口小さきキリスト

口小さきキリスト

        


silly


 愛するくらい簡単な事だと思っていた。

「フー」

赤内あかないレルはホテルに着くなり寝た。

寝ころがったまま手帖を広げた。

床尾容莉枝とこおよりえ、・・女、か・・」

ビジネスホテルで何ヶ月も身許不明の行旅死亡人、火葬は市で済ませた。

レルは一人で取材に来た。

発見者はルームキーパーとベッドメーク。

「トイレで倒れてたのか」

仰向けになって手帖を見上げた。

レルは背広の他にアクリルセーター一枚しか持って来なかった。早く帰れるだろうと思っていた。

「まあ、見に行ってみますかね」

レルは鞄に入れておいた熱海の地図を広げた。


そのホテルは下に川が流れていて、風光明媚といった所だろう。温泉を売りにしているらしかった。

温泉街の内の一つで、マンションのように同じような旅館が建ち並んでいる。蒸気は温泉から来るのだろうか?

「取材拒否ですか?」

そのホテルのエントランスで誰か言い争っている。

同じ新聞記者だろうか?

男はまるで釣りに来たかのような服装で、胸元にはカメラを垂れ下げている。

それが追田おいだたけるだった。

「いいですよ、もう」出てきたたけるは遠景からホテルの写真を撮って、川沿いの柵にもたれかかって煙草に火をつけた。

「入れませんか」

レルが声をかけるとたけるは煙草を踏んだ。

「何、あんた」

「新聞」

「ああ、ブンヤか」たけるは横を向いて、足を揺らしている。

「記者の方ですよね」

「俺は雑誌社、ブンヤとは違うよ」

「やっぱり例の一件で?」

たけるは眉をそびやかした。

「ここのばあさんが何のって、記事にはならないでしょ。ブンヤは違うだろうけど。俺は夫殺しの取材に来たの」

「でも、何でここに」

「興味半分」たけるは笑い顔をした。

近くで妻が夫を刺し殺したらしい。

「不倫?」

「まあね」

たけるは手帖を見ながらペンで頭を小突いた。

「パン切り包丁で首をグサリ」たけるはまた笑い顔をした。

取材が取れないのならしょうがないな、とレルは思っていた。

手持ち無沙汰で手帖をパラパラやっていると、たけるが近付いてきた。

「メモ合わせってやるんだろ? ブンヤは」

「でも、私、引き換えるものがない」

「いいよ。あんたより早く来ただけだよ」たけるは手帖の走り書きを見せてくれた。

「さとえって誰ですか」

「ああ、それはこっちの事件」たけるはまた煙草を吸っていた。

「あの、グサリのね」

「つまり不倫相手」

たけるは肯いた。

「ホテルがいいとかたくなに拒否、ホテルに約五年間滞在、金はちゃんと支払っていた・・」

資産家と書いてあって、「?」がしてある。

「それ以外は全て嘘ってわけ」たけるは手帖を返してもらった。

「床尾も?」

「偽名だろうね」

いつまでも川を見ててもしょうがない。

レルはたけると別れて街を歩いてみた。古き良きってやつですかね。

たけるの手帳には他にも気になる事が書いてあった。

「普通と普通じゃないの国境」と書かれた下に幾本のボールペンの線が引いてあった。

どの事件にも関係ないと思うのだが。

他の旅館に行っても、その事は知りませんと首を振られた。

レルは自分のホテルに帰ってきた。

熱海銀座の近くだ。

今日の夕飯でも買いに行こうかとアクリルセーターに着替え、歩いてみると、商店街の中には温泉卵も温泉まんじゅうも売っていた。

ブンヤという言葉を久々に聞いた。

何か侮蔑したような響き。

スーパーを見つけてカップラーメンとパンを買って帰ると、平行線の飛行機雲が見えた。

「普通と、普通じゃないか」何か知らないが自分もたけるの真似をして手帖に書き付けて下線を引いた。いつも手帖を手離さないのは新聞記者の癖だ。

部屋に戻るとカップラーメンだけを食べた。

「文責は私でいいですよ? ただ、モノになりそうもありません」社から貸し出されたフィーチャーフォンで連絡だけをする。

喉が渇いた。

レルはベッドから起き上がって、鞄から煙草を取り出して、一本に火をつけた。

一人の時は吸う。

キャリーバッグを持って来ることもなかったか。中には下着と替えのシャツ、パソコンまで持って来た。

煙草を吸い終わると肩に力が入らない。こんな所に五年間も。もう少し広かっただろうが。

レルはベッドに座って、下を向いて、しばらく考えた末、コンヴィニエンスに行った。

ブラックニッカが売っている。小瓶を買って、海まで歩いた。

最後の冬の波。レルは海を触ってみた。

波が壊れる。手に付いたのは砂。

レルはそれを払って、ズボンの背で粘着質な海の水を拭いた。

ベッドに帰ると、ブラックニッカのキャップを開いて匂いを嗅いだ。そのまま口飲みをした。

煙草より久々だ。

上機嫌になることはない、ただ悲しくなるだけだ。

レルが私用で使っているのもフィーチャーフォンだ。忙しくしてるのでたまに連絡を取るぐらいのことにしか使わない。

ブラックニッカをもう一口飲んだ。もう半分しか残ってない。キャップを閉めて机に置いた。

冷蔵庫に入れておいたパンを取って、ちぎって食べた。半分残して机に置いた。

机には小さなテレビが据え付けられていたので何かニュースでもやってないかとつけた。テレビの中はいつも昼だ。

ホテルの部屋はどうしてこうも暗いんだろう。間接照明だけでまるで海の底にいるみたい。

明日は何とかして情報を聞き出さねば。そうか、容莉枝の家族を装ってもいい。あの部屋に入れてもらい、警察に聞き出してもいい。

容莉枝の写真と、遺留品。

テレビをつけっぱなしにして音を消した。

深く眠れるだろうかと目を閉じたがそんなに疲れてないせいか眠気は起きなかった。

レルは風呂に入ってシャワーを浴びた。髪を絞っている間、容莉枝の金はどこから来たのだろう、と考えていた。大金を持ち歩いていたのか、預金通帳は?

本名でも分かれば、レルは髪をバスタオルで叩いた。

備え付けのクローゼットには浴衣のような寝間着が入っている。ハンガーに背広をかけて、アクリルセーターをくちゃくちゃにして下に置いた。

ブラックニッカのもう半分を飲み干すと、うつ伏せにベッドに倒れ込んだ。

たけると引き換えるものがあった。

「家族バラバラ事件だ」

赤ちゃん投げ落としの二件の事件を追っている間にここに来たのだ。

もうたけるとも会うことはないだろうと思っていた。

これは事件ではなさそうな気がする。

パンの半分は朝食に取っておこうと思って、テレビを消した。

「アアアアア」と何羽ものカラスが外で鳴き合っている声がする。

明日は早く起きる、と念じながら寝に入った。

明日が来なくなるというのが死なのか。

同じ話をするように昨日と同じ明日が来る。


 朝駆けをやるのは久しぶりだ。レルは朝早く宿を出て警察署に出向いた。アクリルセーターに背広のズボンという出で立ちだ、下は革靴。

「さっきお電話した者なんですけど・・」

すぐに担当課の職員が来た。

「どこから?」

「ええ」

「・・わざわざ遠い所から・・」

通されたのは部屋だった。その前にはお骨が置いてある。

「お母さんですか?」

レルはまず手を合わせる。いつの間にか後ろに男が一人増えていた。恐らく刑事か何かだろう。

お骨の前の机に座らされた。

「赤内レルさん」

その男が言って、ほれ、と一枚の写真をレルに手渡した。

容莉枝の死に顔だった。眠っているように穏やかだ。

「これだけじゃちょっと・・、何年も会ってなかったので」

白髪混じりの髪は整えてある。

男は肯いて、もう一つのビニール袋から緑色の、預金通帳を出した。

それをレルに見せる。

「床尾相様」と書かれている預金通帳だ。

開いてみる。

「トコオアイ」

男は肯くと、それを取り上げ、「お母さん?」と聞いた。

レルは首を横に振った。「違います」

金は見えなかった。それにしても・・。

「確か容莉枝って」

「嘘、・・つかれても困るから」男は預金通帳をビニール袋に丁寧に入れた。

じゃあ住所も分かっているはずだ。銀行に問い合わせたら簡単だ。

「その前はどこに住んでたんですか」まだ諦めきれないという様子をしてレルは聞いた。

「・・の一―6」

熱海ではない。それどころかレルの勤める新聞社でも行ける所だ。

「ずっと前の契約だけどね」男は預金通帳を背の後ろに置いた。

「どうして」

男はしばらく黙って、「そこには誰も住んでないの」と口を濁した。それ以上は言わないようだ。

「何を待ってるんですか」

「夫」男はお骨を見ていた。

「信じられる? この人は一生で貯めたお金でホテルに泊まってたんだよ、750万。カツカツだったよ。この通帳が示すのは名前だけ」

今度はレルの前の写真に目を落とした。

「予期でもしてたのかねー」

わざとあやふやな情報にしているのだ。

これは、あつらえた事件だ。

「この人には、人生がなかった」

警察署から出たレルは急いで手帖を出し、署の前の花壇の縁で走り書きした。

「バラしますよ」たけるは写真をヒラヒラさせていた。

「ご家族に」

今はさとえしか家にいない。

「あなただけお咎めなしじゃおかしいでしょう。僕、そういうの許せないんですよ」

さとえは固くなったままドアノブを握っている。

「何すれば」

たけるは写真をポケットに入れてさとえの手を握った。

「僕と関係を持つというのはどうでしょう。お金より簡単でしょう、あなたには」

さとえはきつく目を閉じた。

「・・お断りします」ドアは閉じられた。

レルはホテルでパソコンをつないでマンションの画像を見ていた。

ここに住んでいたというのは考えられない。今のトレンドだ。

レルは築年数までは見なかった。

夫を待つ、か。他には理由はなさそうだった。身よりなしということか。

初めから見透かされていたのだ。

一人で生きてきた。

「人生がなかった、か」レルは手帖を広げた。

今すぐ帰るべきだろうか。しかし、住所を当たっても何の役にも立ちそうになかった。

手帖の前のページには普通と普通じゃないの国境と書かれている。

夫が見つからないということは預金通帳は旧姓のまま?

同僚のふゆが「人生は平等には訪れない」と言っていたことがある。

レルはまた煙草を吸った。

テレビではテレビショッピングがやっている。レルは靴下を履き替えて熱海銀座に行った。

潮の香りがする。

店先のラジオから「恋の季節」が聞こえてくる。

「浮かべて泣いたのわけもないのに・・」

「ブンヤさん」

バッタリ出くわしたのは追田たけるだった。

「お土産、買って来ようかと思って」

「何かいいの取れたかい」

「いやあ、まだ全然」

たけるも同じように店先を覗き込んで回っている。

レルは店に入って手拭いを選んでいた。

「これなんかお洒落だなあ」レルが手に持って伸ばしたのは瓦の柄の手拭いだった。

「熱海にもお城があったんだあ」

それを何枚か買って紙袋に入れてもらった。

富士山が見える。

レルは近くの寺社でたけると並んで座ってサクサクした洋菓子を食べていた。たけるは缶ビールも飲んでいる。

「何であんな事書いてたんですか」口元に付いた粒を落としてレルは聞いた。

「ん?」

「普通とか普通じゃないって」

「んー、難しいな。気になった事は書き付けておく。後で何かの役に立つかも知れないし」

たけるの飲んでいるビールは冷やされてなかったので泡だけになってるはずだ。

「答えは出たんですか」

「普通ってのは、気にすることがなさすぎる、ってことだね。感じないだけなんだよ。普通じゃないが分からない」たけるは首をひねった。

「何でそんな事、気になったんですか」

「ブンヤには分からないよ」

「へえ」

「女ってのはレイプ願望があるってのは、あれ、本当かね」

「いきなり何ですか」

「いやあ、気になっててね」

「私も気になってることがあるんですよ」レルは手に付いた粒を払って天然水を飲んだ。

「へえ、何かな」

「キリストってどこにいたのかなあって」

たけるは笑っていた。

「キリストは新約でしょ。エデンの追放は旧約聖書なんだからキリストもエデンの東にいるんじゃないの」

「おかしな事、気にするねえ」

「どうしても分からないんですよ、二つに分かれてる意味が」

「書かれた年代だろ」

「じゃあ、どうして一つにまとめるんですか」

「どっちを信じてもいいようにじゃないかい」

「私も詳しくないですけど」

「俺も」

たけるは鼻をつまんで手で鼻をかんだ。

「俺は百姓の息子だからね。いつまでも土臭いのが好きなんだ」

「そっちの夫殺しの方は土臭いですか」

「まあね」

たけるは缶ビールを飲み干して放った。

「あんたともこれが最後だろうな。元気でな」

たけるが去った後、レルは缶ビールも拾ってレジ袋に入れるとホテルのゴミ箱に捨てた。

レルはベッドに座って、初めてブラジャーを見た日を思い出していた。レースの。

これから毎日これをハめて歩くのか。

大人になって化粧もほどほどにするようになったがそうやって自分が何をしたいのか分からない。

写真で見た容莉枝はムーンフェイスをしていた。何か薬でも飲んでいたのだろうか?

彼女にとって人生そのものが旅行だったのか。

誰の苦しみも比べられない。

「床尾は偽名じゃなかったのか」レルは座ったままでベッドに体を投げ出した。

そのまま靴を脱いで、靴下も脱いだ。

テレビでは戦国時代をやっていた。

私と同じ名前に会ったことがない。

何もかも棚ざらしになったままで、今夜は眠れそうにない。

テレビの音を消して、私物のフィーチャーフォンを見てみた。

「母」の字がある。

社用のフィーチャーフォンは使い過ぎて塗装が剥げている。この手帖も同じだ。

手帖は就職祝いに母が買ってくれたものだった。

最初のページには自分の名前とこの私用のフィーチャーフォンの電話番号が書かれてある。

思い切って母に電話して耳に当てた。

もう寝てるのか、離れて置いてあるのか出なかった。

留守番電話に代わる前に切った。

ずっと気になってたんだ。

お母さん、お父さんが怖いんだよって泣いた事があったよね。

あれ、どういう意味だったの。

東から太陽が上る前にレースのカーテンを開けた。

昔の自分に母を見つけられるかも知れない。

分からないことがいいことなら誰もが知りたいと思うだろう。

人間は塗装が剥げてオード色だ。

それは、マリアの自己嫌悪なのかも知れない。

鞄の中を探した。多色ペンで手帖の「普通」の文字を消した。


Easter


「そうです。赤内レルです」

寝覚めはいつも嫌な事を思い出す。

レルは身分を明かしていた。

「部屋に入らせてもらえないでしょうか」

耳が聞こえないほどの雨の日だった。

あの、刑事と思しき男がついて来た。

「この人、大丈夫だから」

エレベーターに乗る。

「やっぱりあんたブンヤだったか」

部屋のドアには何も書かれていなかった。

「サービスルーム、プライベート、ま、倉庫だよ」刑事は鍵を開けた。

部屋はきれいに後片付けがされてあった。

ここで五年。

「出かけなかったんですか」

「ほとんど」

防音がされてて雨の音は聞こえてこない。

ただ、下の川の音が聞こえてくる。

レルは手帖を手に見て回った。

「トイレで倒れてたんですよね」

「トイレに入ろうとしてたとこだ」

じゃあここか。レルはゆっくりしゃがんでみた。

「事件性はない」

茶色い雨が降っている。

「最初からその方針で?」

男は肯いた。

「何か証拠でもあるんですか」

刑事は何か紙を持って来ていた。

「これが隠し玉」

見せたのは医師の診断書だった。

「診てもらってたんだ、それでこっちに来たらしい」

「見せてもらってもいいですか」レルはそれを受け取った。

そこには走り書きで「うつ」「アルツハイマー型」と識別できる文字があった。他は医療用語で見えない。

一瞬、手帖を忘れた。

「アルツハイマー・・」

「うつが先なのか、アルツが先なのか、それは書いてない」刑事は窓枠に手をかけた。

「症状としては過食症だ」

刑事は窓を開けた。

「何も分からなくなって、ホテルにいたかったんだろうよ」

雨の音でよく聞こえなかった。

「まだ聞きたいことがあります」

レルはピシャリと窓を閉めた。

「お子さんはいなかったんですか」

「いたよ」過去形だ。

「誰にも見過ごされるようなベタ記事でね」

「教えてもらえませんか」

刑事は笑って、口を濁した。

社に戻って資料室に行けば何か分かるかも知れない。ただ年代が分からなければ誰の手も空いてないのだ。

レルは手帖にアルツハイマーと書いて、二人はスタッフオンリーの部屋を出た。

傘を差して川を上る。

季節外れの台風だろうか。

川は風のように流れている。

「お手数おかけしました」

刑事には聞こえなかったのか、横の旅館の並びを見ている。

旅館はそれぞれ高台にあって、そそり立つ崖のようだ。

こんな時でも困らないようにしているのだろう。川に飲み込まれないように。

消えたい、のかも知れない。容莉枝は何を思ってここまで来たのだろう。だんだん記憶が薄れていく中で、この雨の中で。

刑事の乗ってきた黒塗りの車に同乗した。レルは傘の雨を落とす。

車の中は無言で、行き慣れたような道を、坂を、車はゆっくりゆっくり下ってく。

レルの目は震えていた。ただ窓の外を見ていただけだが、どうしても運転する男の方を見れなかった。

普通と普通じゃないの国境を越えようとしている、そんな気がした。

「このこと書くの?」

刑事は片手ハンドルだ。

「またベタ記事かい?」

「多分」

刑事もレルの方を見てないようだ。

高架の下を通る。短いトンネルのように車の中が一瞬、暗くなった。

「イースターだ、何だって、何で旧正月は祝わないのかね」

寝不足の目を押すと目の裏に花が咲く。ヘバってる場合か。

「どこまで送ればいい?」

「ああ、そこら辺のコンビニで下ろしてください。パン買っていきますから」

「酒じゃないの」

「え?」

「いや、あんた始め来た時、酒の匂いがしたよ」

「ああ、ブラックニッカ・・」

「そうでもしなきゃ来れなかったのかって、迫真だったね」刑事は笑った。

コンビニの横に付けると、振り返る間もなく車は元の流れに戻っていった。

甘いパンと辛いパンを買って、新聞を買う。

顎が太ってきた。

容莉枝がもしこうなる事を知っていたなら、SF、スペースフィクションだ。

ジストピアだ。

イースターはイエスから来てるのだろうか。

イエスがいなかったら東もないわけだ。

小さなホテルに着いてから新聞を広げる。

相の名前はどこにもなかった。

レジ袋の中に財布を入れるのはいつもの癖だ。

アンパン。禁止薬物だ。

あの時、暗くなった車内で自分で見た顔はいつもと違う横顔だった。

水のように、黒いトンネルの向こうで天母のため息が漏れる。


 夜、原稿を書きながらニュースを見ていると地方ニュースに切り替わった。

「容疑者はその後死亡。ストーカー相談にもたびたび訪れていたとみられ、対応の・・」

レルは口を開けていた。

容疑者というのは追田たけるのことだった。

レルは手帖だけ持って取材に行った。

ストーカー殺人だ。

たけるが女を刺し殺した。

現場には案の定、取材の群れができていた。暗い住宅街だ。まだ赤色灯が回っている。

あの刑事がいた。レルは少し頭を下げた。

「どうなってます?」近くの新聞社の者に聞いた。

「よくある事件。家庭がある容疑者が同僚をストーカーした挙げ句。彼女を殺して自分も死のうと」

「容疑者はどこで?」

「雑誌社の者だったらしい。風呂で死んでたんだと」

「自宅の?」

男は肯いた。

「毒ガス発生中。目張りされてたんだと」

レルはため息を吹いた。

「ベタ記事だな」聞いた人はもうカメラの三脚を片付けようとしている。

「上司にも相談してたらしいよ。被害者」

「それでも?」

肯いて肩にカメラを掛けた。

「二人は付き合ってるの? だとよ」

早く帰らなきゃ。午前中には容莉枝の記事を上げたい。

暗い中で一人、そぐわない人がいた。

近くの主婦が見に来たようだが、心配そうな顔をして手は胸で組んでいる。

たけるの関係者かも知れない。

「あの・・、」女がおずおずと話しかけてきた。

「あの人の取材ノートとか残ってます?」

女は心配そうだった。

同じ女のレルに話しかけてきたのも肯ける。

「何かありましたか?」

「私、あの人に、その」

女の名はさとえといった。

「ゲス野郎」さとえの話を聞き終わらない内にレルは呟いた。

「あなたのことが表沙汰になることはないと思います。あっちも困るでしょうから。この事件は終わりです」

「ああ、良かった」

さとえは少しスキップをして帰って行った。

レルはホテルの部屋の荷物を全部まとめて、その足で帰りの電車に乗った。

上はアクリルセーター、小さなお尻にはラングラーを穿いている。

誂えた事件だった。これを記事にしてもどうにもならないんじゃないか。

眉間に指を当てて考えていた。手帖の中身はほとんど頭に入っている。

電車の中がうるさかったので、手拭いを巻いて寝た。

皆、通勤の夜明けだ。

駅でたけるの雑誌社の雑誌を買った。後で読んでみようと思う。

あまり喜んでもらえなかったが、手拭いを配った。

「・・一―6、知ってます」

西弥生子(にしやえこ)に会わせたのは真神まがみふゆだった。

そのマンションでは倉庫になっていた。建て替えられたような、そんな容莉枝の住んでいた部屋。

「弔ってやらないとな」ふゆはしゃがんだ。

レルは白い磨りガラスの窓に寄った。露を指で落とした。

ふゆはこの部屋の鍵を西に返すのを忘れたようだ。

マンションから出て、道を歩く。

まつりの糸がゆっくり解けるように事態が揃った。

「すぐ戻る」ふゆが社用のフィーチャーフォンを手にどこかへ行った。

たけるの雑誌でも小説をやっていた。一話読んだだけでは分からなかった。

夜通し働いていたので日光が目に痛い。

住宅街の中にパン屋がある。

レルは入ろうかどうか迷った。

赤ん坊を殺して、容莉枝は自分の記憶が薄れていくのを待っていたのかも知れない。パンドーラーに残っていたのは死だ。

記憶が薄れていくことは砂を足で蹴散らして海がなくなるのだろう。

この線路色の空は煙草の燃えカスみたいだ。

車が横へ左へ流れていく。レルは財布を見た。記事が間に合わなかった罰金でパンを買おうか。

レルはパン屋に入ってフランスパンを買った。レジ袋に財布を入れた。

ふゆにパンを持たせ、マンションを見上げた。住宅街の屋根の上から目立つマンションの容莉枝と赤ちゃんが住んでいた部屋の窓が見えた。

車の列が横断歩道で待っている。黄色い帽子の小学生たちがしっかり手を上げて渡って行く。

こんな世界にしたのは誰なのか。

自分の目が自分の目じゃなくなったような寒の戻り、通る車も先が見えない交差点を見てた。

ありがとう、に続く言葉がなかった。

自分がバラバラになるような不安を感じてレルは自分の体を抱いた。

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