本家の再興について(善種金)

 さて次は金次郎さんの本家・二宮家の立て直しについて見てみましょう。


 二宮家の総本家は二宮伊右衛門さんという人から派生したものであり古くから名主格として苗字を許されていたとされます。


 金次郎さんはこの家の再興にとりくんだ旨、のち嘉永七年に総括されています。その内容について「嘉永七年 栢山村 伊右衛門式 家株 再興 田畑作徳 取扱方 治定書」というもので金次郎さんはまとめられています。


 これらの事績については『二宮尊徳全集』の第14巻に関連書類がまとめられています。


 第14巻には様々な書類がまとめられています。「はの4」には大量の田畑の売り買いの証文のたぐいがまとめられています。


 そこには二宮家の銀右衛門さん(金次郎さんのお祖父さん)、利右衛門さん(金次郎さんのお父さん)がたくさんの田畑を買っておられる様子がうかがえます。ただこれらのうち上田、中田は少なく、ほとんどが下田、下々田、新田になる開墾地で、かなり耕したり収穫するに困難な土地だったようです。


 お祖父さん、お父さん、そして金次郎さんの苦労がうかがえます。


 お母さんが亡くなられたときには一挙に田畑が別名義に書きかえられているようにもみえ、きびしい現実があったようです。


 金次郎さんはこれらの苦難をはねのけようと努力されます。『二宮尊徳全集』14巻の「はの6」には金次郎さんがつけられた金銭の出納帳が残っています。そこで編者(佐々井信太郎先生)が計算されたところ、はじめ文化二年に約三分二朱だった金次郎さんの家計の規模は文化十四年には約八十一両二分にまで膨らんでいるとのこと、その間によほどの努力があったと想像されます。


 そのうちには米の取引や人への金子の貸付と利子などがふくまれているようです。また金次郎さん自身の雇人としての賃金や田畑の収入もあり、お金を積みたて、他の人に貸して規模を大きくされたのかもしれません。しかし弟や祖母に送金をしたり、人の困窮を救われている様子もみえます。


 続いて本題の「嘉永七年 栢山村 伊右衛門式 家株 再興 田畑作徳 取扱方 治定書」をみます。素人としてみてみます、間違いもあると思います。


 記録は「本家 伊右衛門 一家 再興 相続手段帳」というものからはじまります。文化六(巳)年(1809年)・八月廿六(二十六)日から日付ははじまっています。漢字で書かれているので、言葉を補ったり、意訳してみます。


「巳年・文化六年(1809年) 八月廿六(二十六)日


 一 金二朱錢五百七文 栢山村 二宮伊右衛門


 右 本家の伊右衛門の式、年来つぶれまかりありそうろうあいだ、ぜひ取立とりたて(相続?集金?)申したく、同性(同姓、つまり親類?)一統くさぐさなげき談じ仕えそうらえども、田畑・山林・屋敷まで売りはらい、退転たいてんつかえそうろう儀につき、手段これなく、とほうにくれ、むなしくうちすごしそうろうところ、去る丑年(文化二年・1805年)はからずして心づき、売れ残りの屋敷の稲荷社の地がこれ有り、荒地のごとくまかりなりおりそうろうあいだ、垣を結び囲いを仕置きそうらわば、竹木生い立ち申すべきに及び示談して、年々手入れつかえそうろうにつき、とき成り案外あんがい生い立ちそうろうあいだ、切り取り売りさばき代金これを受取り、右の式禄を続け、これをもって一家取り立て相い続きの趣法しゅほう組立てもうしそうろうのこと」


 これは要は旧家の二宮伊右衛門家の相続のために金次郎さんが旧家の売れ残りの稲荷社の周りの竹林の竹を丑年(文化二年・1805)から売り払って、代金・二朱五百七文をえて資本としてとし、一家再興の資金とする、ということです。


 この金次郎さんが得たお金(金とよびます)は、増えます。


 これから見るお金(善種金)は、金次郎さんや親族の方々が本家を再興するためにみんなで集めて貯めたものでありますが、のち人を助けるために貸したり使ったものがお礼として戻ってきたり、寄付を受けたりして増えたのです。


 同年、文化六年(1809年)の十二月朔日ついたちに三分二百八十六文に増え、年末には一両になります。


 文化七年(1810年)の年末には金次郎さんの善種金は一両二朱永廿(二十)五文になっています。(永は寛永通宝のことかとも思うのですが、正確ではないかもしれません)


 そして金次郎さんはこれをさらに運営をされます。翌文化八年(1811年)には善種金は「一両一分永七十二文 五分」となっているようです。


 文化九年(1812年)には一族からの本家再興の補助米がありました。ただ換金はされていないようです。仏前にお米が供えられたりもしています。善種金は「一両二分廿(二十)文 八分七厘五毛」となっているようです。


 文化十年(1813年)には一族から本家再興のためにいただかれたお米が換金されます。年末には善種金は「二両永百廿(二十)四文 六毛三弗」となったようです。文化十一年(1814年)に金次郎さんご自身が借り、利子がついて「二両二分永八十五文 八分六厘七毛」になったようです。


 翌文化十二年(1815年)には、服部家から肴代をいただいたり、各村の浅右衛門、源蔵などのものに貸付をして、年末には「五両一分永三十九文 六分六厘九毛九弗」になったようです。翌年の文化十三年(1816年)の年末は「六両二朱永六十五文 二分六厘三毛三弗」になっているのではないでしょうか。


 ここからはさらにたくさんの収入と人への貸付にこの善種金はつかわれることになります。


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