照星《しょうせい》に女神《めがみ》は嗤《わら》う

トオノキョウジ

一.

 ラクシュミー・バーイーは腕の力を引き絞り、その男の口づけを辛うじて引き剥がした。まるで喉から胸を一息に灼き融かす酒のようなそれを、彼女は今振りほどいたばかりだというのに、心の内ではどうしようもなく欲している事に自身気付いていた。

「お願い、やめて。サー・ローズ」

 闇夜の元に静まり返る青き城砦、グワリオール城の一室で。心臓の奥から沸き出でるこの身の熱をせめて悟られまいと、ラクシュミーは必死に声を押さえ付けながら、吐息を漏らすようにそう呟くのが精一杯だった。

「申し訳ない、マハラニ・ラクシュミー。だが、私は」

 男の青い両の目は、ラクシュミーのガーネットの瞳を貫き、胸の奥底を一直線に刺すようだった。男は初老の軍人、イギリス陸軍少将ヘンリー・ローズ。彼の言葉と視線そのひとつひとつに、熱さを帯びてゆく自分の女の身体と心。ラクシュミーにはそれが憎らしい。

 恋の火種ではないだろうか。自らの内に火花を散らし爆ぜるその小さく強い灯火に、ラクシュミーはまさかと困惑し苦悩した。本来であればその男は、憎み合い、互いに戦いの火を交える仇敵であるというのに。

 小さく震え艶めく唇を開き、ラクシュミーは辛うじて言葉で抗う。

「貴方は確かに、この反乱の中で敵である私を何度も救ってくれた。感謝もしているし、貴方がそれで地位を失った事も申し訳ないと思っている。でも……それでも!」

 全身を打ち据えるかのように鼓動は強まり、必死に連ねたラクシュミーの言葉を阻害する。喉が渇く。彼女は自身に言い聞かせる。落ち着くのだ、ラクシュミー。兵と民を率い誇りを護るべき将であるならば、冷静に、冷徹にならなければ。

 だが男は構わず女に詰め寄る。男の言葉は少ないが、ただ追い詰められたような情熱だけがラクシュミーの肌を焼くようだった。赤い英国軍服の胸の勲章が、蝋燭の火を照り返して煌く。

「マハラニ、私が貴女を苦しめている事はわかる。敵同士であったり、その……貴女が人の妻であった事も、私は知っている。それに、父親程も歳の離れている老いた私が、貴女を欲するなどと」

 ローズの言葉は、会談の場で耳にするそれとはかけ離れ、つたなく不器用で、だがあまりに熱情に溢れていた。こんな声が、石の壁を透して城の誰かに聞かれてはいまいか。不安がラクシュミーの心拍を尚かき乱す。再び腰に回されたローズの大きな左手を、彼女は払いのける事ができない。

 そしてローズは突如として、己の胸の勲章の全てをもう片方の手で毟り取り、乱暴に床に叩きつけた。

「私はもう、国を捨てよう。そしてこのグワリオールが陥ちる前に、インドを離れよう。だから、お願いだマハラニ! 私と共に、来てはくれないだろうか」

 その想いをラクシュミーにぶつけるローズ。彼の潤んだ瞳の奥に揺らぐ蝋燭の炎に、ラクシュミーは見惚れる。彼は最後にそっと彼女の名を呼び、答をじっと待つ。ラクシュミー。

 求められる事の喜びに打たれ、ラクシュミーは自らの瞳がじんと熱くなるのを感じる。身体と心を直に火に浸すようなこの火照り、夫を喪って以来久しく覚えた事のなかったこの感情。くんと引かれて倒れこんだ男の腕の中で、ラクシュミーはブラウスの胸をぎゅっと押さえ、せめて荒ぶる鼓動を鎮めようと息を深く吸う。

 恋などと、もはやどこかに置き去りにしてきた物だと思っていた。

 母であり妻であった彼女は、子を喪い、夫を喪い、そして祖国を奪われた。悲しみを同じくする同胞や民の為に、彼女は剣と銃を手に騎馬に跨り、数多の戦いに身を投じてきた。

 故に彼女は忘れていた。自らが女である事を。そして、その絶対の事実に冷静さと理性を支配されぬよう、抗う為の術を。

「貴女のつらさを、私は少しでも分かち合いたいのだ、マハラニ。陳腐な言葉しか思い浮かばず、その、恐縮なのだが。これからは私に、貴女を守らせてはくれないだろうか」

 今の彼女に、男のまっすぐな優しさと愛の言葉はあまりに甘美だった。闘争の偶像、反英の旗手として徹底抗戦を唱え続けてきたラクシュミー・バーイー。インド大反乱終焉の間際にあって、彼女は疲労し切っていた。

 しんと冷たい静寂が、再び部屋に満ちる。蝋燭の小さな火花だけが、ちりちりと囁く。

 1858年6月16日。東インド会社直属部隊とイギリス本国から派兵された陸軍による、グワリオール城攻略作戦前夜。

 壁画の青いガネーシャが見守る下で、ラクシュミーはとうとう、抱きしめられるままローズの暖かな胸に額を預け、子供のように泣き出したのだった。

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