第3話 黒海老

 おじいさんと瑠璃が営んでいる釣り宿は「黒海老」というのが屋号で、これはテンカラ釣りというフライフィッシングの釣法で使う毛バリの名前からとっていました。

 鮎釣りに使う毛バリにはいろいろあって、金熊、清滝、草笛、華厳、源氏車…等々それぞれの銘柄の特徴をわりと文学的に表現した名前がついていて、「黒海老」もそのひとつです。釣り宿は「日置川」という鮎釣りの名所のほとりにあって、この辺りはかなり流れの透明度が高いのがウリなので、「黒海老」という毛バリが有効なスポットなのでした。そうして、おじいさんの名前が「黒田海平」なので、これはもうこれ以上ないくらいにドンピシャの命名だったのです。


 釣り宿のすぐ隣には、鮎を養殖する生け簀が作り付けてあって、ここで育てた鮎を友釣りのの「おとり」にしたり、釣り客のお土産にしたりするのでした。

 

 瑠璃にもテンカラ釣りの面白さ、醍醐味を味わわせてあげたいと思って、ある日おじいさんは生け簀の鮎で、瑠璃に毛バリ釣りを手ほどきしていました。

 「こうやって、な?重りとテンビンとテグスを細工して仕掛けを作るんじゃ。毛バリはもちろん”黒海老”。」おじいさんはニッと微笑わらって、鈍く光る小さくて綺麗な毛バリを撫でました。形状はちょうどカゲロウのようですが、毛の色は黒で、赤い糸と緑の糸が少し混ざってコントラストをなしていました。透明度の高い清流では一撃必殺のごとくに鮎を惹き付ける、いわば魔法の宝石のような毛バリでした。

 「普通のフライフィッシングのようにキャストはしない。軽く水面から仕掛けを水底まで沈めていくんじゃ。底にいったん着いたら、ゆっくりと今度は水面に向けて引っ張り上げていく…」

 おじいさんが手練の技で竿を操ると、透明な生け簀の中で黒海老がちらちらときりもみしながら踊ります。その微かな光めがけて一斉に俊敏な動きで鮎たちが上昇して群がります

 キタッ!魚信アタリだ!次の瞬間、生け簀の底がドラマチックに反転して、黒海老の媚態に魅せられて引っかかった美しい鮎のしなやかな銀色の胴体がぐなぐにゃと激しく暴れ出しました。少時の格闘ののち、20センチ大の美事な鮎が釣りあげられました…

 「釣れた!」瑠璃は歓声を上げました。

 鮎はマス科の魚なのでシャケのごとくに少し鼻の先が湾曲しています。

 体躯は細くて流線型で、大きすぎず小さすぎず、理想的に均整がとれている。

 ヌメっている全身はツヤツヤでピカピカで、「銀鱗」という形容がぴったりの本当に新鮮で綺麗な色合いをしています。

 新鮮でぴちぴちしたものの代名詞…「若鮎のような」は生きている鮎を目の当たりすれば誰もが納得する、極めて的を射た絶妙の表現という気がします。

 







<続く> 

  

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