老人を賞す

『報徳記』の続きをみます。


 金次郎さんはおっしゃいました。


「あなたは辞することがないように。私はこの地を再復せんがために多くの役夫を用いた。どうしてその人々の事実を察しないでいて、みだりに事をおこなうだろうか。


 あなたの数ヶ月の働きをみるにすべて自分の功積のあらわれることを欲しないようだった。おおくのものはみな起しやすい地をえらび、あらそってその開いた田の多い少いを示そうとする。


 あなたはひとり衆人がにくむところの木の根を穿うがち、力をつくして怠らず、人は休むけれども(自分は)休まず、このことを問えば「老人は力が足らないがために休まないのだよ」、と終日力を労してその労力(努力)も顕れないようにしていた。


 あなたは諸人の嫌らうところに力をつくし、木の根を穿うがつことは数を知らないほどである。平易(の地)の開墾にくらべればその労は倍している。このために開田がおおいにすみやかなることができた。


 これは全くあなたの正しくまことであること(正実、誠実)のなすところであるのだ。これすらも賞しないでいて諸人と共に同じようなことをしたように視たならば、これから何をもって土功(役夫の功績)をあげようか。


 あなたの家は貧なるがために他の邦にいでて労力していると申されている、そうではあるけれども、目前に与えるところの金子きんすさえも辞退している。その廉直は他の人のおよぶところではない。


 今、与えるところの財は天があなたの正しく実であるのを憐みおくだしなさったものであると思い、すみやかに持ちかえって貧苦をまぬがれ、老いを養うの一端ともなすのならば、私もまたこのことをよろこぶのである」


 そう教えられて、再びこの金子を与えられました。


 ここにおいて老人は金次郎さん(先生、二宮尊徳翁)の言葉に感動し、流涕(涙)して衣をうるおし、合掌・拝伏し、謝辞をつくすことができないようでした。再三、金をいただいてから故郷に帰っていったのでした。


 小田原の官吏も、村人も、共にはじめて老人の常人にあらざることを知り、金次郎さんの善人を褒賞することは厚いのであって、その意中の明敏なることを驚嘆したということでした。


 このように『報徳記』は着々と村々の復興がすすみはじめ、善人が褒賞されたことを記しています。


 このようにして金次郎さんは、一人、また一人と善を示し、善人を増やしていかれたのでした。


 またのちに金次郎さんは『二宮翁夜話』第百三十九「我道は至誠と實行 至誠則神の論」において、真面目に努力することを褒め、自分もそう努めていることを記されています。


 翁(二宮尊徳翁、金次郎さん)がおっしゃった。


「私の道は至誠と実行だけである。そのために鳥獸・虫魚・草木にも(影響を)みな及ぼすことができる、ましてや人においてをや。


 そのために才智と弁舌を尊まない、才智と弁舌は人には説くことができるといえども、鳥獸や草木を説くことはできない。鳥獸には心があるので、あるいはあざむくことができるといえども、草木をばあざむくことはできない。


 それ私の道は至誠と実行だけであるがために、米・麦・蔬菜・瓜・茄子についても、蘭や菊についても、みなこれを繁栄させることができるのである。たとえ知謀が孔明をあざむき、弁舌は蘇秦・張儀(いずれも中国の有名な弁舌家)をあざむくといえども、弁舌をふるって草木を栄えさせることはできないはずだ。そのために才智と弁舌を尊まず、至誠と実行を尊ぶのである。


 古語に「至誠神の如し」という、といっているけれども、「至誠はすなわち神である」とまでいっても、不可でないくらいである。


 およそ世の中は智があるものも、学があるものも、至誠と実行とがあらなければ事は成らないものと知るべきである」


 このように至誠と実行で金次郎さんはすすんで行かれるのでした。


 これらの至誠と実行が多くの人々を感動させて善に向かわせたのでした。


 しかしその金次郎さんを危機が襲います。それは飢饉でした。天保の飢饉が起こったのです。


 天保の飢饉とは、享保の飢饉、天明の飢饉とならんで江戸時代の三大飢饉と呼ばれるものであります。


 天保四年(1833年)の春から夏にかけて冷害が各地をおそい、東北、北関東地域が極端な不作にみまわれました。米の価格は高騰し、都市に生活するもの達の生計を圧迫しました。貧しいものどもには餓死者がでるほどでありました。


 幕府や諸藩はお救い小屋をもうけて対応にあたったのですが、庶民の怒りは爆発し、一揆に発展するもの、米の買いしめに対する商人への打ち壊しを起こすものなどが多くありました。


 この飢饉による打撃が回復しないうちに、再び天明七年(1836年)に冷害が起こり、大飢饉となりました。二回目に起こった飢饉では食糧の備蓄がすくなかったため、米の価格はさらに暴騰しました。また商品の買いびかえによる収入減で、さらに人々の生活が圧迫されることになりました。


 怒った人々は暴動を起こしました。甲斐の甲州一揆、三河加茂一揆などは大規模なものとなったとされています。


 幕府の政道にたいする不満も高まり、翌天保八年(1837年)には大塩平八郎の乱が大阪で起こっています。


 さてこの飢饉において金次郎さんの名が輝いたのは、やはり桜町陣屋における三村の指揮と、烏山藩における救済だったといえるのではないでしょうか。


 烏山藩とは下野国の烏山に居所を置いた藩です。はじめ成田氏、松下氏、堀氏が入封し、のちも板倉氏、那須氏、永井氏、板垣氏とその所属は諸事情により転々とかわりました。


 しかし享保十年(1725年)に近江から若年寄の大久保常春侯が二万石で入封され、その後には常春侯が老中となって相模国に一万石を加増されたことから三万石となられ、それからは以後八代にわたってこの地を守られ、明治維新を迎えられた藩でありました。


 なお宇津家の宇津教信さま(小田原藩主・大久保忠朝侯の三男)も書院番や将軍・綱吉公の御側衆を務められており、幕閣における大久保家の力は大きなものがあったと推測されます。


 金次郎さんの主家である小田原藩の大久保忠真侯から命があったのでしょうか、金次郎さんは天保の飢饉にあたり、烏山藩の救荒でも大活躍された様子が『二宮翁夜話』などにみられています。


 それらの事績は当時の金次郎さん(先生、二宮尊徳翁)がどのように飢饉に対応されたかの貴重な記録のはずです。それらについて、次から当時の様子をみてみることにします。


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