異世界バンド紀行〜30歳から始める異世界貧乏バンドツアー〜

青白

1章 today never dies

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(……やばい。死ぬ、死ぬ、死ぬっ! 二十七で死ねなかった時は軽くショックだったけど、今はマジで死にたくない!)

 月島メグルは全力疾走しながらも、そんなことを考えていた。これは夢かもしれない。だが後ろから迫ってくる獣の息遣いと唸り、そして折り重なる足音はやけに生々しく響いている。オオカミ? 日本では絶滅したんじゃなかったのか。わからない。ただ暗闇に光るいくつもの目を見て逃げ出してきたのだ。

 息遣いと足音は徐々に距離を縮めてきている。このままでは確実に追いつかれる。今年で三十歳、それも女の人間の自分では獣には敵わない。だが、こんなところで食われて死んでたまるか。

 最悪、こいつを武器にするしかないのか。背中に背負ったままのギターケース。だがこいつは大事な相棒だ。絶対に手放さないとストラップを握り締め走るのに専念する。武器にするのは最終手段だ。

(光だ……!)

 木々の隙間から明らかに人が発している光が見えた。助かった。そこに向かってひたすら走る。息も切れ、心臓もフル稼働。足がもつれそうになるが必死に動かした。もしつまずいたら、確実に後ろの奴らの餌食だ。

「どわっ……!?」

 つま先を木の根に取られた。頭から地面に飛び込むように派手に転ぶ。やばい。もがくように必死で立ちあがろうとする。

「ん……?」

 だが足音は止まっていた。何とか尻餅をつくように後ろを振り返ると、少し離れたところにそれはいた。

 暗闇に光る目。その姿は大型犬に似ているが、頭部が全て鳥のクチバシのような形になっていた。その間に牙がぎらついているのが、ぼんやりした光の中で見えたような気がする。

 奴らは唸り声をあげたが、転んだメグルを遠巻きに眺めるだけだった。それから口惜しそうに一瞬遠吠えして、去っていく。

「何なのアレ……マジ洒落にならないんだけど……」

 化け物だ。しかも自分が今まで走っていたのは深い森の中だったようだ。転んだ拍子に飛び出したらしく、化け物犬たちがいたところは草木で覆われた深い闇が口を開いている。

 まだ遠吠えが薄く聞こえていた。戻るなんて選択肢は、絶対にない。これが夢だったとしても、まだ目覚める気配はなさそうだった。

 起き上がって、メグルは先ほど見えた光と向き合う。小さいけれど、人の営みの明かりだった。ギターは無事だし、転んだが体は大丈夫そうだ。頑丈なのが取り柄で良かった。

(村かな……? どこだよここ……)

 歩み寄ると人工物らしき家などが遠目で見えてきたが、馴染みのない光景で逆に心細くなってきた。日本らしくない異国感が漂っているのは気のせいなのか。並んでいる家々は木造だし、丸太をそのまま組み立てたロッジ風の建物も見える。やはり、日本らしくない風景だった。

 村の中へ入っていく。深夜だからなのか、人の姿はあまり見られない。明かりの灯っている家もあるが、カーテンらしき布が降りていて中は覗けなかった。時間を確認したいが、さっき転んだせいでスマホは壊れてしまっていた。踏んだり蹴ったりだ。

(あ、人だ……!)

 少し離れたところ。家から出てきた女性が見えた。すかさず駆け寄っていく。

「あ、すみませーん! ここってどこかわかります……」

 言葉の途中でメグルを見て驚いたらしい彼女は、手に持っていた木製のバケツを落としてそのまま家に逃げ帰ってしまった。

「やべ、不審者に見えたかな……」

 さっきの騒ぎで髪はぼさぼさだし、上下の赤ジャージは土と草で汚れていた。慌てて服をぱたぱたとして、ほつれた髪も一旦ほどいた髪ゴムで纏め直す。さっきの人に通報されるかもしれないが、それも願ったりだ。とにかく誰かに助けを求めないと。

 だが、村のあちこちにいた数少ない人に声をかけるも誰も応じてはくれなかった。みなメグルを認めるなり逃げていってしまう。薄情というより、メグルを怖がっているようだ。単純に村の異端者だからか、それとも先ほどの化け物が関係しているのか。何にせよ全く話が出来ない。

 家のドアもノックしてみたが、明かりのあるところもまったく反応がない。宿屋らしき建物も見つけたが、なぜか扉には鍵が掛かっていた。メグルがいることがもう村中に知れ渡っているのかもしれない。

「……ほんと、何なんだよこの場所は」

 村の出入り口らしきところの柵に座り込んで、メグルは大きくため息をついた。

 まったく誰も相手をしてくれない。それもそうだけど、見かけた人たちも、どこか日本的な格好からかけ離れた簡素な装いをしているような感じだった。

(……まるで昔やったRPGゲームの世界に迷い込んだみたい)

 夢を見ているような気がするが、今味わっている湿った夜の空気は恐ろしいほどリアルだ。外に出て行けばまた先ほどの化け物どもに襲われるかもしれない。どうしたらいいか。

 今度こそ途方に暮れてしまいそうな、その時だった。

(……歌?)

 微かに聞こえる。風にかき消されてしまいそうだけれど、それは確かに誰かの歌声だった。

 (綺麗な声……小さいけど、でもちゃんと芯があって、つい聴き入っちゃうというか)

 何を思うよりメグルはそれが聞こえる方に歩いていく。森の中だ。またあの変な犬集団と出くわすかもしれないが、この声の主を確かめたかった。

 木々の間、揺らめく火の灯りが見えた。どうやら誰かが焚き火をしているようだ。声はもうはっきりと聞こえている。間違いないこの先だ。

「あ……」

 優しく照らす焚き火の前、誰かが立ち上がって歌っていた。ローブ、というものを着ているのか。フードも目深に被っていて姿は確認できないが、小さなシルエットが揺らいでいる。子供、なのだろうか。

(透き通るような声。大きく張り上げれば、力強くも響きそうな。この歌も、何か懐かしくなるようないいメロディラインだ)

 ぞくぞくと。肌で感じる。こいつは、いい音に出会ってしまった。背負っているギターのストラップを、ぎゅっと握りしめる。

「えっ……!?」

 歌が終わったタイミングで、メグルは草むらから立ち上がり拍手してしまっている。フードを被ったその子は、驚いたように身を竦ませていた。あ、やばい。また逃げられたら最悪だ。

「ご、ご、ごめん! 驚かせるつもりはなくて! ただ本当にいい歌声だったから、つい拍手しちゃった」

 安心させるように微笑みかけると、警戒は解いていないようだが彼女は逃げなかった。声は女の子のものだったから、彼女なのだろう。耳には自信がある。

「む、村の方ですか……? ごめんなさい、うるさかったです……?」

「いやそういうわけじゃないんだけど……ただの通りすがりみたいなもんかな」

 言いながらも、メグルはしゃがみ込んで下ろしたギターケースを開き始めている。あんないい音を聞かされたら、もう焦れったい。テレキャスターギターを肩に通し、勢いよく立ち上がる。

「それより! さっきの歌、もう一回歌ってみてくれない? 伴奏つけるから!」

「えっ……え? な、何で?」

「何でも! ここに君の歌声があって、あたしのギターがある。それ以上の理由なんかいらないっしょ!」

 メグルの指は早くもギターを奏で始めている。さっきの歌、懐かしくて、優しい響きだった。あの柔らかな旋律が乗りやすいような音を紡ぐ。単音から、そしてコード。繊細に、ふんわりと。

 目で合図して、いつでも入ってきていいからと伝える。彼女は戸惑っていたが、次第にメグルのギターに乗せられたのか、辿々しく歌い始めた。

(そういえば。この子の言葉はあたしにも伝わるけど。この歌は、何語なのかわからないな……)

 言葉の意味は伝わってこないが、そのメロディはメグルのギターを弾く指を滑らかにしていく。自然と音が湧いてくる。こんな感覚は、久々かもしれない。

 ノってきたギターの旋律に影響されてか、最初は小さかった彼女の歌は徐々にボリュームが上がっていく。こちらに引っ張られるようだった声が、ギターの調べに寄り添ってくる。

 そして、ぴったりと合わさる。息を吸う一瞬と、爪弾いた弦が奏でる音色が途切れる一瞬まで重なった。深く被ったフードの奥、見開かれた彼女の目とメグルの目が合って、どちらからともなく微笑んでいた。彼女はもう臆することなく歌声を紡ぎ続けて、メグルも浮かび上がるメロディで並び続けた。

「な、何今の……すごい……」

 息を切らした彼女が呟く。照らし合わせてもいないのに歌が終わるタイミングも一緒だった。まだ余韻が引かない。彼女は肩で息をして、メグルはジャージの袖で額に浮いた汗を拭う。それぐらい今まで集中していたのだ。

「めっちゃ楽しいセッションだった。名前聞いてもいい? あたし、メグルって言うんだ。月島メグル」

 メグルが右手を差し出すと、彼女もおずおずと握り返してくれる。思ってたよりずっと小さな手だ。やはり子供なのだろうか。だとしたらその年であの歌声が出せるなんて将来有望すぎる。

「あ、えと、たぶん私、カプリラって名前なんだと思います……」

「カプリラ。名前までいい響きなんだね。じゃあ行こうか!」

「はぇっ!? ちょっ、ツキシマメグルさん? ど、どこに……?」

「村ん中! 話が通じないなら歌で伝えればいいんだよ! 歌えばきっと、わかる奴にはわかる! 大丈夫! 損はさせないから!」

 こんないいセッションなら、耳に留めて話を聞いてくれる人が出てくるかもしれない。それくらいしか方法が思い浮かばない。あたしのギターと、この子の歌。やれる。そんな根拠のない自信が漲っていた。


  2


「ほ、ほんとにやるんですか……?」

 カプリラはそわそわと周りを見渡している。メグルはぽんぽんとその頼りなさげな肩を軽く叩いてやった。

「やるやる。一人でも興味を惹けたらこっちのもんだから。大丈夫、絶対上手くいくよ。あたしが保証する」

「で、でも……」

 先ほどの村の中心部、広場になっている場所にメグルたちは立っていた。相変わらず人はまったくいないが、閉ざされているはずの家々が何となくこちらに注目しているような感じがする。無関心よりは大分いい。こちらのペースに巻き込めているということだ。

 メグルは耳でギターのチューニングを終えて、手を叩く。

「よっしゃ、準備完了。……肩の力抜いて、深呼吸。さっきみたいに、ただあたしの伴奏に合わせればいいだけだから。君の自由に、歌ってみて。きっと楽しいよ」

「私の、自由……」

 カプリラはぎゅっと胸の前で拳を握り、肩を揺らして深呼吸する。素直で、いい子だ。メグルは早くも彼女に好感を抱いている。相変わらずフードやローブはとってもらえなかったが。

 ギターを鳴らす。景気付けに大きく。それから彼女が歌いやすいように、先ほどと同じ演奏で始めた。

 カプリラはまだ辺りを気にしていたが、歌い始めてくれる。声量はギターよりも小さい。見る人を意識することに慣れていないのだろう。

 でも、大丈夫。上手くいく。メグルは彼女に見えるように笑いかける。それを感じてくれたのか、彼女はこちらを向きながら少しずつ声のボリュームを上げていく。そう、ゆっくりでいい。君の歌声は、絶対に人の心を震わすから。

(なんだ……? ギターの音が……?)

 気分がノってきた。それに合わせるように、メグルのギターの生音が増幅したような気がした。いや、している。まるでアンプとギターエフェクターを通したみたいに思うままの音量、音の加工が反映される。

 それに応えるように、カプリラの歌声もマイクを前にした時のように辺りに響く。彼女も呆気にとられていたが、歌うことはやめなかった。ためらいの表情が僅かにほぐれて、そこには楽しそうな笑みが浮かび出している。

(やっぱ、めちゃくちゃいい声……)

 伴奏を合わせながらも、聴き惚れてしまう。はっきり聞こえるようになると、その透き通るような歌声にしっかり芯が通っていくのがわかる。確かな意志の強さがエフェクトされているのだ。 

 こんな声、誰かに聞かせなきゃ絶対に勿体無い。だから聞け。全員、耳も心も開いて聞いてみろ。

 一つの家の扉が、薄く開くのが見えた。不思議そうに覗き込む村人の目。他の家のカーテンが開き、こちらを眺めているのもわかる。食いついてきた。そうだ。もっと聞け。こんなに楽しくて感情が揺さぶられるような音楽は今だけしかないのだ。

 やがて村人の一人が家からおそるおそる出てきた。それを皮切りに、広場に人が集まってくる。草が覆い茂り、この場所は村の中心にあるにもかかわらず長いこと交流の場としては使われていなかったのだろう。

 でも今。メグルたちの音楽で、村人たちはやってきている。警戒で強張っていた顔が、少しずつ興奮と楽しさで綻んでいくのがわかる。どこか暗く落ち窪んでいた彼、彼女らの空気に、光が差したのだ。それを成し遂げたのは間違いなく、自分たちの音楽だった。

(言葉も、意味も伝わらなくていい。大事なのは音を楽しむハートだ)

 聴く方も、聴かせる方も。ずっと前から自分の中にある言葉を噛み締めると、今だけは別の味がした。悪くない。いや、最高だ。きっと今この場にいる全員が、こんな味わいを楽しんでくれていることを願った。

 演奏が終わる。歌が止む。途端に夜の静寂が戻ってきた。

 そんな耳を塞ぐような静けさを振り払うように、ぱらぱらと拍手の音が散りばめられていく。まばらだったそれが重なり合い、メグルたちを讃えるような一つの音になっていった。いつの間にか側で焚き火が灯されていて、周りの昂った表情が見渡せた。飛び跳ねて喜ぶ子供の姿まで見える。やりきったと、この瞬間そう思えた。

 メグルはカプリラと向かい合う。目深なフードが邪魔をしていたが、ちらりと見えた口元は得意げに持ち上がっているような気がした。メグルが観衆に向かって頭を下げると、彼女も倣ってぴょこんとお辞儀をした。

「あんたたち、すごかったよ。旅の芸人さんかい? こんなところじゃ娯楽なんてないからね、久々だよこんな楽しい気持ちになれたのは」

「さっきはすまない。この辺りじゃ夜盗も珍しくないからね。てっきりその類かと思っちまったんだ。まさかこんな愉快な連中だったとはなぁ」

 打ち解けた様子で村人たちが次々に声をかけてくる。メグルはそれほどでもあると大いに照れながら、尋ねてみることにした。

「まあその、旅芸人? みたいなやつっすねぇ。……あの、ここって日本のどの辺にある村とかわかります?」

「ニホン? ここはビギング大陸の東側にあるイニチム村だけど……まぁ地図にも載ってないから名前を言ってもわからないか」

「ビギング大陸……?」

 日本列島がそんなイカした改名をした覚えはなかった。東京の傍の離島というわけでもなさそうだし、まだ夢を見ているという可能性を除けば自分が別の世界にやってきたという可能性を否定できなくなってきた。

 まあ小難しい問題は差し置いて。今はずっと頭を悩ませている切実な問題がある。今晩の寝床だ。

「この辺りにビジホっていうか……何か宿泊施設みたいなとこないですか?」

「あぁ、私の家が宿屋だよ。しばらく宿屋としては使ってないが、掃除は行き届いている。案内しよう」

「ありがとうございます。……ここって円使えますよね? あんまり手持ちはないですけどある程度だったら」

「エン? ヘイルのことかい? いいよ、君たちならタダで。代わりにいいものを見させてもらったから」

 ありがたすぎる話なので、メグルは甘んじつつもう一度礼を言った。芸は身を助けるし、音楽は世界を救う。案の定日本円はここだと通じないようだが、まあ明日のことは明日考えて、今日は今日の風に吹かれろと誰かが歌っていたので多分何とかなる。

「じゃあカプリラ、行こっか」

「えっ、私も、いいんですか……?」

 隅の方で萎縮していたカプリラに手を差し出すと、何故かびっくりしたように竦まれた。

「何言ってんの。全部カプリラのおかげでしょ? もっと堂々としなよ、今日の主役!」

「あ、でも私……その外でも大丈夫ですから」

「だーめ。ちゃんとあったかいベッドで寝ないと、成長期っぽいんだから。ほらほら、強制連行強制連行」

 変に遠慮するカプリラの手を引いて、宿屋に案内してもらう。彼女は大人しく従ってくれたけれど、俯いたまま最後まで深く被ったフードを脱ごうとはしなかった。極度の人見知りなのかもしれないが、何となくそれ以外の理由があるような気がしていた。

 聞きたいことはいっぱいある。でも話したいことは一つ決まっている。あの歌声は、活かさないと絶対勿体無い。流行る気持ちで足が速まり、カプリラを転ばせかけて慌てて謝った。


  3


「はぁ……ベッドに飛び込める幸せ、噛みしめずにはいられない……」

 優しくベッドの上に仰向けに倒れ込んで、メグルはシーツの柔らかさを堪能する。

 案内された宿は先ほど見かけた建物で、こじんまりとしていて部屋も一つしかなかったがちゃんと個室でベッドは二つあり、主人の言う通り掃除も行き届いていて快適だった。シーツからも洗剤のような清潔な香りがして心地いい。ここに、というかこの世界に洗剤があるのかどうかはわからないけれど。

「カプリラ? こっちに来てくつろいでいいんだよ? 立ったままじゃ疲れちゃうでしょ」

「あ、いえ……私はここで平気ですから」

 カプリラは部屋の入り口の近くの壁に寄りかかったまま首を振るった。室内に来たというのに、彼女はローブのような外套を脱ごうともしない。距離も取られているし、それは彼女なりのこちらに対する壁なのかもしれない。確かに出会ったばかりのこんな怪しい女と一緒の部屋にいてくれている時点でありがたいくらいだ。これでメグルが男だったら彼女は絶対に付いてこなかっただろう。よかった、とりあえず女だとはわかってもらえる風貌にしておいて。ジャージだけど。

「カプリラはどうしてここにいたの? 一人? 誰か連れはいないの?」

 せっかくなので聞いてみる。彼女に興味がないわけがない。むしろ、有り余るほど興味がある。あの歌声一つでぐっと心を掴み取られたのもあるけれど、全体的にミステリアスな彼女の雰囲気がとても気になったのだ。

「……一人です。私、あちこち旅して回ってて。ここも通りすがりだし、近くで野営しようと思ってただけです。村の近くだと、魔物たちも近づけないですし」

「えっ、一人で旅? 野宿しようとしてたの⁉︎ あ、危なくない? この辺あんま治安よくないって村の人もさっき言ってたし、女の子なら尚更だよ」

「平気です、一人には慣れてますし。私、強いですから」

 フードの隙間から見えた口元は、僅か綻んで見えた。カプリラのその言葉は柔らかくはあったものの冗談ではぐらかしている風ではない。

 でもそこに、どこか寂しそうな陰が差したように感じたのは気のせいだろうか。

「ツキシマメグルさんは? 一人旅ですか?」

 カプリラからも質問してきてくれる。少しは心を許してくれたと思っていいだろうか。

「メグルでいいよ。……一人旅っていうかさ、あたしここに来ちゃったっぽいんだよね。飛ばされてきたというか、瞬間移動みたいな」

「飛ばされてきた、ですか……?」

 メグルは神社で途方に暮れていたはずなのに、いつの間にかここにいたのだ。その後、あのオオカミのような化け物に訳もわからないまま追われる羽目になった。

 そもそも神社にいたのも、恋人に家から追い出されてその日寝る場所にも事欠く有様だったからだ。

『私、結婚すんの。だから今すぐ出てってくれない? 新しい住所決まったら教えて。荷物送り返すから』

 無情にもその一言で、メグルは相棒であるギターだけを持って彼女の名義のマンションから叩き出された。あたしの知らないとこで男がいたのかよ、と問いただす隙さえなかった。「行くとこないなら実家にでも頼れば?」と最後に彼女は付け足すのも忘れなかった。それが出来ないから、お前んちに居たんだろうがと言い返す前に扉は閉じられた。

 その少し前に、メグルが所属するバンドが事務所をクビになった。理由は単純。売れなかったからだ。契約期間中にその評価を覆すこともできなかった。他のメンバーたちはもう再就職先なり、次に所属するバンド先などを決めていた。メグルだけが、納得できないまま周りは流れるままに流れていった。

 ただ自分の好きな音楽を、ロックをひたすらに追い求めていただけなのに。その日一日でメグルは何もかもを失ったのだ。

 自分を憐れむつもりはない。自分が選んだ道くらいはわかっている。その責任をとらなくてはならない大人なのだ。

 だが次に進むべき道も見失ってうずくまっていた時。ふと気づけば、ここにいたのだった。

「だからあたし、この世界には初めてきたようなもんなんだよね。日本とか、たぶんここにはないでしょ?」

「ニホン……聞いたことない国ですね。どこかの村か集落ですか?」

「いや、結構大きい島国……いや世界的に見たら小さいのかもしれないけど」

「探してみましょうか」

 カプリラがローブの内側から丸められた紙を取り出し、メグルの隣のベッドに広げる。

 それは世界地図だった。だがメグルがよく知っている大陸はそこには並べられていない。載っているのは大きな大陸が四つと、いくつかぽつぽつとした島たち。アメリカもヨーロッパも日本も、ついでにエロマンガ島もない。まったく馴染みのない形をした大陸と海だった。

(やっぱここ、別の世界なんだな……)

 不思議なほど驚いていない自分をメグルは受け止めていた。肌では薄々勘づいていたが、いざこうして目の前に事実を突きつけられると返って冷静になってしまうのかもしれない。そういえばバンドが解散した時も元恋人から家を追い出された時もこんな気持ちだった。

「ツキシ……メグルさん? 大丈夫ですか?」

「……うん、全然平気。やっぱあたし、こことは違う世界から来ちゃったっぽい」

 でも自分は、おそらく恵まれている方なのだろう。こんな話を聞いてくれる子に出会えた。

 何でも話せてしまうのは、さっきのセッションのおかげだろう。あの瞬間だけでメグルはまだ名前しか知らないカプリラを信頼できた。単純かもしれないが、音は嘘をつかないと信じている。あの歌声は、邪な想いを抱く者には絶対出せない。

 そう、歌だ。メグルは彼女に大事な話があるのだった。

「……違う世界、ですか。てっきりメグルさんも記憶がなくなっちゃったのかと思ってましたが、それより深刻そうですね」

「あたしも?」

 ふと口にしたらしきカプリラの言葉に引っかかった。彼女はしまったという風にフードの前に手を持ってきたが、囁くような声で話してくれた。

「あの……私は記憶がなくて。何か思い出せるきっかけがないかなって、色々なところを回っているんです」

「えっ、記憶喪失!? 全然あたしより深刻じゃん! 何か思い出せたりしたの?」

「いえ……最初に覚えてた、カプリラって名前くらいで。自分が誰だったのかとかは、まったく」

 メグルは少し考える。カプリラには記憶がない。自分はこの世界のルーキー。思ったより自分達は似た者同士の境遇なのかもしれない。

「ねえカプリラ。迷惑じゃなければ、あたしカプリラの旅に付き合ってもいい?」

「えっ……えぇっ!? メ、メグルさんはいいんですか?」

「あたしもここ来たばかりで行くあてなんてないしさ、渡りに船ってやつ。……それで!」

 ずいずいっとベッドから立ち上がって、カプリラに押し寄る。彼女は竦んでいたが、さっきのように距離をとろうとはしなかった。それで調子付いてしまい、メグルは彼女の両手を掴んで持ち上げる。

「さっきみたいにさ! あたしのギターとカプリラの歌のセッション、行く先々で色んな人に聴いてもらおうよ! 手応えはバッチリだったでしょ? バンドやろうぜ! バンド!」

「え、あ、そ、そのぉ……」

 気圧されてしまったらしい彼女の反応を見て、押しすぎたとメグルは一旦気持ちを落ち着ける。

「まあ、ちょっと考えてみてよ。さっきのカプリラの歌声、すっごくよかった。あれは世界中の人に聴いてもらわないと絶対もったいないから。あたしが太鼓判押す。それにさっきのあの歌も、言葉はわかんないけどぐっと惹きつけられた。何の歌なの?」

「いえ……いつの間にか、口ずさんでいたんです。よくわからないけど、口にしてると懐かしい感じがして。たまに一人で、歌っていただけですから」

 それに、と彼女はやや震えた声を出して俯く。

「私が人前に出るのって、きっと良くないと思います」

「どうして? 緊張して歌えなくなっちゃうとか? 大丈夫、そんなのすぐ慣れちゃうから。あたしも隣にいるし、すぐのびのび歌えるようになるよ」

「そうじゃないんです。……あの。これから見ることは、他の人には言わないと約束していただけますか」

「……口約束でいいの?」

 真摯な言葉の響きに、メグルも顔を引き締めた。ここは茶化したり、半端な気持ちで踏み込んではいけないところだと察した。彼女がこくんと頷いたので、メグルも真っ直ぐに彼女を見つめ返して「わかった。あたしたちだけの秘密ね」と言う。

「……記憶がないんです。どうして私が、こういう姿なのか」

 カプリラが、メグルの前でゆっくりと被っていたフードを脱いだ。目を見張って、食い入った。

 カプリラの左右の側頭部から、いくつにも分かれた木の枝のようなものが生えていた。角なのだ。結晶石のように透き通ったそれは光を帯びながら、カプリラの頭頂部の少し先まで伸びている。

 それでいて、彼女の片目。左目がディスカバリーチャンネルで見たトカゲのように、瞳が縦に裂けていた。白眼の部分は黄金に輝きそうな煌びやかさがある。もう片方の目はメグルのそれとほとんど同じだが、くりっと大きくて瞳の部分が青い。

 ローブの隙間を割って飛び出してきたのはどう考えても尻尾だった。それもとかげじみた鱗を纏い、細長くなる先の方は彼女自身の身長を大きく越えていた。

「……かっけぇ」

 思わずメグルはそう呟いている。思っていた反応と違ったのか、カプリラが怪訝そうな顔になる。

「あ、え……? こ、怖くないんですか……?」

「いやいやいやめちゃくちゃかっこいいんだけど何それ何それ何それ! 最高じゃん! めっちゃいいよそれあたしすっごい好き! えっ、それってこの世界では割とポピュラーな感じじゃないの?」

「えと……わかんないですけど、これまで私以外には見たことない、と思います」

「いいね! じゃあ唯一無二じゃん。怖いなんて思わないよ。むしろあたしは憧れるけどなぁ。個性的だし、比較的目立つ位置のボーカルとしてもいい魅力じゃない?」

「ボ、ボーカル……? ま、まだ私、人前で歌うとは言ってませんよ?」

「あ、そうだった。じゃあ仮で! 無理はしなくていいけど、いつかはその姿をみんなに見せながら歌えたら最高だよね。たぶん、絶対気持ちいいよ。保証する」

 彼女の両手をとって、踊るようにぶんぶんと振る。身長差があるせいでやや振り回すような勢いになってしまった。

「そ、そうでしょうか……」

 右へ左でステップを踏まされながら、カプリラが呟く。一切足を踏み外さないのは体幹があるからだろう。運動能力がある。ライブでのステージパフォーマンスには必須だし、歌を歌うには意外と体力とそういうのが必要だ。やっぱり素質がある。ますますメグルは興奮した。

「よっしゃ、明日からが楽しみになってきた! これからよろしく、カプリラ!」

「……はぁ。よろしく、お願いします……?」

 昂ったままにぎゅっと抱き寄せると、彼女はきょとんとした後「は、離してくださいぃ……っ」と真っ赤になって抵抗してくるものだから可愛くて仕方なかった。

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