幕間

 ヅゥの運転するクルマで、雨ヶ埼の本家の前を通り過ぎた。灰色の長い壁。その奥に鎮座する屋敷。

「立ち寄りますか」

 ハンドルを握る老婆──ヅゥの問いに、助手席の冬は首を横に振る。

「ここは最後でええわ。いちばん最後でな」

ドンさんが自ら動く必要はないように思えますけどねえ」

「せやけどヅゥ、あんたも見たやろ? あの動画」

「禁足地の……動画ですか? ええ、見ましたよ、見ましたけど」

 神戸南京町、中華街の冬の事務所。その一階にある土産物屋で品出しをしている時とはまるで違う、背筋をピンと伸ばした矍鑠かくしゃくとした様子で紫はアクセルを踏み込み、雨ヶ埼邸の前を通り過ぎる。まるで邸宅の中から伸びてくる、クルマを捕らえようとする何者かを振り払うかのように、勢い良く走り抜ける。

「ん! ヅゥ、前!」

「見えてます」

 裏返った声で指摘する冬に紫は上品に笑い、そのままハンドルを切って正面から突っ込んできた軽自動車を避ける。

「運転席……」

「誰も乗っていませんでしたねぇ」

「最近こういうのおおない? クルマのユーレイ、流行っとるんか?」

「どうでしょう。流行しているというよりは、この世とあの世の境目が曖昧になっていると称した方が正しいかもしれませんねぇ」

 紫の白髪がふうわりと揺れる。丸眼鏡の奥の目を剣呑に細めた老婆が「まだまだ来ますよぉ」と宣言する。


 クルマだ。

 次々とこちらに向かって突っ込んでくる。


 ひゃん、と声を上げた冬はしっかりとシートベルトを締めた上で頭の上にあるアシストグリップをしっかりと握り締める。右に、左に。紫のハンドル捌きは優雅そのもので、運転席に人間が乗っていないクルマを次々に避けていく。

 不思議なことに、冬と紫が乗るクルマの後ろで事故が起きている気配はない。何の物音もしない。かといって振り向く気にもなれないが。

「振り返ってはいけませんよ」

「わかっとるよ」

「無視です。無視。グイは注目されると喜びます」

グイ? ああ、幽霊ユーレイのことか……どこの国でも、オバケは見られると喜ぶんやな」

「この世に未練があるからです」

 急ブレーキ。赤信号だ。


 いつの間にか、あの世からこの世に連れ戻されていたらしい。


 はあ、と大きく溜息を吐いた冬はパーカーのポケットから煙草の箱を取り出し、紙巻きを二本咥え、火を点け、一本を紫の品の良い薄いくちびるに挟んでやる。

 信号が変わる。紫が静かにアクセルを踏み込む。

 淡い色の煙で満ちた車内で、冬はスマートフォンの地図アプリを立ち上げる。

「雨ヶ埼は一旦スルー。新地の『しおまねき』も後回しでええやろ。駅や。こっからいちばん近い駅で待ち合わせしとる」

「ナビを立ち上げてもらってもいいですか?」

「オッケー」

 スマートフォンに向かって目的の駅の名前を告げると、自動的にナビが始まる。すぐ近くですね、と紫がつぶやいた。

「どなたと待ち合わせを?」

「うん? 言うとらんかったか。巫女イチコや」

?」

 訝しげに眉を寄せる紫に、冬は首肯する。

「せや。大前提として全員が間違えとった。今回の四宮しのみや巫女みこやない。巫女イチコなんや」

「つまり? 同じ文字で示す響きですね?」

とも言うな。要はあれよ、

「また似た響きが……まったく、日本の言葉は外から来る人間に対して不親切が過ぎます。イタコ? ……自身の身に死者の霊を降ろしてその言葉を伝えるという……ここからはだいぶ離れた、東北地方が発祥の地と聞いたことがありますが」

「さすがヅゥ、なんでも知っとんなぁ。それや。四宮っちゅうのは確かに集団の名称やけど、特技がそれぞれ異なる。そらそやろ、。単に、常人では有り得ない能力を生まれ持ってしもたニンゲンたちが身を寄せ合って助け合うだけ集団。それを総称して。根っこを掘り返してみたら出てくんのはそういう話やからな」

 冬の解説を聞いているのかいないのか、紫は黙ってナビに従ってクルマを進める。窓を、大きめの雨粒が叩き始めていた。

「……かなり降りそうですね」

「雨か。それもええ。雨ヶ埼を沈めるには、新しい雨が必要や」

 駅に到着する。そう大きくはない駅の改札前に、ビニール傘を手にした女が立っている。

「さてご対面。四宮さんは、うちらにニコニコ手ぇ貸してくれるやろか?」

「拒めば相応の処置を取るだけですよ」

 吸い殻を灰皿に放り込みながら、紫が微笑んだ。

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