8月23日 処暑 汗が流れるように去っていくのは嫌。

8月23日 晴れ 処暑しょしょ

 暑さが足を止めて、初めて後ろを振り返る季節。


 カナカナとひぐらしの声のする紫色の夕暮れ。

 流石に7月に入ればエアコンは治っていたから、エアコンをつけていた。けれども今日は一段と熱くて、帰ってすぐにの今は重く滞留する熱気が全然ひかずに暑いまま。僕は大学に入ったときからこのアパートに住んでいる。だからもう10年くらいは経つのかな。寿命なのかもしれない。身体に力が入らず、そのまま床に寝転がる。

 最近家にいるときは布団じゃなくてタオルケットを2枚ひいて床に転がっている。最初は床の硬さで肩とか腰とかが痛くなったけど、慣れれば意外と平気になった。掃除も楽だし。

 そう、いろいろなものに慣れていき、現状以外への変化が恐ろしくなってきている。ずっとこのままがいい。


 今日は久しぶりに僕が先に帰ってきて床でゴロゴロしながら天井中に貼った紫帆の写真を見上げていた。

 僕が先に帰った時、紫帆がいなくて寂しい。そう愚痴ったら、仕方ないと言って写真データをくれた。印刷してたくさん天井に貼った。壁は目につくからって貼らせてもらえなかった。まぁ僕も自分の写真を家中に貼られるのは落ち着かないかも。

 でも天井はいつでも見えるからいい。電気を消すと見えなくなるけど本物の紫帆と一緒だし。

 どの紫帆も大好きだけど、一番好きな写真は台所の棚の上あたりにある無表情な写真。無表情だけどなんだかとても暖かくみえるから。あれを撮ったのはゴールデンウィークの始め。最初で最後に一緒に外へ遊びに行った時。

 僕らはハイキングに行ったんだ。外に遊びに行くのはとてもわくわくしたんだけれど、外に行くと人目がある。ゴールデンウィークの山はちょうどピクニックのシーズンなんだ。気候もちょうどいいし新緑も綺麗だし。

 でも新緑なんかより紫帆のほうがずっと綺麗で魅力的で、手を繋いでいるだけじゃ我慢ができなくなって遊歩道をはずれて抱き合った。蚊って夏のイメージだったんだけど春にもいるんだね、めっちゃ蚊に噛まれてびっくりした。でもあとで噛まれたところを舐めさせてもらった。いつもと違って皮膚が赤く膨らんでいてどきどきした。痒いって怒られたけど。


 それであの写真はちょうど遊歩道を歩いていたときの写真だ。

 皐月の風は春の風とは少し違ってどこか固く涼しくよそよそしくて、それが紫帆の髪を強くゆらして振り返った瞬間の写真。この妙な余所余所しさは、きっと僕と手を繋ぎたいのに恥ずかしいことの裏返し。紫帆は女の子だから世間体を気にしている。というか僕はもっと気にしたほうがいいらしい。

 そんなことを言われても、世の中の全てよりずっとずっと紫帆が好きなんだ。外だとそれがままならない。だから外で遊ぶのはやめて、家でいちゃいちゃすることにした。


 写真を見ながらそんなことを思い出してごろごろ寝転んでたら紫帆が帰ってきた。さっそく抱きつこうとしたけれど、どうしても今日中にやらないといけないレポートがあるらしい。

 最初は僕がローテーブルでパソコンを広げる紫帆を後ろから抱きしめた。けれども今日はエアコンが効かないくらい暑すぎた。

 目の前にいるのに触れないなんて無理って僕がわがままを言っちゃったから、座椅子代わりに寝転がった僕のおなかに紫帆が座ることにした。この重さはとても気持ちいい。ここに紫帆がいる。世界の重力を捻じ曲げてここに紫帆がいてくれる。

 なるべく邪魔にならないように、右手をワンピースの中にそっと忍ばせて背中を少し触る。左手は折り曲げられた膝。集中できるように触ったらなるべく動かさない。僕は座椅子。座椅子だから動かない。

 そうすると、つぅと背骨に沿ってたれてくる汗が僕の中指と薬指の間のくぼみにたまる。舐めたいと思っていたらくぼみからあふれて僕の手の甲を伝って肘に流れ伝ってきた。僕の方にやってきた汗がなんだか愛おしい。でも動くと紫帆の気が散ってしまう。こころを無にする。もったいない。紫帆大好き。こころが無になったら紫帆のことしか入ってなかった。無に、ムニムニしたい。


 どのくらいそうしていたのかな、夜はすっかり窓の外を暗く染めて、エアコンがようやく仕事を開始した。代わりに紫帆からは汗があまり落ちなくなって少し残念。だから紫帆におなかの上から下りてもらって背中から抱きしめた。僕は今背もたれだから絶対動かない。首を舐めたりもしない。でももどかしいから髪の毛の匂いを嗅ぐ。整髪料の香りの隙間から汗の香りがした。トリートメントっていうんだっけ? きっとさっき僕の手の甲と肘を流れて行ったのと同じ香り。そう思って自分の手の甲を嗅いでみたけど、もう匂いはしなかった。悲しい。あの汗はいなくなってしまった。無くなってしまうのは嫌だ。

「成、どうしたの? 泣かないで」

 紫帆は振り向いてキスしてくれた。好き。

「邪魔してごめんなさい」

「大丈夫。もう少しだから待ってて。おなかすいた?」

「すいてない。平気。ごめんね。やっぱりお腹の上にのって」

 紫帆がお腹に乗っかる。重さというここにいる実感。ちゃんといなくなってない。安心した。見上げると紫帆の顔が見えて、天井にもたくさん紫帆がいる。多幸感に包まれる。これ、いいなぁ。たまに乗っかってもらおう。紫帆はちゃんとここにいる。僕といっしょに。

 だから今日ご飯を作ってもらう間、床に寝転ぶ僕に片足を乗っけてもらった。両足を乗せてもらったら転びそうになった。それはそうだ。


「ねぇ成、あなたやっぱりMなんじゃないの?」

「ぜんぜん違うと思う」

「転がってるときは触らないで。不安定で怖いの」

「わかった。ごめんね」

 システムキッチンになるべくくっ付くように横になる。シシャモのように真っ直ぐな気分。僕に片足を乗せて包丁で何かを切るトントンした振動が紫帆の足から伝わって気持ちいい。

 でも紫帆がコンロとシンクを往復するたびに僕を避ける必要があって、キッチン前に寝転がるのはどう考えても邪魔だと反省した。紫帆は優しいから怒らないけど。だからシンクの下あたりに移動した。ここならコンロから距離もあるし危なくないよね? 野菜の下ごしらえをしながらたまに少し足を伸ばして踏んでくれる。なんだか幸せ。紫帆がここにいる。

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