飢饉から立ち直る

 さきの『二宮翁夜話』巻五、第百九十一の話は続きます。


「この起こし返し田は一春のあいだに五十八町九反歩を植えつけたことになった。まことに天より降るがようで、地より湧くがようで、数十日の内に荒地が変じて水田となり、秋にいたってその実法みのりはすぐに貧民の食料のおぎないとなったのであった。


 その外、沓・草鞋・縄等を製造させたこともその大きなことであって飢えた民は一人もなく、安穏に相続し、領主・君公の仁政を感拝して農事に勉励したのであった。


 どうしてよろこばしいことがないだろうか」


 ここには飢饉とたたかって、農業にはげんで生きる人々の姿が残っています。飢饉をのりこえて、烏山藩にはさらに財産がのこったのです。


 さて『報徳記』では桜町陣屋において稗を多くつくったことをみましたが、その後につづけて、飢饉における対応をつたえています。


 この時にあたり、桜町・三村の民のみこの憂いを免れた。金次郎さんは三村を戸ごとにめぐり、無難のもの、中難のもの、極難のものの三段に分かち、老・少・男・女をえらばず、一人に雜穀をまじえて五俵ずつとなし、その数にみたないものはこれを補ってこれらの雑穀など(稗など)を与え、一戸が五人ならば二十五俵、十人ならば五十俵、十五人なれば七十五俵を備えたのでした。貧しいものは豊年すらなおこのように豊かであったことはありませんでした。


『報徳記』はこのように金次郎さんが桜町陣屋配下の各戸に救済の雑穀を配られたことを記しています。


 また『二宮翁夜話』も巻五、全体の第百九十七「天保七年櫻町支配下四千石の村々に諭して穀物を賣らせる件」という対応の記録を残しています


 翁(二宮尊徳翁、金次郎さん)がおっしゃった。


 天保七年(1836年)の十二月、桜町支配下の四千石の村にさとした。


「每家所持の米・麦・雑穀の俵数を取り調べさせ、米はもちろん大小の麦・大小の豆(大豆・小豆)、何にても一人につき俵数で五俵ずつの割り合いをもって銘々が貯えおいて、その余りに所持する俵数は勝手次第に売りいだすべし、この節ほど穀物の価格が高値なことは二度とあることはないだろう、誠に売るべきときはこの時である、すみやかに売って金となすべきである、金が不用なのならば、相当の利足にて預けのこすべきである。


 かついまの節に売りいだすのは平年に施すよりも功徳が多い。いずかた(方)へなりとも売りいだすべきである。一人・五俵の割合いに不足の者やまた貯えがないものの分は当方にてたしかに備えおくようにするのであるから、安心すべきである、決して隱し置くにおよばず詳細に取り調べて届けいだすべきである」


 そういって四千石の村々の毎戸の余分は売りいださせて、每戸の不足の分は郷の蔵に積み囲ったもの(を使い)、その余りは漸次(徐々に)倉を開いて、烏山領をはじめみな他領・他村へいだして救助をしたのである。他の窮乏を救うにはまず自分の支配する村々の安心するように方法を立てて、そしてから後に他に及ぼすべきである」


 ここには自分たちを救い、それから他の藩へと米を供出する金次郎さんの指示がのこっています。烏山藩で飢民が食べていたのは、桜町陣屋の米だったのです。


 かなり大胆な穀物の放出と、囲われていた雑穀の放出をされたこと、そしてちゃっかり儲けを取られたことが残されています。この頃のことについて、『報徳記』は次のように記しています。


 金次郎さんはさとしておっしゃった。


「今年、饑饉のために飢渇・死亡を免れることができなかったものは幾萬人、誠に悲痛のいたりに堪えないものである。そうであるのにおまえ達はこのように処置したがために、一民も飢渇の憂いはなく平年のようであった。これに安んじて安坐して食するときは冥罰のほどは恐るべきである。


 おまえ達は世人の飢渇を察し、朝は未明に起きて縄をない、日々田園に力をつくし、明年は培養の備えを厚くし、夜はまた繩をない、むしろをうち、来歲(来年)は十分の作をえれば、どの家もいよいよ永続の根本となり、天災は変じて大幸となることができる。必ず怠ることがないように」


 そう教えられました。


 三村の民は大いに感動し、もっぱら家業を勤め、また一段の福をえたのだといいます。


 このように『報徳記』は金次郎さんの言葉を遺したのでした。桜町陣屋へのこのような飢饉への対応の結果、金次郎さんの指揮する桜町陣屋の人々は大いに救われました。


 そして復興はなったのです。『報徳記』はそれを次のように記しています。


 金次郎さんは野州にいたってからは千慮・百計をおこない、興復・安民の良法をしいて、あるいは廃地をあげ、あるいは絶家を起し、窮民を救い、家屋を与え、衣食・農具・器財を施して、善人を賞するにはたくさんの財をもってし、直をあげてまがれるを除き、悪人・不直のものは自然に己が非をあらためて善行を踏みしめ、教えるに人道をもってしてみちびくに勤農をもってされたのでした。


 処置はおのおのその至当をえて、ついに民戸を増し、農力は大いにすすみ、荒蕪・数百町を開いて、往昔の四百有余の家数をもって稼穡していた田圃は、今は民力の勉励によって半数に満たない戸数をもって耕作され、なお田圃のすくないことを憂うるにいたりました、旧来の艱苦をまぬがれ、はじめて心を安んじ、その業を楽しむことをえたのでした。


 人心はおおいに和らぎ、人の憂いを聞けばともに憂い、人の幸いを聞けばともによろこび、憐恕れんじょの心が発動してすこぶる人倫の道をわきまえ、家々は親しみ、人々は和睦したのでした。


 はじめ良法が開業されて以来、この仕法をやぶろうとする妨害が百端あったため、七年の間に(金次郎さんは)尺(30.3cm)を進まれました。時には尋(5尺、約1.5m)を退ぞくようであって、成功はいずれの時に来るのだろうかと、心労は限りがなかったのでしたが、至誠の感じるところ、鬼神の助けるところにより、八年におよんで民心は一変し、おおいに旧染の汚俗をすすいで淳朴・実直の風に徳化が効果をあらわし、三・四年のあいだにこのような功業が成ったのであるといいます。


 ここにおいて先生は百姓たちの永続の道を計り、往古の盛時にあたって四千石の貢稅として三千余俵を出されました。この痩せ地の年貢としてはそれは度を越えたものでした。


 ここをもってこの衰極にいたった理由を察して、田圃の位に応じてその出粟あがりまいの多少を試算し、相当する自然の租税をさだめて七分免の年貢となし、二千俵をもって定額として宇津家の分度を確立されたのでした。


 これはその最初に小田原侯(大久保忠真侯)の命令を受けたときにあたり、土地の自然の年貢をさきに知って言上された数でありました。


 人々は金次郎さんの明知が始めに終りを計ったことの了然(明らか)であったことを驚感いたしました。


 宇津家は倍数の年貢を得て大いによろこび、村人もまた往昔の年貢から千俵余を減らしていただいた莫大の仁惠に感動し、ますます耕耘こううんに力をつくし、家々は足りて人々が年貢をいだす(給する)ようになりました。


 金次郎さんの積年の丹誠によって、三村は衰貧をまぬがれ、里に破壊のままの家屋はなく、田に草莽がのこることもなく、五穀は繁生して経界(境界、年貢の区域か)は正しく、道路は砥石のようで、水路の淺・深もそのよろしきをえたのでした。


 ここに『報徳記』は、金次郎さんの手によって復活した、生き生きとした村の様子を、ここに記したのでした。

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