第15話 しあわせになれたかい


────「二度と忘れないように、躾けておくべきか」

 絶対零度の声音で言った先輩は、あの後俺を人道に外れた手段で拷問した。それはもう、具体的な記述を省くほどには残酷無惨な物だった。人の所業ではない、思い出したくもない。


「おーきくん」


 そして心に傷を負った俺は、更なる困難の予兆に顔面を手で覆った。

 蛇穴京介。人の形をした厄災である。

 教室を目前にした踊り場で、壁に沿ってズルズルとしゃがみ込む。膝から崩れ落ちた俺を、蛇穴は「どうしたのおきくん!」と元気良く気遣ってくる。


「大丈夫?ほら、俺の手を取って?」

「いい、結構だ……自分で立てる」

「遠慮しないでー」


 無遠慮に手を掴まれ、無理矢理立たされる。その力の強さに、思わず声が漏れる。

 そんなのもお構いなしに、蛇穴は掴んだ手をそのまま引っ張って、俺の身体を引き寄せる。寸陰の間に両肩を掴まれて、目睫の間に端正な相貌が迫っていた。


「な、何……」

「…………」

「お前、いつにも増して変──」

「変な匂いがする」


 万年雪でも彷彿とさせるような声音だった。

 額から、背中から、嫌な汗が噴き出てくる。

 つるりとした水晶体の向こうで、瞳孔がず、と開く。一瞥するだけでも頭がおかしくなりそうな目だ。

徒ならぬ様子の男に、身の危険を感じて身を捩る。


「あは────」


 やがて落とされた笑み声は、どこか酷薄ですらあった。


「なんてね。匂い、なんてのは冗談だよぉ」

「冗、談……」

「そう、ジョーダン。俺、今ちょっと鼻詰まっててさ」

「心底どうでも良い……お大事にな」

「ありがとぉ!」


 ぷっくりとした涙袋を押し上げて、人懐こく微笑む。そんな笑みを浮かべる間にも、俺の肩に掛かった手は重く伸し掛かったままだ。それこそ、力を抜けばそのまま地面に押さえつけられてしまいそうなほどの力で。

 「ところでさ」と笑顔のまま吐き出された声に、心臓が縮み上がるみたいだった。


「あの先輩と何の話してたの?」

「ああああの先輩と言いますと……」

「何で敬語?獅子堂先輩だよ」


 薄目で紡がれた先輩の名に、とうとう逃げられないことを悟る。先輩の名前をしっかりはっきり出したのは、逃がさないという意思表示に他ならない。この男が『そうする』と言えば、大抵のことはその通りになる。挙足軽重を地で行くような存在なのだ。


「えっと、それはあの……」

「俺には言えないような事?」

「間違っては無いけどぉ、」

「へぇ」

「低!怖!何、それが地声!?」


 返事の代わりに、ミシリと肩が軋む。怖すぎる。この馬鹿力、笑顔のまま人の肩を握り潰そうとしている。

 涙目のまま、俺は「ああ」だとか「うう」だとか喃語を垂れ流す。だって、想定外だ。先輩との邂逅を捕捉されていたのは、まあともかくとして。こうも率直にと言うか、直球で接触されてしまっては焦りもする。

 特にここ最近は、俺の方が蛇穴について嗅ぎ回ったり、接触を試みたりすることが多かった。その分、『このタイミング』での向こうからの接触は、なんだろう。……こう、スクリーン上の俳優が急にこちらに話しかけてきたような不気味さがある。

 思考を飛ばしたがる脳を叱咤して、必死でこの状況を誤魔化す算段を立てる。


「……一緒にお昼ご飯を食べてた?」


 当社比最速の回転を誇る頭脳が叩き出した台詞がこれだ。


「死にたい……」

「駄目に決まってるよね?許可してない」

「自分の生死すら許可制だったのか俺は」

「……お昼ご飯を食べてただけで、そんなに疲れるの?そんなわけないよね?」


 邪気のない目を見開いて、小首を傾げる蛇穴。俺の小言に取り合いもしないところを見ると、これはかなりトサカに来ている。本気だ。

 唾を嚥下し、緊張感のまま背筋を伸ばす。


「お前に関係ないだろ」

「あるよ」


 ごく自然に切り捨てて、蛇穴はその稚気めいた表情を消す。


「おきくんが俺以外に好きにされて良いわけが無いよね?」

「まだそんな事言ってるの?」

「何だっけ。『人を飼うのが趣味で、おきくんをロックオンして付け狙ってる変態』?」

「あ…その節は……すみませんでした……」

「正直良いんだよ、ヘンタイでも何でも。重要なのは、きみが自覚してるかどうかって話だ」


 自覚、と。懐疑の滲む言葉を遮るように、冷たい指が唇に添えられる。


「きみはいずれ俺の物になる」

「…………」

「お下がりも共用も耐えられない。ぴかぴかのおきくんに首輪をつけて、ずっと側に置く」

「悪趣味すぎるだろ」

「あは、俺ヘンタイだから。でも素敵でしょう。きみは俺だけを見て、俺だけに尻尾を振ってれば良い。そしたらめいっぱい可愛がって、甘やかしてあげるんだ」

「ああ……」


────こいつは本当に、『犬』が欲しいだけなんだ。

 腹の底に溜まるような不快感は、きっと嫌悪と呼ばれるものだ。常ならば、俺は感情のままにこいつを殴り倒していただろう。

 けれど、『今』は駄目だ。

 今だけは、一時の感情に身を委ねてはならない。


「不愉快だ。恥を知れよ、蛇穴。人を犬扱いするな」

「顔が怖いよ、おきくん」

「犬でも何でも勝手に飼えよ。人である必要が無いだろ」

「何言ってるの。犬は俺たちの言葉を理解しないよ?」

「………………」


 話にならない。

 肩に乗せられた手は、片手になっている。相変わらずの馬鹿力だが、振り解けない程でもない。

 振り解き、踵を返した俺の手首を、骨張った手が掴んだ。「まだ話は終わってないよ」と笑う男を、嫌忌を隠すこともなく睥睨する。


「俺の質問に答えてないよね」

「じゃあ、お前も俺の質問に答えろ」


 その言葉に、蛇穴は一瞬毒気を抜かれたように目を丸くする。愛玩動物から、想定外の抵抗を受けたような表情だ。やや於いて朗笑し、「いいよ」と答えた。


「俺に何を求めてる」

「ぜんぶちょうだい!」

「俺に執着する理由は何だって聞いてる」

「ああ……」

「友情でもない、恋慕ですらない。その支配欲は、人に向けて良い類の物じゃないのは自覚してるか」

「質問が多いよ、おきくん」


 態とらしく仰け反って、蛇穴は嬉しそうに悲鳴を上げる。「茶化すな」と一喝すれば、犬飼は笑い声を引っ込める。前髪に隠れて目元は見えない。代わりに、く、と捲れ上がった唇の下からは、犬歯の混じった真っ白な歯が露わになった。

 

「おれたちは同じだから」

「は、」


 濃艶にして凄艶。壮絶な笑みだった。

 稚気と云う名のベールの下から、一種の狂気すら感じさせるような、成熟した美貌が顔を出す。


「君が犬飼君に執着する理由と同じだよ」


 恋人に愛を囁くような声音だった。


「『道具でしかない自分を、心の底から愛する人間なんていない』」

「なにを、」

「『自分が如何に空虚な存在かを知っている』」

「蛇穴……!」


 筋に沿って腹を裂かれ、臓腑を直接荒らされるような。這い上がってくる忌避感に叫んでいた。

 そんな俺を、蛇穴は母性すら感じさせるような女性的な目で見据えている。


「だから俺たちの周りの人間は必ず居なくなる。……ひとりはつまらないよね。でも、裏切られるのは怖いよね。だから首輪が要るんだよ」

「…………俺が、犬飼を縛ってるって?」

「ちがうの?」

「お前が俺の何を知ってるんだ」

「ぜんぶ知っているよ。きみの頭の中、お腹の底。俺はきみのことをきみよりもずっと深く知っている」

「………………」

「だから教えてあげるね」


 温い血の色をした瞳が、ゆっくりと弧を描く。垣間見えた底冷えするような悪意に、足がすくんだ。


「友達は助け合う物。決して裏切らず、相手を1人にはしない。理想的な関係だ。俺たちみたいなのにとって、喉から手が出るほど欲しい物だよね」

「だからおきくんは、よく知りもしない『友達』を、教科書的に理解して、渇望して。表面だけをなぞった友達ごっこをしてる」


──── 『信頼関係が全く築かれていない』

──── 『嘘を吐かない、隠し事をしない。俺が理解できた人間は彼だけだったし、俺のことを一番理解していたのも彼だった』

──── 『それを、「友人」と呼ぶのでしょう?』

 そんな言葉が、延々と脳内を反芻する。

 真の友情を知る人間の言葉に、自らの信仰が粉々に砕け散るのがわかった。自らが『友情』と信じていたそれが、形骸的な物に過ぎないことを理解させられた。

……本質を理解しないまま、ただ温もりを求めて手を伸ばした。

 けれど俺は、犬飼の事を何も知らない。

 俺は犬飼に隠し事をしている。

 犬飼も俺に隠し事をしている。

 そんな虚構と欺瞞塗れの関係は、『友達ごっこ』に過ぎない。

 皮肉にもそれら全てが真実であり、これまで必死に目を背けてきた俺の病巣に他ならなかった。


「きみがしきりに『友達』と口にするのは一種の確認行為だ」


 気付けば俺は顔を伏せていた。目の前の男が、怖くて堪らなくて。頬を撫でるような声音を、耳を塞ぐこともできないまま受け入れる。


「自分と相手に言い聞かせて、『友達はこうあるべきだ』って自分の理想を擦り込むんだ。犬飼くんみたいな寂しくて純粋な子には、効果はひとしおだったでしょう?」


 真っ白なサンゴみたいな指が、俺の耳たぶを撫でて、そのまま頬を包み込む。


「どうかな。しあわせになれたかい?」


 相貌を優しく引き寄せられて、弧を描いた唇が耳元に寄せられて。生温い吐息に乗った言葉が、耳から流れ込んでくる。


「俺は隷属関係で、『俺から離れる』と言う自由意志をきみから奪う」

「…………」

「きみは『友達』なんて云う素敵な言葉で、何も知らない子を洗脳して自由意思を奪う。首輪が素敵な呼び名にすげかわっただけで、俺たちの本質は何も変わらないよね?」


 頬を撫でていた手が、やおら顎にかかる。

 く、と上向かされて目に入ったのは、仄暗く撓んだ紅眼だった。


「俺とおきくんの虚は相性が良い。俺はきみだけが可愛いし、きみの虚を満たせるのも俺だけ」


 屈辱と自己嫌悪でおかしくなりそうだった。

 俺は今どんな表情をしているのだろう。きっと最高に惨めな顔をしている。

 「かわいい」なんて、胸焼けするような甘い声が聞こえたかと思えば、後頭部に回された手に、後ろ髪を撫でられて。


「哀れで、かわいそうで、かわいいおきくん。きみの全部を愛してあげられるのは、きっと俺だけだよ」


 絶え間なく注がれる睦言が、脳を浸す。神経毒が効いていくみたいに、思考の先端が麻痺していく。自分の足で立っているのすら辛くなってきて、何かに寄りかかりたくて仕方がなくて。


「興くん」


 背後から名を呼ばれたかと思えば、そのまま腕を引かれる。たたらを踏みながら、力に従うまま後ろに倒れ込んで。


「ぐう!」


 派手に大転倒した俺を、引き倒した張本人──獅子堂先輩が険しい表情で見下ろしていた。

 ……こう、ああも思い切り腕を引っ張ったのなら、責任持って抱き止めるくらいはするべきじゃなかろうか。

 そんな不満が絶えず湧き出るが、結局俺は気の抜けた声で先輩の名を呼ぶことしかできなかった。確か、あのまま教室に帰ったはずでは。


「………………なんでここに?」

「なんでも何も。君の間抜けな叫び声が聞こえたから来たんですけど。なんですかこれは。どんな状況だ」

「いやー……」


 大の字に寝転んだまま唸る俺を他所に、「ホンモノの獅子堂センパイだ!」と歓声を上げる蛇穴。

 その相貌からは、先刻のまでの危うい求心力も、麻薬じみた悪意も完全に消え失せていた。何も知らない幼子のように、ただ邪気の無い笑みを浮かべている。


「…………君は?すみません、俺の記憶が正しければ、初対面の筈では」

「おれが一方的に知ってるだけなので、センパイは気にしないで?有名なんだよぉ、野村周平似の先輩が居るって」

「誰ですかそんな適当な事を吹聴してまわってるのは。兎に角、俺の後輩をあまりいじめないでださい。ええと……」

「きょーくんって呼んでね」

「きょーくん」


 蛇穴の言動に何か言いたげにしながらも、先輩は言葉を呑み、咳払いをするに留める。

 その言動は紛れもなく、蛇穴のことなどつゆほども知らない人間のそれだった。蛇穴のスキャンダルをハイエナのように探り、愛用シャプーの種類まで把握しているあの先輩と同一人物だとは、とても思えない。


「ところで先輩、おきくんとどんな関係?良いなぁ、俺もそれくらい仲良くなりたい」

「関係……?知り合いの知り合いの後輩というだけですけど」

「知り合いの知り合いの先輩になったら、おれもおきくんと空き教室で仲良しできる?」

「嫌な言い方だな……そんな団欒とした物でも無いですよ」

「ほんとぉ?」


 微笑んだまま首を傾げる蛇穴からは、追及の手を緩める気は感じられない。若干辟易したように眉間を揉んで、先輩は、「昼飯を食ってるだけです」と答えた。


「それにしてはおきくん、随分疲れてるように見えるけど」

「それは────」


 ジットリとした目で、俺へと視線を寄越してくる。   

 『これをどうにかしろ』と言っている。


「色々迷惑かけちゃったからさ。ペナルティ。何かと理由をつけて俺を突き回すんだこの人」


 俺も俺でドッと疲れてしまったので、大の字のまま先輩の代わりに答える。


「────へぇ。『ペナルティ』、ねぇ」


 蛇穴の瞳がすぅ、と細くなる。何を連想しているのかは知らないが、それが彼の所有意識に抵触したであろう事は察せられる。間違っても、俺自身を慮っているわけでは無いのだろう。

 「それで?」と上がった声は穏やかでありながら、昏い感情が確かにひたひたと滲んでいた。


「具体的におきくんは何をされたのかな。どこまで先輩に許したの?」

「…………パンケーキ」

「ふぅん、へぇ。パンケーキ。…………パンケーキ?」


 据わった目で復唱した蛇穴が、ややおいてギョッと目を見開く。初めて見る反応だ。珍しくも素で混乱しているように見えた。

 少しだけ胸が空くような心地のまま、俺は「そう」と続ける。


「この人、椅子に縛り付けられた俺の目の前でアツアツのパンケーキ食うんだ」

「……?、??…………?」

「外はパリッと、中はふわふわアツアツの生地。そこに林檎よりデカいバターとアイスクリームを乗せて、頭が痛くなるくらい甘いハチミツをかけて。それを俺に見せびらかしながら食べるんだ。一口ごとに『うまい』と言いながら、噛み締めながら食べるんだ!」

「お、おきくん……」

「眼前をフォークが通過するたびに甘いバニラとメープルの香りがプーンと漂ってくるけれど、それでも俺は一口も食べられず、絶品パンケーキは消えていって──── 酷い!酷すぎる!」


 忌わしい記憶に叫び、イモムシのように叫び、のたうつ。思い出すだけで悔しくて涙が出てくる。


「人道に外れた拷問だ。極悪かつ残酷無惨。人の所業じゃない……!」

「えーと………」


 蛇穴は暴れ回る俺を見て、獅子堂先輩を見た。完全に毒気を抜かれたような面持ちだ。


「それが、『ペナルティ』……?」

「ええ。彼には一度、自分の立場をしっかりと理解してもらう必要がありましたからね」

「うーん……」


 然りと真顔で頷く先輩に、後頭部を掻く。釈然としない様子で、言葉を探しているようだった。


「何ですか。仰りたいことがあるなら遠慮なく仰ってください」

「…………『おきくんかわいい』?」

「やっぱりもう喋らないでください」


 呆然とした様子で的外れな返答をする蛇穴。額に青筋を浮かべる先輩を一瞥して、「まぁ」と気の抜けた声を上げた。


「おきくんが痛い目にあったりしてないなら、何でも良いか……」


 もしかしなくても世間一般には、精神的な苦痛は『痛い目』にはカウントされないのだろうか。納得がいかない。俺は最近近ストレスで円形のハゲができつつあると言うのに。


「そうですか。気が済んだのなら、御二方とも教室に戻りなさい。……全く、とんだ駆け付け損だ」


 先輩に促されるまま、フラフラとどこかへと歩いて行く蛇穴。振り返って「バイバイおきくん」と手を振ってきたので、中指を立てておく。いけ好かない奴の、中々拝めない間抜けヅラが見られて機嫌が良いので、「二度とくるな」は言わないでおく。


「……いつまで寝てるんですか」


 中指を立てたまま仰向けで転がる俺に、先輩が呆れた目で手を差し出してくる。

 俺よりも一回り大きいそれを、じっと眺めて。


「…………ありがとう、ございます」

「全く手の掛かる。しゃんとしなさい、しゃんと」


 掴んだ手を引かれるまま、身体を起こす。自分の足で、地面を押さえつけて。先刻までの浮遊感や気怠さは、幾分かマシになっていた。


「君も早く教室に戻りなさい」

「…………ありがとうございました」

「お礼は一回で結構ですよ」


 ピシャリと笑顔で切り捨てる先輩は、俺の手を掴んでいた手を念入りにハンカチで拭いている。こうも堂々と汚物扱いされたのは初めてだ。


「これは助けてくれたことに関するお礼です」


 先輩は、昼休み中ずっと俺を監視している。恐らく先刻のやり取りや会話を把握した上で、頃合いを見て助け舟を出してくれたのだろう。

 ハンカチをじっと見ながら言う俺に、先輩の手が止まる。辿るように視線をあげれば、どこか決まりの悪そうに歪んだ端正な相貌が目に入った。


「………… 目標達成のためですよ」


 呟いて、そぞろな所作で襟を整える。


「君の中の犬飼君の価値を損なうわけにはいけませんからね。君たちには『友人』でいてもらわなければ、せっかく掴んだ証拠品が意味を成さなくなる」

「やだな。心配しなくても、ここまできて投げ出せるような度胸が俺にあると──」

「俺たちは、」


 俺の上擦った声を、先輩が遮る。


「俺たちは、互いを理解するのに一年半もの期間を要した」

「『俺たち』?」

「相変わらず回転の鈍い脳ミソですねぇ。先刻話した友人の事です」

「ああ……」


  唐突に提示された話題に、首を傾げる。そんな俺を見て、先輩は神経質そうに片眉を吊り上げた。


「そして彼が学校を去るまで、私はあれが『友情』であることに気付けなかった」

「…………」

「何もかもが手遅れになった後になって、失った物の大きさに気付いたんです。……その点に於いてだけは、俺は君たちを称賛します。今ある関係性の尊さを理解して、大切にするのは簡単なことでは無い」


 相変わらず、目線は合わない。その言動はやはりどこか浮ついていて、平生の泰然とした佇まいからは乖離している。

 今日は嫌いな人の珍しい一面が見れる、とびきりのラッキーデイなのかもしれない。そんな事を考えながら、とびきりのラッキーにツンと痛んだ鼻頭を、控えめに摘んだ。


「そして、君達はまだ出会って一年も経ってはいない。わかりますか。人生百年時代なんて呼ばれる時代の、ほんの一年です。歩み寄って、会話をする時間はこの先いくらでもある。何をそう悲観的になっているのか、甚だ理解に苦しみますね」

「……もう、もう良いですから、先輩」

「根底や始まりなんて、さして重要では無い。重要なのは、百年後に胸を張って『友人』を名乗れるかどうかでしょう。今ある関係を、君は今まで通り大切にすれば良い。繰り返しますが、どうにでもなります。君たちは、」


 淀みなく続いていた言葉が、不自然に途切れる。

 先輩は一瞬だけ傷ついたような表情をして、すぐに自嘲の滲んだ笑みを浮かべた。

 

「────君たちはまだ、相手が隣に居るのだから」


 何か苦くて重い物でも吐き出すように言って、疲れたような目で天井を見る。項垂れて、眉間を押さえたまま大きく息を吐いて。


「…………先輩がそれを言うんですか……」


 俺の素直な感想に、「全くですね……」と珍しく素直に同意する。

 何せ俺は、まさに今犬飼を失いかけているし、何ならその元凶は100%コイツらなのだ。


「でも、ありがとうございます。先輩の言葉という点に目を瞑れば、随分と励まされました」

「……励ましたわけではありませんよ」

「うふふ」

「癪に触る強かさですね。その精神性で、何故ああも簡単に持っていかれそうになるのか……」


 ぼやきながら階段を登って行く先輩。一度も振り向かなかったが、その耳が僅かに赤らんでいるのが見えた。その背を見送って、俺もまた自らの教室へと歩を進める。


「悪い人じゃ無いんだよなぁ」


 呟いてみて、何気なく胸を抑える。

 今ツキンと痛んだのは、良心と呼ばれるそれだろうか。

 一刹那浮かんだ疑問に、すぐに蓋をする。考える意味も価値もない疑問だからだ。

 後頭部を緩く叩いて、速やかに教室を目指した。

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