に冷蔵庫を開けてから、ああ、と気がついた。

 相変わらず家の中には食べるものが何もない。

 朝コンビニに行ったのに、頭にあったのは朝食の事ばかりだった。ついでに買いこんでくることも出来たのに、自分のことはすっかり失念していた。

「何か買いに行くか…」

 さすがに腹が減ってきた。

 普段している仕事は外に出てばかりだが、休みの日は大抵家にいるか家でもできる内向きの作業をやっていた。歯科医であることを辞めてから、全く違う仕事がしたいと望んで始めたことだったが、たまに虚しくなることもある。

 財布と鍵を持ち、玄関を開けると、外はもう暗かった。日の名残りのような橙色が、深い藍色の空の端にほんの少し残っている。

 エレベーターのボタンを押そうとして、上階の数字が明るいことに気づいた。

 箱は上にあるのか。

「…歩くか」

 待つのも面倒だと、大塚は階段で下まで降りた。


***


 怖い──佑真が。

 咄嗟にそう感じた自分に、冬は驚いていた。

 確かに名取には何を考えているか分からないところがあった。いつも笑顔で、誰に対しても公平で、そして優しかった。

 誰もが皆、名取を好きになる。

 初めて会話を交わしたときから──きっと、冬もそうだったのだ。

 でもだからこそ、普段彼がしないことをやると不安になった。

 何も話さず、じっとどこかを見ている、ただそれだけで落ち着かなくなる。

『…佑真?』

 いつだったかはもう忘れてしまった。

 ただそのときもふたりきりで、周りには誰もいなかったことだけは覚えている。

 佑真、と何度か呼んだ。

 名取はずっと窓の外を見ていて──

『──』

 その目がすっと、冬を見たのだ。

 無表情に。

『ミヤ』

『──』

 いつも笑っているその目は怖いほどに切れ長で…

『なに、ミヤ』

 ぱ、とその顔がいつもの名取になる。

 表情が戻ったとたん、周りの空気まで変わったようで、冬はどきりとした。

『? どうした?』

『え、あ、ああ、あの、…』

 言おうとしていた言葉が出て来なくて冬が焦っていると、くすりと名取は笑った。

『どうしたのミヤ』

 その顔は陽を背にしていたからかどこか暗く、瞳だけが光って見えた。

 あのときの感覚を冬は思い出していた。

 よく分からない何か、言葉には出来ない──ひやりとした冷たさ。

「元気ないね」

 食事の手を止めて、名取が冬の顔を覗き込んだ。

 小さな丸いテーブルに向かい合って座っている。狭いテーブルの上にはパスタや前菜、野菜のグリルなどを乗せた皿が所狭しと置かれていた。

 店の中は雰囲気よく明かりが絞られていて、オレンジ色の光の中、あちこちに影が落ちている。

「食べないと冷めるよ」

「ああ」

 今日は変なことばかり思い出す。

 明け方見たあの夢のせいだろうか。

「美味いよ、これ。皿貸して」

 言われて差し出すと、名取は器用な手つきで前菜を取り分け、冬の前に置いた。

 綺麗に盛られたそれを見つめ、冬はフォークを手にした。小さめの野菜をつつき、口に入れる。確かにここの料理は美味しかった。

「ちゃんと食事してる? まえから思ってたけど、ミヤは痩せすぎだね」

「…仕方ないだろ。食べても太らないのは体質だし」

「高校のときもそう言ってた」

「分かってるなら聞くなよ」

 そんな話をしたことを冬は覚えていない。多分色んな人と知り合うたびに同じことを聞かれ、同じことを返しているからだ。

「それ食べたら出ようか」

 先に食べ終えた名取がカトラリーを皿に置いた。

 スマホを取り出し、長い指で画面をスクロールしていく。

「なあ、ほんとに映画観るの…?」

「行くよ」

 冬が食べ終えると、一息つくのを待ってから、名取は立ち上がった。

 どうして一緒に映画を観ているのだろう。

 レイトショーの回に入り、大きなスクリーンに映し出される映像を見ながら、冬は思った。

 祝日の夜の映画館は思ったよりも人が少なく、どこか寂しい感じがする。観客は名取と冬のほかに十人もいない気がした。しかも皆ひとり、男同士で連れ立って来ているのは自分たちぐらいだ。

 名取が取ったのは一番後ろの真ん中、周りには誰もいないから、ふたりきりでいるようなものだった。大音量で耳が震える。映画は何年かに一本出ているシリーズの最新作だったが、ほとんど頭に入って来ない。スクリーンの中で動き回る俳優に集中したいのに、ちっとも内容が頭に入って来ない。

 だめだ。

 惰性で買って口をつけてなかった飲み物を思い出し、冬は手を伸ばした。

 けれどその指先が名取の体に触れた。

「ごめ──」

 思わず小さく呟いて慌てて手を引っ込めると名取がこちらを向いた。

 スクリーンの光に顔の輪郭が浮かび上がる。

「はい」

 名取はゆっくりと背もたれから身を起こすと、カップを取り冬に差し出した。

「あ、りがと」

 冬はぎこちなく受け取り、ストローに口をつけた。少し生ぬるくなった炭酸飲料が喉を落ちていく。カップを戻そうとしたとき、ひじ掛け越しに名取が身を乗り出した。

「ちょうだい?」

 カップを持つ手ごと掴まれ、落とさないように手のひらを重ねられて引き寄せられた。息を呑んだ瞬間にはもう、名取の髪が冬の頬に触れるほど近くにあった。

「──」

 頭を下げた名取がストローを咥えている。

 伏せた目、手のひらに伝わる振動。

 近すぎて息が出来ない。

 ほんの一瞬、でも永遠みたいに長い。

 ストローから口を放した名取が笑った。

「ぬるいね」

「…──っ、う、ん」

 息が上がりそうだ。

 冬がぎこちなく頷くと、名取の手が離れた。名取はそのままひじ掛けに寄りかかり、冬は身動きが取れなくなった。

 すぐそばにある体温に心臓がじくじくと痛んだ。

 映画はクライマックスに差し掛かっていたが、何も考えることが出来ない。

 冬はじっと身を固くして、ただひたすらに映画が終わるのを待った。


***


 ちょっとコンビニに行くだけのつもりで家を出たのに、気がつけば大塚は近くの書店まで足を延ばしていた。特に買いたいものがあったわけでもないが、昔から本屋に行くのが好きで、時間さえあれば立ち寄っていた。

 長く読んでいるシリーズものの最新刊に目を留めて、大塚はそれを手に取った。予定などない連休だ。仕事の合間にでも読むかと、他にもいくつか目星しいものを手にレジに向かい清算を済ませた。

 時刻はもう二十一時を過ぎていて、いつの間にこんなに時間が経ったのだろうと我ながら苦笑した。いくらなんでも本屋で三時間近くとは、ゆっくりしすぎたか。

 ほんの詰まった袋とコンビニ弁当の入ったレジ袋を手に、すっかり暗くなった道を歩く。これから帰ってコンビニ飯か、とふと考え、大塚はなんだか味気ない気がした。

 どこか適当な店で食べていくか…

 買ったものは明日でもまた食べればいい。

 道の先に深夜まで営業している飲食店があった。古い洋食屋で、大塚も何度か行ったことがある。久しぶりに温かい食事に魅力を感じ、大塚はそこに足を向けた。

 ひとりでの食事がどこか寂しいと思うなんて、今朝冬と食事をした名残りをまだ引きずっているのかと、ふっと大塚は苦笑を浮かべた。


***


「結構面白かったね」

 少し先を歩いている名取が振り返った。映画館を出て、駅から少し離れた路地。夜風が少し冷たい。

「途中ちょっとダレたけど、終わり方が良かったな」

「…ああ」

「ミヤはどう? どこがよかった?」

「……おれは」

 ああそうだ、と名取は思いついたように言った。

「今日はうちに泊まっていけばいいよ、──ミヤ」

「──」

 冬の項が強張った。

「ね?」

 そう言って立ち止まった名取を見て、冬の足が自然と止まった。

 ぼんやりとした街灯の明かりが名取の向こうに落ちている。淡い逆光で、あまり表情はよく見えないが、名取はいつものように微笑んでいた。

 優しくて、誰もが好きになる。

 冬はぎゅ、と手を握りしめた。

「なあ、佑真」

 ん? と名取が小さく首を傾げた。

 その仕草を冬は何度も見たことがある。それこそずっと、あの胸が焦がれてどうしようもなかった高校時代、冬の目はいつも名取を追いかけていた。

「おれもう、おまえとは会わないよ」

 微笑んだまま、名取は冬を見下ろしていた。

「仕事は仕方ない。それはどうしようもないけど…、こんな、プライベートではもう会わない」

 ゆっくりと、でも一気に言いたいことを吐き出して、冬は息をした。浅い呼吸を繰り返す自分に、たったこれだけ告げるのに、どれほど緊張しているのかを今更に自覚してしまう。

 名取は小さく首を傾げた。

「どうして?」

 どうして──

 冬は手を強く握りこんだ。

「…、それは…」

「苦しくなった?」

「え、っ」

 近づいた声に、はっ、と顔を上げると、胸先が触れそうなほど近くに名取は立っていた。

「僕のことが好きだから?」

「そ──」

 逆光の中で、にっこりと名取は笑った。

「そうだよね。僕はちゃんと覚えてる。このまえもそう言ったよ?」

 このまえ。

 結婚式場の中庭。

「違う」

 即座に冬は否定した。

「おれは──」

「僕に好きって言ったのに、否定するの?」

「違う…!」 

 違う違う違う。

 だって、だって──

「否定したのはおまえだろ!?」

 名取の胸を突いて冬は距離を取った。

 離れたい。

 苦しい。

 あのときの気持ちを忘れることが出来ない。

「おれの気持ちを、…っ、先になかったことにしたのはおまえじゃないか…!」

『それ冗談?』

 翻るカーテン。

 想いが溢れ出て行ってしまった言葉を、名取は笑ってなかったことにしてしまった。

「なんでそんな…っ、おまえは…!」

「でも僕をまだ好きなんだよね?」

 冬の叫びを遮って、名取は言った。

「見てれば分かるよ。ミヤは分かりやすいから」

 冬は首を振った。宥めるように差し伸べられた手を振り払った。

「違うって…っ!」

 違う。

 そうじゃない。

 上手く伝えたいのに言葉が見つからなくてもどかしい。

「ミーヤ、分かってるから、ね?」

 名取の手が肩を掴もうとする。それを冬は身を捩って避けた。

 何が分かっているんだ?

 おれが好きなことを?

 八年も経って?

 結婚をしているのに?

「分かってるってなんだよ…!?」

 名取は肩を竦めた。

「とにかくうちに行こう。ここじゃなんだし」

 人通りは殆どない。

 それでもこんな言い争いを誰かに見られるのは冬も嫌だ。だが、行くつもりはなかった。

 さあ、と背中をそっと押され、冬はその手からさっと逃れた。

「行かないよ。行くわけないだろ」

「どうして?」

「どうして、って…」

 言い返す言葉を探す冬に、名取は言った。

「僕はミヤと前のようになりたいんだよ」

「そんなの無理だ…!」

「どうして? 僕のことが好きなのに?」

「だからっ…」

「僕もミヤが好きだよ。離れてみてよく分かった」

「何、…言ってるんだよ!」

 叩きつけるように言った冬に、名取は少し驚いた顔をした。

「嬉しいだろ?」

「ッ、…は…?!」

 いまさら?

 いまさらだ。

「そん、なわけないだろっ…!」

 好きだと言われても、もう喜べない。

 大体名取の言う好きとはどの程度だ? 自分と同じ熱量だなんてとても思えない。仮に同じだったとして──もう、素直に頷くことは出来ない。

 名取には日向がいる。

 彼女のことを冬は好きだ。

 日向を悲しませたくない。

 冬はまっすぐに名取を見つめた。

「おれはもう、おまえのことなんか好きじゃない」

 暗い光に浮かび上がる名取の顔が、ふ、と一段暗くなった気がした。

 目を逸らしては駄目だ。

「何勘違いしてるか知らないけど、おれはもうおまえのことなんか──」

「嘘だね」

「っ、嘘なんかじゃ──!」

「あんなに赤くなっておいて?」

 くす、と名取が笑う。

「見え見えだよ、ミヤ」

「…っ、とにかく、もうおれは…おまえに気なんかない」

「……」

「本当だ」

 気持ちを見透かすようにじっとこちらを見下ろす名取に心がざわざわとして、冬は咄嗟に嘘を吐いた。

「他に…、好きな人がいる」

「…へえ」

 と名取が呟いた。

 小さく首を傾げ、口元に微笑みを浮かべた。

「そんな噓信じるとでも?」

「本当だって、…っ、おれはその人と」

 どうしてそんなことを言ってしまったのか。

 冬には、今になってもよく分からないのだ。

 ただそう言っていた。

 その場を逃れたいがために出た言葉だった。

 名取を納得させるための。

 だが今にして思えば、きっとそれは願いのようなものだったのだ。

「おれには──」

 名取の目には必死に言い募る冬が映る。

 冬の目にも、薄い笑いを浮かべた名取が映っていた。

 だがそのとき冬の胸の中にいたのは、名取ではなく、別の顔だった。

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