第2話 透明人間②

家に着いたのは日が暮れてからだった。1時間くらい前から風が強く吹き始め、アパートの横に生えているイチョウの木を大きく揺らしている。

僕は、藤沢さんのスマホを片手に、藤沢さんの部屋のインターホンを鳴らす。

「まだバイトかなぁ...」

スマホのホーム画面に映る時刻は、19時だった。

一応インターホンを押してみたが、おそらくはまだバイトだろう。


また後で来るか。

そう思って踵を返そうとしたところ、部屋の中から物音が聞こえた。

あれ、誰かいる?

僕はドアに耳を近づける。

やっぱり、中に誰かいるような気配がする。

それになんだか、焦げ臭い。

部屋の中から匂っているようだ。

もしかして、火事...!?

僕は慌ててインターホンをもう一度押す。

「藤沢さんいますか!?大丈夫ですか!?」

ドアを叩きながら何度も呼びかけるが、返事はない。

しかし、ドアに耳を当てると、やはり微かに物音が聞こえる。焦げ臭い匂いは少しずつ薄れているようだが、状況がわからないためまだ安心ができない。

返事ができないような、大変な事態が起きているのだろうか。

「藤沢さん、救急車とか呼びましょうか!?」

僕の10回目くらいの呼びかけに、やっとドアがガチャリと開いた。

「あの...大丈夫ですから」

震えるような、か細い女性の声。

それは藤沢さんの声ではなかった。

少しだけ開けられたドアの隙間から見えた彼女は、パーカーのフードを深くかぶっており、藤沢さんよりも少し小柄であった。長袖に長ズボンという、この季節には暑苦しい恰好で、顔を隠すようにずっと下を向いている。

「えっと、あなたは?」

怪しさ満点の彼女に、僕は少し警戒しながら聞く。

「...藤沢詩乃の、妹です」

彼女が答えるまでに変な間があった。

「この焦げ臭い匂いは何ですか?」

「お菓子作りに...失敗して。焦がしてしまったんです」

なるほど。確かに言われてみればそんな匂いに感じるが...。

「じゃあこれで」

そう言って、彼女がドアを閉めようとしたところ、ひときわ強い風が吹いた。

ドアがあおられ、勢い良く開く。

ドアノブを握っていた彼女は、それによってバランスを崩し、僕の足元に倒れた。

「だ、大丈夫ですか?」

僕は彼女に手を貸そうとかがむ。

慌てて体を起こす彼女は、フードが脱げていることに気づいていなかった。


僕は彼女を見て、目を丸くした。

あるはずのものがなかったのだ。

「首が...ない...」

服から首が生えていなかった。

いや、それどころか、よく見ると手や足もない。

見えるはずの人肌が何も見えないのだ。

ふくらみを帯びた服が宙に浮いている状態である。

まるで、透明人間 ———。

僕が呆気に取られている間に、彼女は逃げるように部屋の中に入り、ガチャリと鍵をかけた。僕はしばらく、自分が見ていたものを頭で整理できず、ドアの前に放心状態でいた。徐々に冷静さを取り戻すと、見てはいけないものを見てしまったという恐怖から、段々と血の気が引いていく。スマホを返すことなんかすっかり忘れて、自分の部屋に逃げ帰った。その後の僕の行動は傍から見れば奇行であったかもしれない。

部屋の四隅に盛り塩を置き、残っている塩を全身にかぶった。そして、布団に潜りこんで見よう見まねの念仏を唱えながら、朝を待った。これが、僕のできる限りの「やばいもの」から身を守る方法だった。透明人間に盛り塩や念仏が効くのかどうかは知らないが、その時の僕はそんなことを考える余裕はなかった。

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