第六話「洗い場でばっちり身を清めるべし」④

 ちかやと両親を見送ったあと、結衣奈たちは温泉に足を向けた。気分がよかったので、奮発して観光客向けに新装開店したばかりの綺麗な浴場にお金を払って入り、マラソンと神楽の疲れを癒すべくたっぷりと浸かって(といっても、薬効が強い草津温泉に三十分以上浸かっているのは逆効果なので、二十分程度だ)、脱衣所で夕食でも食べに行こうかと話していたところだった。

「……あれっ?」

 コートのポケットに手を突っ込んだまま、結衣奈は硬直した。

「どうしたの?」

 ヨーグルト牛乳を飲んでいた彩耶が尋ねた。

「ない……!」

 結衣奈はコートのポケットを上から叩き、なんの感触もないことを確認するとコートを脱ぎ捨て、パーカーの前ポケットをまさぐった。そこもすっからかんであることが分かるとパーカーをめくり上げ、ジーンズの腰ポケットとお尻のポケットを叩き、ハンカチとティッシュを引っ張り出してぶんぶんと振り、どこにもないと察するとジーンズを脱ごうとした。

「なんで脱ぐの!?」

 すかさず彩耶が制止した。温泉でMPが回復したのか、ツッコミが速い。

「ないの……」結衣奈は呻くように言った。

「どうしたべ?」

「貴重品ボックスの鍵……ない……」

「ええーっ!? ……あっ、髪が」

 那菜子がぽわーっと叫んだ。彼女はその拍子に結い直していた三つ編みをほどいてしまった。

 結衣奈はレンタルロッカーの前で途方に暮れた。目の前には彼女を責めるかのごとく『鍵の紛失時には三〇〇〇円(実費)をいただきます』という注意書きが掲示されている。

 結衣奈は自分が信じられないという顔で叫んだ。

「うっそおーっ!? いままで一度もなくしたことなかったのに!」

「いや、しょっちゅう脱衣所に置きっぱなしにしてるじゃん。私、脱衣所出る前に結衣奈の鍵が落ちてないか確認するクセがついちゃったよ」

「なくしてはないじゃん! わたしたちは一心同体!」

「それでいいの……?」と溜息をついて、彩耶は続けた。

「でも、今日は落ちてないよ。お風呂の中でなくしたんじゃない?」

「ふふっ。今日は落としものの日っちゃねえ。でも、おかげでもう一度お風呂入れるベ」

「あはは。そうだね。まあ、日も落ちたし。露天風呂で星空でも見ようか」

 彩耶と那菜子は屈託なく笑って、もう一度上着を脱ぎ始めた。

「うう……。ごめん……」

 結衣奈は素直に謝るしかなかった。親友たちの優しさが心に染み渡る。

 ふたりに続いて結衣奈もパーカーを脱ごうとしたとき――チャリン、と鍵の音がした。

「――落としもの。これじゃないかしら」

「……えっ?」

 突然声をかけられて、結衣奈は間抜け顔で振り返った。

「こんばんは」

 美しい女性が立っていた。風呂から上がってきたばかりなのか、バスタオル一枚の姿である。

 艶やかな黒髪が腰までまっすぐ伸びている。首筋から鎖骨にかけて露出している肌はよく手入れされていて、陶磁器のようになめらかだ。バスタオル越しに主張する胸元から下の身体つきはまるで古代ギリシアの女神像のようで、芸術的なのに色っぽい。

「……えーっと……」

 だが、結衣奈は彼女の切れ長の目に釘付けになっていた。

 蒼く、昏い。

 そして、どこまで深いのか分からない――。

 深海のような瞳が、結衣奈を見定めるようにまなざしていた。

「はい、どうぞ」

 結衣奈が目を逸らせないでいると、女性は改めて鍵を差し出してきた。はっと我に返った結衣奈は鍵に目をやり、タグにある番号が自分のロッカーの番号であることを確認すると「あ、ありがとうございます」と言って受け取った。

「どういたしまして♪」

「……あのー、ご旅行ですか……?」

 結衣奈はおそるおそる尋ねた。

 女性はくすっと微笑んで、しゅるりとバスタオルをほどいた。

「だあーーーーっ! すみません!」

 結衣奈は反射的に目を逸らした。同性なのにそうしてしまう圧力が彼女にはあった。

「うっわあ、富士山……」

「だ、大瀑布ボディっちゃね~……!」

 彩耶と那菜子がごくりと唾を飲み込んで呟いた。結衣奈はふたりの語彙が心配になった。

 女性はバスタオルを折り畳んで、ゆっくり、なぞるように自分の身体を拭いていく。他人が身体を拭くところなんて温泉で何度も見慣れた光景のはずだが、彼女のそれを見ていると結衣奈は自分の身体を拭かれているようなこそばゆい感覚を覚えた。

「すごいわ。軽く拭くだけでさっと乾くのね」

「そ、そうなんです! 草津のお湯はキレがいいのが特長で!」

「お肌もつるつる……。これ、上から乳液とか塗ったほうがいいのかしら?」

「え、ええっと、なにもつけないほうがいいですよ!」

「ふふ、素敵♪」

 ゆったりと、色気を感じる動きで下着をつけ、ゆるめに浴衣を着てから半纏を羽織って、女性は最後に白手袋に指を通した。フリルのついた洋風の手袋だが、彼女が身につけると浴衣姿にもばっちり似合っている。

 その指先で化粧品がたくさん入ったポーチをつまみ上げ、女性は結衣奈に手を振った。

「それじゃあ、お先に失礼するわね――草津結衣奈さん」

「え?」

 結衣奈が聞き返す間もなく、女性は姿を消してしまった。

「……どこかで会ったかな」

 と思い出そうとしながら、結衣奈は見つけてもらった鍵でロッカーを開けた。

「……あれ?」

 そこには――スマホや財布に乗っかるように、一通の封筒が置いてあった。

「なにこれ?」

 結衣奈は封筒を取り出した。『温泉むすめ師範学校』の校章が印刷されている。

「……あ、思い出したべ」

 三つ編みを作り直していた那菜子がぽつりと言った。

「いまの人、温泉むすめだべ! 確か、師範学校の廊下で見たことあるっちゃね~!」

「えっ、あんな人いたっけ?」と、彩耶が言った。

「二年生だべ。わたしたちの一年先輩にあたるべさ」

「へー。20歳くらいに見えたな。色っぽかったし」

「なんか不思議な人だったけど……」結衣奈は封筒を開けながら彩耶と那菜子の会話に加わった。「草津温泉のよさが分かるってことは、悪い人じゃないよね!」

「その判断基準はどうだろう……」

 彩耶は苦笑した。

「それに、師範学校の生徒ってことは四月からわたしの先輩じゃん! 今度挨拶しとこーっと」

 封筒には一枚の紙が入っていた。

 三つ折りにされたその紙を引き出して、広げる。なにやら堅苦しい単語が連なった文章が並んでいたので、結衣奈は読み上げることにした。

「えーっと、『草津結衣奈様。転入試験の結果通知』」

「あっ、その薄さは……」

 彩耶が何かを察した声を出した。

「『平素は格別のご高配を賜り、厚く御礼申し上げます。

 先日はお忙しいなか、転入試験にお越しいただき誠にありがとうございました。厳正なる選考の結果、残念ながら今回は【不合格】との結果となりました。

 末筆ではございますが、貴殿のご健勝と今後のご活躍をお祈り申し上げます』」

「あっ……」

 那菜子も何かを察した声を出した。

「……えっ?」

 結衣奈は文章の頭に戻って、今度は声に出さずに読み直した。

 見間違えたのではないかと期待して目を通したが、何度見ても【不合格】と書いてある。ならば誤植かミスプリントではないかと思ってもう一度読み直したが、「『残念ながら』今回は不合格」と書いてあるせいでその可能性も潰えた。

「なるほど」と結衣奈は結論づけた。

「『草津結衣奈様』の宛名を間違えたんだ。別の人の不合格通知を送っちゃったんだね、うん。もースクナヒコさまはおっちょこちょいだなあ♪」

 最終手段である。結衣奈は現実から目を逸らした。

 そんな彼女の両肩を彩耶と那菜子がポンと叩いて、結衣奈の意識を一瞬で現実へと引き戻した。

「……結衣奈、ドンマイ。いつでもマラソン勝負しよう」

「……ゆ、結衣奈ちゃん。学校が違っても、わたしたちの友情は永遠に不滅っちゃね……!」

「う……」

 結衣奈はへなへなと崩れ落ちた。今日一日で溜め込んだ幸せが急速に逃げていくのを感じた。

 ――日本一の温泉むすめになる女、草津結衣奈。

「……もおおーーーーっ!! 何が悪かったってのさあぁぁーーーーっ!!」

 栄光あるその第一歩で、彼女は豪快にけっつまずいた。

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