13.一本目のピトン-1

 異世界に来て早五年。

 一番の感想はなに?と聞かれたら、こう答えると思う。


「精神は肉体によって定義される」。


 ここ数年、それを肌で感じない日はない。


 中年男性教諭としての記憶とアイデンティティーを保ちながら、私はあらゆる面で既にギルフィーナという名のダークエルフの少女となってしまった。


 まずは言葉遣い。


 思考する分にはおよそ問題ないが、口に出す途端どうしようもなく幼女語に翻訳される。

 驚くと「わわ」とかナチュラルに言い、遺憾の意を示す際に「もん」を付ける中年男性は余りにもいかがなものかと。


 最初は死ぬ気で矯正しようとした。が、私の努力は見事に無駄であった。

 肉体から来る情報にはどうしても勝てなかったのだ。

 元の……私が来る前のギルフィーナの口調かもしれないが、おかげで今も妹の前でいまいち威厳を保てずにいる。


 次点に、物事への直感と見方。


 教え子に対してはもちろん別だが、自分の事となると若干ネガティブになりがちな私とは対極的に、「ギルフィーナ」は見事な楽天家であった。


 具体的に例えると、「半分しかない」と思っていたコップの水に対し、今は「汚染されてない綺麗なお水!やったぁ!」と思うようになっている。


 ファデラビムに流れ着くところから見るに、元のギルフィーナちゃんも大変だったと思われる。日常に散りばめられている幸せの欠片を素直に喜ぶ心を大事にすることにした。


 お気楽と言われればそれまでだが、ポジティブなのは別に悪い事ではないので、こっちはむしろ歓迎な変化であった。


 そして、最後。

 免れようのない、女性としての感性。


 例えれば、そう。


 朝起きた時、全裸の教え子により抱き締められ、その豊満な両モモをこちらの足に絡ませ、感触を楽しむように滑らかな玉肌をすり寄せて来てもパニックはしないのである。


「またかー」といった感想であった。

 まさに今起きているイベントだ。

 いまだ男だったらそれはもう色々と大変な事になる。


「おはようございます、先生」


 蠱惑的な囁きと共に、熱を帯びる吐息が耳元を撫でる。

 音のする方に顔を向くと、頬を紅潮しながら深い呼吸を繰り返すグレちゃんがいた。

 知ってた。


 グレちゃんは星の数のように良いところがあるが、スキンシップが激しすぎるのは少しだけ頂けない。

 全裸で夜這いならぬ朝這いをかけられては、例え同性同士でも、私じゃなかったら性的な意味合いを感じ取っていたのであろう。


 だがしかし、大丈夫だ。

 前世の宗教絵から得た知識なのだが、天使は基本全裸である。

 つまりこれはグレちゃんにとっての自然体なだけで、そういった感情ではない事を先生である私はちゃんと把握している。


 先生、分かってるから。辛いでしょう。

 社会によって衣服を纏う事を強制された、かわいそうなグレちゃん。

 私も前世、家にいる時パン一だったりする。

 せめて先生の前では好きな恰好でいていいのだ。教師は聖職者。教え子に邪な念を抱く事はあんまりない。


 でもね。

 パーソナルスペースってのは、大事だ。


「グレちゃんさー」


「はい、先生」


「例え話だけどね」


「はい、先生」


「額をさする朝の日差しにより気持ちよく覚醒しつつも、水面に漂っているような微睡みに身を委ねていられる、そんな至福の一時をエンジョイしている真っ最中」


「はい」


「ふと、全身に伝わる柔らかな微熱を感じた。なんと!昨日の就寝前、明らかになかったなにかが、お布団の中ににゅるり!」


「ええ」


「これ、どう思うのかな?」


「素晴らしい語彙力かと存じます、先生。先生が詩集をお出しになられたら、必ず買い求めたいと思います」


 違う、そうじゃない。

 グレちゃんのやっている事は軽くホラーだよって婉曲的な表現で言いたいのだ。


「女の子同士でも距離感ってモノがねー」


「先生とならマイナス距離でも大歓迎です」


「うーん求めてる答えとは違うかな」


 エキゾチックな魅力を醸し出すエメラルド色の双眸がぐるりと回り、顔を半分枕に沈めているグレちゃんは挑発的な流し目を披露した。


 先生に向ける目じゃないのでやめなさい。エッチだからやめなさい。


 ふぅと私の敏感なエルフ耳に向けて息を吹き掛けるのをやめなさい。


 割れ物に注意深く触れるかのように、その一番柔らかい部位を使ってこっちをくまなくぱふぱふするのをやめなさい。


 今行っているあらゆるおいたをやめなさい。


 純粋なグレちゃんには自覚がないとは思うけど、あえて言語化しよう。

 エッチであると。

 先生、分かってる。これはただの、グレちゃんなりの親愛の気持ちの表れであると。子犬にじゃれつかれたようなモノ。

 でもエッチなんだ。聖職者として完全でない私を許して。


 身をよじり、力強い抱擁から脱出を試みるも、これが中々うまく行かない。今日のグレちゃんは何故かいつもより三割増し強引である。


「あのー。女の子同士の距離感について伝わらないのであれば、先生と生徒の距離感とか、ギルドのマスターと幹部の距離感が」


「『愛は全てを超越する』と先生から学びましたので」


 うーん手強い。

「話が通じる」と「会話が成立する」は似て非なる概念である。異世界でも教鞭を執ると毎日学びがあるなぁ。


 仕方がないので、もぞもぞと私は拘束されながら右手を抜け出させ、グレちゃんの背中をポンポンと軽く叩き始める。


「よしよし。グレちゃんはいい子。よしよし」


「またこんな、夜泣きする幼児をあやすような……」


「じゃあやめる?」


「……」


 顔を枕に埋めて黙っちゃった。かわいい。


 出会ったばかりの頃、グレちゃんの精神状態は酷く荒れていた。

 夜中ナーバスになる事が多いので、こうして眠りに付くまでポンポンしてあげた。

 うちの祖母直伝の技である。男の私がやっても、それなりの母性ダメージを与える事が可能な奥義だ。グレちゃんは今もこれをやられると大人しくなる。

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