中編

 そこにはいつも通りの光景が広がっていた。

体に覆いかぶさっている毛布の中からはハマっていた漫画が顔を出している。

星を模したカーテンの隙間には桜の花びらが舞っているのが見えた。

そうだ、明日は日曜日だった。

花見にいく準備をしないと。

写真を撮るためのカメラと、バトミントンのシャトルにラケット。

とりあえずこれさえあれば暇を持て余すことはない。

後は何か適当に携帯ゲーム機でも持っていこうか。

あわただしく部屋を行ったり来たりしている俺を見て、二人は笑っている。


「じゃあ父さんたちも準備しておかないとな。ちょっと母さんと外に出てくるからちゃんとお留守番しておくんだぞ」


 父が俺の頭をくしゃくしゃと撫でる。

大きくて、ごつごつした手。

それなのに優しく触れてくれる父の事が好きだった。


「いい子にできるかな?」


「できる!」


「そーかそーか! 楽しみに待っててね!」


 母が俺に向かって微笑みかける。

時折怖い時もあるけれど、母はいつも優しかった。

ずっと笑顔を見せてくれる母の事が好きだった。


 好きだった、のだ。

それも過去の話になってしまった。

両親の事を思い出せば、棘が胸を突き刺すから。


 人の心が読めるような力を俺は持っていない。

故に、今になっても両親が俺の事をどう思っていたのかなんて分からない。

求めていた問いに答えが出る事は永遠にない。


 時々思うのだ。

愛していたのなら、大切にされていたのなら。

どうして俺は一人ぼっちにされたのだろう、と。


 真っ黒で重々しい何かが体にのしかかる。

圧迫された肺から空気が口へと出ていくのが分かる。

まるで溺れるかのように、ただただ心も体も沈んでいく。


 俺を置いて父も母も、俺に笑いかけながら遠ざかっていく。

待って、いかないでよ。


 ―――俺を独りにしないでよ。


 言おうと思ってまた後悔に苛まれるのだ。

飲み込んだ言葉を今更吐き出したところで、届くはずもないのに。




 スマートフォンから鳴るアラームで俺はようやく逃れることが出来た。


「……夢か」


 久方ぶりに最悪な夢を見た。

寝巻が汗で水分を含んでいるのが分かる。

ふと体を起こそうとして気づく。

何やら重いものが腹の上にのっている。

足だ。天崎の足がのっかっている。

目をこすりながら納得する。さっきの息苦しさはこれが原因か。


「うぇへへへ……しょーしんしょーしん、めざせじんるいせいふく……」


 何かを寝言のように呟いては寝転がる天崎。

というか寝相悪いなこいつ。

とりあえず足をどけようとしたところで、彼女が目を覚ました。


「あ、おはよーございます……」


「起きて早々悪いけど足どけてくれる?」


「あし? あしがなにか……」


 寝ぼけていた彼女がようやく状況に気づいたらしい。

白い肌を紅潮させ、わなわなと手を震わせる。


「ごっごごご、ごめんなさい!!!」


 彼女の謝罪が部屋中に響いた。



「本当にすいませんでした……」


「もういいよ、別にそんな大したことじゃないし」


 今日何度目かも分からない謝罪を聞き流しながら、ショッピングモールの中を俺たちは歩いていた。

休日という事もあってか、いつもより人で賑わっているような気がする。


「それで、今日はどこに行くんです?」


「鍵屋と服。1つしかなかったら困るだろ。明日から俺もバイトだし」


「あー……確かに」


「言っとくけど帰りの目途がついたら鍵返せよ」


「わ、分かってますよ!」


 不安だ。


 鍵屋によると、大体作るのに30分程度かかるらしい。

出来たら電話するという事だったから、それまで適当に食料を買っておくことにした。

天崎主導で野菜中心にカートに詰めていく。


「肉やご飯ばかりじゃダメですからね! ちゃんとバランスよくですよバランスよく!」


「金出すの俺だからな?」


「大丈夫ですちゃんと安いの選びますから!」


「あ、人参はちょっと……」


「もう、好き嫌いしない!」


「6820円か……高かったな」


「お酒買ったからでしょ!?」


 なんてくだらないやりとりをしている内にスマホに着信音が鳴る。

レジ袋に入った食料をぶらぶらと提げながら鍵屋へと戻ると、すぐに合鍵を渡してくれた。


「そろそろ12時か」


 時計を見やり、ぽつりと呟く。

昼食にはちょうどいい時間帯だ。

フードコートは人が多いから避けたいものだが。

そんな事を言ったらどうせ天崎は自分が作るとか言い出すんだろうな。


「おい天崎……天崎? 何してんだお前?」


「ドーナツ……! これ食べましょう、これ!」


 どうして案内板にくっついているのかはひとまず置いといて。

彼女が指差した先には、ドーナツの有名チェーン店が3階にあると書かれていた。


「何でドーナツ?」


 というかどこでも食べられるだろそんなもの。

大して高くないし。

流石に80円じゃ無理だろうけど。


「……ダメでしょうか?」


「ダメというか、健康第一みたいな事を言ってるお前がこんなもの食べたいなんて言うと思ってなかったから。驚いただけ」


「あ、いや~。それは……そう! チートデイ! チートデイってやつです!」


 チートデイとは、本来ダイエットや筋トレにおいて厳しい食事制限をかける中で1日のみ体を満足させるために好きなものを好きなだけ食べる日である。

筋トレもダイエットもしないというのに何を騙そうっていうんだ。


「……3個までだからな」


「ありがとうございます!」


 馬鹿だよな、俺も。

昨日からずっとコイツに振り回されてばかりだ。

人に親切にしたところで、自分が惨めになるだけなのに。



「おぉぉ……おぉぉ……!!」


 皿に乗った3つのドーナツ。

2つは半分がチョコに濡れたもので、もう1つは中に生クリームが入ったものだ。

天崎は感動したようにそれらを見つめていた。


「この質感! このオシャレさ! そして何よりもこのフォルム! 素晴らしいです! とても文明の進化と信仰の深さを感じます!」


「ドーナツにそんなものを感じる奴がいるかよ」


「いやーいいですよねこの丸! まるで―――、えーっと。まるで……」


「無理して例えようとしなくてもいいっての。というか今までドーナツを食べた事無いのか?」


「それがですね。今まで一度は食べてみたかったんですけど、中々機会に恵まれなくて。あはは……」


「…………」


 やっぱりこいつはどこかおかしい。

今のところ害になるような事は何もされていないが、発言の節々にどこか違和感がある。

それに色々と不自然なところが多い。

……まぁ変な事をやりそうになれば追い出せばいいか。

喉に引っかかった不安を流し込むかのように、コーヒーに口を付けた。


「もしかしてお腹いっぱいですか? 私がもらいましょうか?」


「食い意地はってんじゃねーよ。食べるよ普通に」



 会計を済ませて店の外に出ると、向かいにファンシーショップがあるのが目に入った。

あぁ、そういえばも買っておかないとな。


「どうしたんですか? あ、もしかしてあれですか? 『推し活』とかいうやつですか?」


「いや違うけど」


「え、じゃあこういう可愛い系のグッズが好きなんですか。それにしては家にそういうのが無かったような……」


「そういうの分析しなくていいから。で、これとかどう思う?」


 目に入った黒猫のキーホルダーを手に取り、天崎に見せた。


「どうって……そりゃ、可愛いですけど……」


「だったらこれでいいな」


「え。ちょっと待ってください、話の流れがつかめないんですけど!」


「こういうのが無いとどっちの鍵か判別できないだろ」


「あ、そういう事……。ならそう言ってくれればいいのに。あ、でしたら! 幸介さんも買いましょうよ、こういうの! 今の何もついてない鍵じゃ味気ないじゃないですか!」


「どっちの鍵か分かれば良くないか?」


「確かにその通りですけど!  お得ですって、ほら! 2つで500円ですよ! 私が黒猫なら、幸介さんは白猫にしましょう!」


「……まぁいいか」


 どうせ食費以外ほとんど使わないし、それで渋るほど俺もケチじゃない。

レジへと商品を持っていくと、それはまぁ眩しいほど明るい女性店員が会計をしてくれた。


「ペアルックですか?」


「いや別にそんなんじゃ」


「そんな感じです!」


「うるせぇ黙ってろ」


「酷い!」


「ふふっ、仲がよろしいんですね」


 うん、これは否定すると余計にこじれる奴だ。

キャッキャと騒ぐ女二人をよそにとっとと500円玉を出した。



 死んでしまわれた200円に心の中で念仏を唱えつつ、キーホルダーをかざしてみる。

白猫を模したそれが揺れる。

やっぱりこんなのは柄じゃない。

でも、どこかで死んでいたはずの感情があるのもまた事実だ。


「ほら、お前の」


「……えへへ。こんなものを買ってもらっていいんでしょうか」


「は? ……お前変な所で遠慮するよな。俺があげるって言ったんだよ。だったら受けとりゃいいんだよ。それともあれか? あんまり嬉しいものじゃなかったとか……」


「いえ。……いいえ。とても嬉しいです。もし忘れられても、あなたがおじいちゃんになったとしても、私は覚えています。覚えて、ずっとずっと大事にします」


 そう言って彼女は笑った。

嘘のようで、どこか真面目にも感じる彼女の微笑み。

それは俺の心に刺さるような痛みを伴って、少し苦しかった。


「そんな大層なものじゃないぞ?」


「いいんです。私にはそれで充分ですから」


「馬鹿な女」


「何か言いました?」


「いや別に」


 彼女をからかうようにごまかすので、俺は手一杯だった.



「暇っすわー。暇すぎて倒れそう。なーんか良い事起こんねーっすかね」


「そんな事言える余裕があるなら平気だろ。手ぇ動かせ手」


 どうでもいい事を呟く後輩に対してぼやく。

外は暗がりに包まれ、明かりを灯してあるコンビニエンスストアも中身は寂しいものである。

おにぎりは繁忙期を終えて後は取り残され、後はもう賞味期限切れを待つだけの状態。

もうすぐ深夜にさしかかろうとしている事を考えれば当然のことではあるが。


「夜三河先輩は無いんすか? こう、浮いた話とか」


「そういう話を俺に求める時点で間違いだろ。目腐ってんのか」


「相変わらず口悪いっすね……。まぁそうっすけど」


「お前はそれよりも就活気にした方がいいだろ。ちゃんとやらないと俺みたいになるぞ」


「嫌な事思い出させないで下さいよ」


 そんな事を言っていると自動ドアの開く音がした。

店のタバコを補充する俺の背で後輩がいつも通りの覇気のない接客用語を口にする。


「らっしゃいませー」


「いらっしゃいませー」


 振り返った時にはその客は店の奥へ入っていったらしく、顔は見えなくなっていた。

後輩が顔をにやつかせながら俺にひそひそと話しかけてくる。


「中々可愛い子でしたよ」


「お前またそんな事言ってんのかよ。アホか」


「いやーちょっと日本人離れしたっていうの? 少しそばかすがあるけどそこがいいみたいな」


 何か嫌な予感がしてきたんだが。


「……そろそろ俺上がりだから帰ってもいいか?」


「え、あと5分じゃないですか。もうちょっとゆっくりしていきましょうよ」


「どこ目線だ。いいからとっとと―――」


「すいませーん」


 声をかけてきたのは先ほどの客。

もといやはりと言うべきなのか、天崎だった。


「……もしかしなくても俺はお前にバイト先を教えてないよな?」


「そうですね! 要するに偶然です!」


「そんな堂々と言われてもな」


「……あ、わぁ~幸介さんじゃないですか~! びっくり~」


「下手くそだし遅いんだよ色々と」


「え、何すかひょっとして知り合いとかっすか?」


 やめろ介入してくるんじゃないプライベートな空間に。

仕事中だけども。


「それはもう」


「お前が何か言うと話がこじれるから黙ってろ。……ただの知り合いだよ知り合い。それ以上も以下もない」


「へー、何かそんな雰囲気じゃないみたいっすけど」


「それ以上詮索してみろ、舌引っこ抜くぞ」


「ひぇ。冗談ですよ冗談」


「じゃあ俺着替えるから。後任せたわ」


 そう言い残して俺はレジから事務所へと大股で歩いていく。

やはり、天崎は怪しい。

重要な何かを俺に隠している。

そろそろはっきりさせておかないと、危ういのは俺の身かもしれない。

別に生きようが死のうがどうでもいい話だが、惨たらしく殺されるのは本意じゃない。

バイトの制服を脱ぎながら、そう思った。


 着替えを済ませて駐車場を横切ると、そこには天崎が待っていた。

片手に何かが入った包みを持って、何かを口ずさみ空を見上げている。


「アルバイトお疲れ様です、幸介さん」


「……おぅ」


「お疲れだと思って。はいこれ、肉まんです!」


 包みの中から顔を出したのは、彼女の言う通りほかほかの肉まんだった。

暗がりの中で、白い湯気がその存在を微かに主張している。


「お前金欠だったろ。まさか俺の口座から引き抜いたとかじゃないだろうな」


「え、そんな風に思われてたんですか!? 違いますよ借りたんです友人に! 1000円だけ!」


「そうか。俺は金を借りたまま返さん奴が嫌いだ」


「……そうですよね、あなたはそう言いますよね。でも大丈夫です! ちゃんと耳そろえて返しますから!」


「表現の仕方が違ぇ。というか1000円借りたならもっと他の事に使うべきだろ」


「まぁいいじゃないですか。私がこうしたかったんです。というわけで、冷めないうちにどうぞ!」


「……はぁ」


 受け取った肉まんから強い熱気が伝わる。

俺はそれを掴むと、両手で真っ二つに引きちぎった。

片方を天崎の手元へと押し付けた。


「この後夕飯もあるのに一人じゃ食えねぇ。お前も食べろ」


「わっ、っと、熱ッ。……もう、素直じゃないですねぇ」


「うるせぇさっさと食え」


「はーい」


 量産型の、何の変哲もない肉まん。

それが美味しく感じたのは。

……いいや、何でもない。



 事件が起きたのはそれから数日が経ったある日の事だった。


「畳んだ服、入れておきますね」


「あぁ」


「ん、何ですかこれ? 絵と写真? もしかしてこれはご家族ですか?」


「……やめろ。それは触れなくていい」


「でも良く描けてますよ。なるほど桜と家族ですか、いいですね」


「いいから」


「これを見たらきっとご家族も喜びますよ」


「いいっつってんだろ!!」


 気付けば、声を荒げてしまっていた。

彼女も彼女でしまった、という顔をしながら一度小さく肩を震わせた。


「あ……悪ぃ。捨てなかった俺に非がある。後で捨てておくからそこに置いといてくれ」


「どうして捨てるんですか? こんなに素敵なのに」


「は?」


「私はこれが愛のこもった素晴らしい作品だと思います。何も捨てなくても」


 やめろ。

愛だなんて知った口を効くな。

そんな美談なんかじゃないんだ。


「素敵かどうかはお前が決める事じゃないだろ」


「いいえ、分かります!」


「何が!」


「あなたたちが強い愛で結ばれていた事です!」


「ふざけんなよ」


 そうだ、ふざけるな。

下手くそな絵のたった一枚で何が分かる。

されど彼女の目は真剣にこっちを見据えたまま離さない。


「ふざけてません」


「たった数日過ごしただけで俺の事を知った気にでもなったのか!? 馬鹿じゃねぇの。お前がそんなんなら教えてやるよ! 俺の両親は無責任なくそったれで、その子供の俺はどうしようもない中途半端野郎だ!」


「……やめましょうよ、そうやって無為に自分を傷つけるのは。あなたの両親は確かに無責任なところもあったかもしれません。ですが心からあなたの事を愛していました。これは本当です」


 意味が分からない。

分かるはずの無い事をどうしてこいつは知った体で話しているんだ。


 混乱と怒りで頭に沸々と上る血はいよいよ止まらず。

俺はとうとうその言葉を口に出してしまった。


「……出てけよ。出ていけ。もうお前の妄言に付き合ってられん。頭がおかしくなりそうだ」


「…………」


「出ていけよ!!!」


 黙ったままの彼女を追い払う様に、目についたものを片っ端から投げつけた。

逃げるようにドアの前へと消えていく彼女の目には。

うっすらと涙が光っているように見えた。



 俺の両親は善人だった。

自分の生まれた意味を「人助け」なんてわけのわからない事に本気で見出すような人だったらしい。

人を助ける事に見返りなんて求めなかったし、とにかく優しかった。

きっとそれで目を付けられていたのだと思う。


 俺の両親は馬鹿だった。

そうでなければ、連帯保証人になんてならずにすんだ。

そうでなければ、「幸介」なんて無責任な名前を息子に付けるはずがない。

そうでなければ、そうでなければ。

ほんの少し、ずる賢くさえいれば。

自殺なんて馬鹿な手段を選ばずに済んだはずなのに。


 約束していた花見の前日、二人は車の中で遺体として発見された。

死因は一酸化炭素中毒。

車の中に遺書が見つかった事から自殺と判断された。

間違いであってほしかったが、多分正しいのだろう。

遺書にも手を付けられず、あの日からずっと俺の時間は止まったままで。

せめて夢の中では二人に会いたいと、得意だった絵で表現しようとした。

けれど描いたところで、結局虚しさが増すばかりだった。


 死ななくては。

使命感めいたそれに憑りつかれてからはずっと苦しかった。

もう、疲れたのだ。

ただ生きる事にも、必死に前を向こうとすることも。

終わりにしたかった。

天崎に会うまではそのつもりだった。


「馬鹿だよな、俺も」


 散らかった部屋の中で一人自嘲する。

ただ静寂が反射するのみで、何の言葉も返ってこない。

自分が死のうって時にその場の感情で人助けなんてしようとして。

中途半端に救ったふりをしたかと思えば、傷つけて突き放して。

あの馬鹿な両親以下じゃないか。


「決めた」


 もし彼女が今日中に帰ってこなかったら。

一人ぼっちになれたなら。

その時こそ、今度こそ本当に死のう。



 時計は午後8時を回ろうとしている。

死まで、後4時間。

結局あの絵は破ろうにも破れなかった。


 ノックの音。

ドアを開けると、そこには天崎が立っていた。

あぁ、また死に損なった。

不謹慎ながら第一にそう思ってしまった。


「すいません。もう一度だけ、お話をさせてください。私には誠意が足りませんでした。だから全てお話します、私の事も。あなたのご両親の事も」


 そう言う彼女の目には、確かに覚悟が宿っていた。

気圧されるように彼女を部屋に入れてしまう。

俺と彼女を間をテーブルが挟んで、二人は相反する形となった。


「見ていてください、私の頭のところ」


 彼女が目を閉じ、両手を重ねて天に向ける。

瞬間、彼女の頭には黄色い輪っかが浮かんできた。

蛍光灯よりはっきりしていて、確かにそれは宙に浮いている。

それが飾り物や手品の類ではない事は明白だった。


「天使局自殺対策課。プロトタイプ、コード『Lエル』。それが私の本当の名前です。あなたのような罪のない者の自殺を防ぐため作られた天使であり、そのためにあなたの周りをずっと窺っていました」


「……信じられるかよ」


 口ではそう言っておきながら、俺は少し彼女の言う事を信用していた。

今までのおかしな点も、自身が監視されていたという事を考えればある程度は辻褄が合う。


「その反応が正しいと思います。いきなりこんな事を言って、はいそうですかとなる方が少数ですから」


「…………」


「それで、私は調査としてあなたのご両親にもお会いしました」


「!」


「あなたの事を話してくれましたよ。『本当に申し訳ない事をした』、と」


「そーかよ。向こうでも口だけだったんだな」


「あなたのご両親から預かったものです」


 そう言って彼女は手のひらを差し出した。

開いた先には、ピンクの花弁が顔を覗かせていた。


「桜……」


 この時期、この地方ではまだ桜の開花宣言はされていない。

普通に考えて早くてもまだ2週間近くかかる。


「亡くなる前に持っていたそうです。あなたと本当に、花見がしたかったそうですよ」


「……ははは、バカげてるよ。だったら連れて行ってくれりゃ良かったのにさ。俺も一緒に」


「あなたは自分の名前は卑下していますが、ご両親はその判断を悔いていませんでしたよ。……本当に今でもずっと、幸せになってほしいと願っています」


「何だよそれ……ははは……」


 笑えて来る。

笑いすぎて、涙が止まらない。

本当にウチの両親は馬鹿だ。

自信の影響力と言うものを分かっちゃいない。

どうして自分抜きで相手が幸せになれるなんて思ったのだろうか。

どうして、例え行き汚いと揶揄されても後ろ指を指されても一緒に生きようとしてくれなかったのだろうか。


 大抵の親が子を愛すように、子だって親を愛するのだ。

憎しみなんかよりも先にずっと、愛が勝っていたのだ。

気付いてしまえば耐えられなくなるからとうそぶいて。

久しく忘れていたその感情は、この涙は。


「あぁ、馬鹿馬鹿しい」


 ―――正しいものなんだろうな。


 泣きじゃくる俺の手を優しく握るエルの手は、冷えた外の空気など知らぬかのように温かった。





 


 

 

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