第4話 嫌いにならないで


「えっ?! 休業ですか?!」


 マスターからかかってきた電話に出た嶺は、大学の食堂に居ることも忘れてつい、大きな声を出してしまった。幸い、食堂は他の学生達の談笑で騒がしく、嶺の声に反応してそちらを振り返るような者はいなかった。

『そーなのよ』

 と肯定するマスターの声はいつものようにおちゃらけてこそいたものの、疲弊が窺える。

『まー。隠してても目にしちゃうかもしれないから言うけど。ちょっと炎上しちゃってねぇ~』

「炎上?」

『そうそう。ちょーっと、麗がやらかしちゃってねぇ~』

 麗が、とオウム返しに呟いた。直ぐに浮かんだのは、麗の軟派な性格に、客と腕を組んで消えた早朝のことだった。もう、二度や三度ではない。シフトが同じ日はほぼ毎日、そうだった。とっかえひっかえ。毎回別の男や女と早朝の街へ消えていった。本当に見境がない。

『そういうわけだから。悪いけど、無期限の休業! 常連さんにも迷惑かかっちゃうと嫌だしね。ほとぼり冷めた頃に細々と再開するから。まー、取り敢えず、暫くおやすみでっ!』

 言うなり電話が切れた。「ちょ、」もっと詳しく聞きたかったものの、後は自分で確認するなりしろと言うことのようだ。

「……何かトラブル?」

 切れたスマホを見つめていると声がかかった。嶺の目の前で那智が蕎麦を啜っている。

「んー……そうっぽい。どしよ、もう夏休みなのに。バイト無くなっちゃったや」

「……そうですか」

「炎上」という言葉から、麗が何かやらかした? と察する那智だが、口にはしなかった。以前、自分の愛妹の麻知が……恐らく麗とホテルに行って、そこへ取り残されたことを思い出す。怒りや不信感、疑惑で嫌な感情が押し寄せるが、那智は光子の魂の現世とはまだ出会ったことがない。人から聞いた話から出来たイメージは確かに最悪だったが、まだ判断するには時期尚早のように感じていた。

 そんなことよりも、今は嶺のことである。項垂れる嶺に、「だったら」と努めて明るい声で那智は身を乗り出した。

「だったら、夏休み、僕と旅行に行きませんかっ?」

「旅行!」

 那智の期待に弾む声に、嶺もバァっと表情を輝かせた。決まりである。相変わらず、那智は目を細めてそんな嶺のことを眺めた。

「何処か行きたいところ、ありますか?」

「えっ、一杯ある!」

「………」

 キラキラと目を輝かせる嶺に、那智は思わず「可愛い」と本音を溢してしまうところだった。

「んんっ」

 誤魔化して蕎麦を啜る。嶺も電話があって以来手をつけていなかった目の前のラーメンを啜り始めた。

「那智、今日の夕方暇? バイトだっけ?」

「いいえ。バイトは無いです。暇ですよ」

「だったらさ! 俺んち来いよ! 計画立てよ!」

「えっ! あ、はいッ……! よ、喜んでッ……!」

 那智が何故声を上擦らせたのか、嶺は知らない。



******


 

 三限までの那智に対して、嶺は五限の授業をとっていた。ただ待つよりいいかと、那智は嶺と同じ授業を受講した。大講義室だったことと、何回生でも取れる講義だったので普段は居ない学生がいることを不審に思われることも無かった。

「なんか新鮮だな。一緒に講義受けるって」

「そ、そうですね…。被ってるのは何個かありますけど、一緒に受けることは無いですもんね」

 お互い、流石に講義は同期と一緒に行動していた。時々、空きコマに部室でだれたり、昼御飯を食べることはあっても、基本、大学内では嶺と那智は別々に行動していた。

「サークルでは隣に座るけど。講義室で隣に那智が座ってるのって変な感じ」

「そ、そうですね…」

 そわそわと落ち着かない那智に、首を傾げた。教壇では白髪が目立つ背の低いお爺ちゃんが何やら喋っているがよく聞こえない。マイクの調子が悪いらしく、地声で講義をすると決めたせいもあって、開始十五分で既にぐだぐだである。嶺達のように、周りの学生もそれぞれ私語で時間を潰していた。何人かの強者達はぞろぞろと講義室を出ていった。

「……ああいうの、良くないよな」

 それを見咎めて、嶺は眉を吊り上げる。

「ちょっと行ってくる」と言うなり立ち上がるので、どうするかと思えば前の席へ移動した。教授の視界に入る席で、真面目にノートを取り始めた。

「……」

 那智はそんな嶺の背中を羨望の眼差しで暫し眺め、自分も立ち上がり、そんな嶺の隣の席へと腰を下ろした。

 教壇から数えて前から二番目の正面の席。此処なら、教授の小さな地声も不便無く聞こえた。只し、私語も教授の耳に届く距離である。

 教授と目が合った那智はドキリとした。別に、その教授が何を考えたかなんてわかりはしないが、自分なら、と考えた。……自分なら、去っていく学生がいる中、近寄って真面目に講義を聞いてくれる学生がいたら、嬉しいし心強い。

 残りの約七十五分間、二人は一切の私語をせず、くそ真面目にノートをとるのだった。





「那智までついて来なくて良かったのに」

 講義が終わると、いの一番に嶺はそう言った。

「僕は嶺さんの従者ですから」

「なんそれ。お前はもう、自由だよ」

 複雑な表情をして笑う嶺に、言葉を誤ったかなとヒヤリとしたが、「嶺の従者」というのは、那智にとっては誇らしい言葉だった。広げていたノートや文房具を片付け、席を立つ。

「飯、どうする? 食堂で食べてく? それとも、買って帰る?」

「あー。嶺さん、お腹空いてます? どちらも魅力的ですが、折角ですし少し寄り道して、居酒屋でも行きません?」

「おっ。いいねぇ!」

 嶺達の通う大学では、五限終了時刻は十八時。大体の一人暮らしの学生は食堂で晩御飯を食べてから下宿先に帰っていく。今日も例外でなく、嶺達以外の学生の多くは食堂の方へ足を運んだ。

 嶺と那智は食堂の前をスルーし、正門を抜ける。そんな学生もいるにはいるが、少数派だった。

 嶺にとっては、いつもの帰り道とは真反対の道を行く。大学からの最寄り駅の方向だ。電車で通う那智にとっては慣れ親しんだ道である。

「こっちに美味しいチーズケーキの店があるの、知ってます?」

「え、知らない。こっちの駅、全然使わねぇから…」

「嶺さんのアパートからの最寄り駅は別ですからね」

 道すがら、そんな他愛の無い会話をする。嶺が気になっていた古本屋がエロ本ばかりを取り扱っていることもこの時に初めて知った。那智がそれを知っていることが意外で、嶺は目を丸めた。

「………那智、行くんだ……?」

「行きませんよッ…! 僕も、古本屋って聞いてフツーに間違えて入っちゃっただけですッ!」

 赤面する那智に笑いながらも、足は止めない。そうするとまた目に入るものが変わって、話題も変わる。古びた外装の飲食店。嶺なら外装だけで判断してしまい絶対に入らないが、入ってみればどうやら蕎麦が美味しいらしい。那智にそう言われると「今度行ってみようかな」と思ったりする。

 目当ての居酒屋は駅の直ぐ近くにあった。ど平日とあって客の入りはイマイチのようだが、中に入ると和モダンな内装が直ぐに嶺の心を掴んだ。濃い茶色の床板や家具に、黒色の柱。オレンジ色の灯りが暗過ぎず明る過ぎずにとてもいい雰囲気を醸し出す。カウンターに並ぶ日本酒の数々に胸が高鳴る。

 那智はカウンター席には座らず、案内されるままに奥の個室へ進んだ。促され、嶺から先に靴を脱いで畳の上に上がる。

「……こういう居酒屋だったとは」

 寛いで辺りを見回し、改めて嶺が溢す。視線の先は那智の背後に向けられている。先程、店員によって閉められた障子だった。凝った細工が施されていた。店の品格の高さが伺える。

「……お嫌いでしたか?」

「いや、すげぇ好き!」

 嶺の屈託無い笑顔に、那智やはり目を細めて笑う。

「嶺さんなら、大衆居酒屋も好きでしょうが。こういうところも好きだろうなって」

「はは! 那智はなんでもお見通しだな。普段はきらびやかなバーだったから。こーゆー、和な感じ、なんか久々でめっちゃいい」

 バーと言う単語に、那智だけではなく口に出した当人の嶺もピクリと反応した。

「…………あー、バイト。どうしよっかな…。取り敢えず、那智と旅行するとして。そっからまた、バイト探しかなぁ~…」

「………結局、どういったトラブルが?」

 那智が鋭く目を光らせたことに、嶺は気が付かない。メニュー表を捲りながら、何食べよっかなと小さな一人言を言っている。

「てかまず、酒だよな。取り敢えず、生?」

 那智にも見えるようにと机の上にメニュー表を広げ、嶺は生ビールの写真を指差した。こくりと那智が頷くのを確認して、嶺がきょろきょろと呼び出しボタンを探す。

「あ、この店、スマホで注文するんですよ」

「スマホで?」

「そこのQRコード読み取るんです。あ、僕がやるんで。嶺さん、適当に食べたいものとか言って下さい」

 生ビール二つに、枝豆やだし巻き卵、牛タンのシチュー、焼き鳥の盛り合わせなど、つまみを数品オーダーし、また話を続けた。

「俺もネット情報なんだけど……。なんかさ、麗が、どうも人妻と寝たのがリークされたらしくて。もう、旦那さんカンカンらしい。大炎上よ」

「……あら」

「いつかトラブルになるんじゃないかとは思ってたけど。ほんっと、めんどくせぇわ。麗は自業自得だけど。店とか巻き込むなよってな」

「………」

 静かな怒りを混ぜながら言う嶺の話は正論だったが、そんな嶺に那智は違和感を感じた。嶺は正義の男であったが、それでも無慈悲ではない。……本当に、嶺は麗のことを嫌っているようだった。普段の嶺ならば、「自業自得」としながらも、相手のことを心配していそうな気がするが……。

「ま、そんなことはどうでもいいわ。旅行の話しようぜ! 何処行く?」

 嶺が切り上げると言えば、この話はもうおしまいである。那智も頭を切り替えて、「そうですね……」と行く先を思案した。

「夏と言ったら、やっぱ沖縄ですか?」

「おっ、いいねぇ!」

「僕より嶺さんですよ。何処か行きたいとこありますか?」

「えー? 俺が言うとそれに決まっちゃうじゃん。沖縄にする?」

「ええっ! そういうのはずるいですよ! 嶺さんの行きたいところが僕の行きたいところです!」

「ほら。そうなっちゃうだろ?」

 嶺は困ったように笑いながら、「沖縄、俺も行きたいもん」と続ける。そうなると、やっぱり那智は何も言えなくなる。

「美ら海水族館、首里城、スキューバダイビング。ソーキそばにラフテー、海ぶどう。お土産は紅いもタルトにちんすこうに、サーターアンダギーだろ」

「もう行く気満々ですね」

「そらなぁ! 何泊する? 三泊くらい? 折角だし、一週間くらい遊び倒す? 学生の夏休みって感じ」

 届いた生ビールで乾杯をした。生ビールが来たのを皮切りに続々とテーブルに並ぶつまみ達に手をつけながら話は進み、遂に泊まるホテルまで予約する。

(………夢みたいだ………)

 ホテルの予約決定ボタンを押した後も、那智の指は震えていた。夢みたいだ、と何度も思った。

「はぁ……早く夏休み来ないかな……」

「その前にテストだな」

「あっ! 今、僕、声に出してましたっ?!」

「ああ。思いっきり」

 動揺する那智に、嶺はやっぱり愉快に笑う。嶺に対する那智の想いになんてまるで気が付いていない。夏の旅行を楽しみにする純粋な声と受け取っているようだ。

「旅行の話、もう決まっちゃったけど。この後どうする?」

「えっ」

 ビールはもうお互いに五杯を飲み干し、嶺は冷酒を飲み始めていた。那智は四杯目のビールである。〆のつもりだったのか、嶺はラーメンを食べ終えてからそう切り出した。

「俺んちで話そうかと思ってたけど。決まったわけだし。この時間だしさ。駅も近いわけだし、那智、このまま帰る?」

「えっ、あっ、」

 那智の頭に咄嗟に浮かんだのは、あの日・・・の麻知の言葉だった。


『兄貴。絶対。ぜぇえええッたいに。現世では、嶺さんに告白して』


 藪から棒に、と思った。けれど、今、麻知が助手席で半べそをかいているのとこの話は無関係では無いのではないだろうか、と思った。

 まさか、麻知は麗とホテルに……? 想像して、まさかと首を振る。

『私、麗のこと好きになっちゃった』

『ぶっ! ッは?!』

 まさか、と思っていたのにそのまさかの可能性が濃厚で、那智は激しく動揺した。連動して、車が大きく中央線をはみ出した。

『危ないじゃない。ちゃんと安全に連れて帰ってよ』

『い、いや、おま、お前………自分が何言ってるかわかってんのか……?』

『何?』

 注意された矢先だったが、那智は麻知をチラチラと伺ってしまい、まるで前方に集中できない。時に車体を揺らしながら、せめても安全の為に減速した車は、のろのろと進む。

『麗は、光子さんだぞ……。嶺さんの妻で、お前の………お姉さんじゃないか………』

『それは“光子”の話でしょ? 麗とは無関係だわ』

『え? いや、いやいや……、だって、お前………』

『何よ』

 キッと睨んでくる妹の形相に、那智はたじろいだ。

『……………ほんとに、好きになった?』 

 それを本気と捉えた那智は、気遣うような声音で尋ねる。麻知はこくりと首を頷かせた。

『……………麗が、欲しいの。だから、危険要素は確実に潰しておきたい。……から。だから、兄貴が嶺さんを掴まえててよ』

『………いや、僕には………』

 可愛い妹の嘘をもってしても煮え切らない兄に、流石の麻知もイラッとした。

『じゃあ、兄貴は! もし、嶺さんがまた光子を……麗を好きになってもいいのっ? 麗は男だよ?! 自分が男だからって嶺さんにアピールするのを諦めてるわけでしょっ? 大好きな嶺さんが、今度は同性に取られたって、心穏やかでいれるわけッ?!』

 麻知の訴えは、的確に那智の急所を刺した。そんなことは、那智だって度々想像した“もしも”だった。

『行動する前から諦めんなよ! ウジ虫がッ!』

 全く…………口の悪い妹である。

『……………ごめん。でも、兄貴。本当に、麗はとんでもない奴だよ。光子じゃないって言う嶺さんの言葉、わかるよ。でもじゃあ、嶺さんが全く別の女性と結ばれてもいいの? 男の麗と結ばれても? 現世でも、耐えるの? 前世では、全く後悔しなかった? 少しの嘘偽りも無く、そうだったって言える?』

 何処に感極まったのか、麻知は遂に涙を流した。これには、流石の那智も狼狽えた。前世が男だったとしても、妹は可愛い。前世でも、自分の弟のように、とても可愛く思っていた子だった。

『……………善処、するよ……』

 口にした時、何故だか凄くスッキリした気分になった。本当は誰かに思いっきり背中を押して欲しかったのかもしれない。


「………嶺さんが良かったら、宅飲み、どうですか?」

 宅飲みなんて、別に初めてではない。だが、緊張の為に那智の声は上擦った。目にもうっすらと涙が溜まる。

「いいじゃん! やろやろ!」

 そんなことには気が付かず―――或いは、アルコールのせいだと決め付けて、嶺はやはり屈託無い笑顔で那智の提案を受け入れた。

「んじゃ、コンビニ寄って酒買おう」

「はいっ!」

 会計は払うと言う那智を嶺が許さず、綺麗に折半した。

 外に出ると、夏と言えどもう暗かった。日中の暑さも穏やかなものに変わっている。じめっとしていない。明日も晴れそうだ。

「こんな時間でもまだまだ飲もうとするの、大学生の醍醐味だよなぁ~!」

 嶺は夜空にうんと伸びをし、ご機嫌に鼻唄を歌い出す。

「やっとまた飲める年齢になったの、感慨深いですか」

「楽しいよ」

 那智は嶺と大学のサークル内で再会を果たした時から、もう幾度と無く前世を懐かしんだ。

 自分の記憶が甦った事に初めて感謝した。戸惑い、孤独に苛まれる事はなくなった。覚えているのが辛くなくなった。寧ろ、時代の変化を嶺と楽しめること、前世と重ねるように今を過ごせることを嬉しく思った。辛いばかりの想いじゃなかった。また、嶺を現世で独りにしない為に思い出したのかもしれないと思うと、誇らしくも思った。自分は魂までもが、忠実なる嶺のしもべなのだ、と。

 前世でも毎晩のように、嶺蔵―――嶺の前世と、酒を飲んだ。その日々と今を重ねる。

 那智はやはり、じわりとその目に涙を浮かべた。前ばかり見て歩く嶺はそんな那智に気が付かない。

 コンビニではチューハイを四缶、スミノフ、チャミスル、澪と、パックの黒霧島……恐らく飲みきれないだろうと思いながら、沢山の酒を買った。つまみにスナック菓子も沢山かごに入っていた。嶺の家まで断固として荷物を持つつもりだった那智だが、半分持たせないと家に入れないと言われると、袋を一つだけ持って貰うしかなかった。荷物を半分こずつ持って、並んで歩く。


 ガチャリ。


 鍵の開く音に、那智の肩がビクリと揺れた。遂に来てしまった、という期待や罪悪感みたいなものが心の中を占める。

 ずっと顔が熱い。けれど嶺は、やっぱりそんな様子の那智に気が付かない。

「流石に家の中は熱がこもるな…。今、エアコン入れるな」

「あ、はいっ……!」

 荷物はテレビの前のローテーブルへ。嶺がエアコンのスイッチを押すと、今すぐ飲むものと飲まないものを袋の中で仕分けて、飲まないものを冷蔵庫に仕舞った。

 那智はただ、そんな嶺を目で追うことしかできず、クッションの上で身を固くしていた。普段の那智ではない。普段ならまず間違えなく、嶺より先に座らない。

 那智にとって嶺の部屋と言うのは、初めてではどころか、那智はこの部屋の合鍵を持っているよく足を踏み入れている場所である。寝起きにしじみの味噌汁を振る舞ったのが最近の記憶にある。それなのに、一々緊張してしまうのは、夜だからとかアルコールが入っているからだとかのせいではない。


(…………嶺さんに、意識して貰う為には……)


 それまでと今とでは、嶺に対する所謂“目標”が違った。

 これまでは、『恋仲にはならずとも、それとは違った、嶺さんにとって一番居心地の良い居場所でありたい』と思って接してきた。しかし、それを進展させようと思っている今、那智は今まで通りでは居られないのだった。

 ドッドッドッド、と心臓が肌を破って出てこようとするほどだ。手が震える。汗が出る。喉が乾く。顔が、頭が、熱くて、仕方がない。

「み、嶺さんっ、あのっ」

「ん? わっ、那智! 顔赤過ぎ……! もう飲んだらヤバイやつじゃね?!」

 つまみの為に買ったスナック菓子を皿に盛って台所から戻ってきた嶺は、やっと那智の顔の赤さに気が付いて驚いた。

 皿を机に置くなり那智の額へと手が伸び、ひやり、と冷たい嶺の手が触れた。ホッとするのに、心臓はますます鼓動を速める。

(逆効果ですよ、嶺さん……)

 そっと目を閉じる。

 それからまた開けば、自分を心配そうに見詰める嶺と目が合い、更に心臓が飛び上がる。近い……。

 どうしよう、と那智が尚も戸惑っている間に、パッと嶺の手が離れた。

「って、これ、熱の時にするやつか!」

 ケタケタと笑う。ホッとしたような、少し残念なような。そんな気持ちもあったせいか、つい、

「顔が赤いのは、アルコールのせいじゃありませんよ」

 なんて言ってしまった。しまった! と思ったがもう遅い。きょとんとしている嶺と目が合った。

「え? やっぱ、熱っぽい?」

「……違いますよ」

 脈無しなのはわかっている。でも、ほんの少しでもいいから、前世より進みたい…。「進む!」と決めてしまうとこうも欲が出てくるものなのか、と那智は恐ろしくもなった。でももう、手遅れだ。一度見てしまった夢は、もう諦めるのが難しい……。

 恋仲になれるなんてことは思ってもいないが、それでも、意識して貰えるようになれば何か変わるかもしれない。……そんな風に、思ってしまった。

 たまたま触れた手に顔を赤らめたり、用もないのに電話してしまったり、顔を見たくて空きコマに部室へ立ち寄ってみたり………嶺が、自分に対してそんな風になることがあるのなら、嬉し過ぎて死んでしまうなぁと妄想した。

「飲みましょうよ!」

 浮かんだ妄想を断ち切り、誤魔化すようにつまみの皿に手を伸ばす。ピザポテトやらミックスナッツやらチータラやサラミなどが一枚の大きな大皿に乗せてある。那智はサラミを摘まんで口へと運んだ。

 チューハイを開け、サラミの油を喉の奥へと流し込む。那智が体調不良というわけではないと見た嶺もそれ以上は気にかけず、適切な距離で腰を下ろし、缶を開ける。「ただの友人」というには近くて、「恋人」というには遠い距離だ。

「でも、気分悪くなったら正直に言えよ?」

「嶺さん酒豪ですもんね。嶺さんのペースでは飲めませんけど……付き合いますよ」

「それ、答えになってないから」

 テレビをつけて、バラエティーを観ながらまた他愛の無い話。大学のおすすめの講義の話やサークルの話。時々、前世の話にもなった。二人は文字通りになんでも話せる仲である。……那智にとって、ただ一点を除いては。


「僕の記憶は二十歳になった誕生日にいきなり甦ったんれ《・》すよ。祝いにお酒を飲んだら、ぶわーって、記憶が押し寄せてきて……」


 今度は記憶の話。

 時間ももう深夜帯を廻っていたが、二人は話に夢中になっていてそんなことには気が付かなかった。テレビは点けているがBGM代わり。空いた酒やお菓子の袋がローテーブルの近くに転がっている。普段の那智ならこれを片付けただろうが、あろうことか普段とは違う緊張の為に、那智はすっかり酔っていた。

「お前っ、呂律廻ってねぇじゃん!」

 嶺の方がよっぽどハイペースで、買ってきた酒以外に家に置いてあった焼酎も開けていたが、まるでノンアルコールでも飲んでいたかのようにいつもと変わらぬ様子でケタケタと笑った。

「それは、もう、たいへんらっらんれす……」

「はいはい。水入れてくるから。今日はお前、もう飲むなよ」

 那智が包み込むように持っていたグラスを、嶺がひょいと取り上げた。新しいもの入れたばかりだったので、「勿体無いから、これは俺が飲む」と宣言するなり、嶺が一気にグラスを空ける。

「っ…………それ、間接キスって言ううれすよ……?」

「は? 何、那智、そんなこと気にするの? そんくらい、味のチェックとかで麗とも頻繁にしてるよ」

 可愛いとこあるじゃん、と笑ったのがいけなかった。……のだろうか、と嶺は後に振り返るが、そこではない。「麗とも頻繁に」「間接キスをしている」と言うワードに、那智の何かがプツリと音を立てて切れた。

 那智はがばりと嶺の方へ倒れて、気が付けば嶺の上に覆い被さっていた。

「ぃでっ!」

 突然の事で嶺は床に頭を打ち付ける。掴まれた手首は動かない。空になったグラスが床をコロコロと転がった。

 両手の自由を奪われ、嶺はキッと抗議の視線を那智に送る。

「………那智、こら、なんのつもりだ」

 少しだけ低い声で諌めた。

「……あなたが悪いんです……。麗さんの名前を出すし、頻繁に間接キスしてるなんて言うし。……少しも僕のこと意識してくれないから……」

「は?」

「ぼくの記憶がよみがえった時、ぼくがっ、どんなに絶望したかわかりますかッ……?」

「……」

「あなたはっ、まずこうこさんのことを想った、なんて言ったけど、ぼくは……ぼくにはっ、あなただけなんだ……」

「……那智?」

 那智の悲痛な訴えに嶺は眉を寄せた。自分にそんな非があったのかとショックを受けた顔だった。那智が自分の付き人としてかなり自分を慕ってくれていたのを知っていた。

「………勿論、お前の事だって考えたよ。俺にとって那智だって、大切な存在だから」

「………嬉しい、けど、……違うんです……」

 那智はアルコールのせいか潤んだ瞳で嶺を見下ろした。顔も真っ赤だ。ひどく、切なそうな顔で嶺を見る。

「……那智?」

 嶺は初めて動揺した。身をよじろうにも、その頭を撫でてやろうにも、那智の力は強く、相変わらず手首は床に縫い付けられてどうすることも出来ない。

 と、嶺の股の間に挟まっていた那智の片方の太ももが嶺の股間を擦った。

「ッ、……おい、那智、……当たってるんだけど……」

「………僕、嶺さんの嫌がることしないって言ったけど……無理かもしれません………」 

「へっ?」

 疑問符を浮かべた嶺の顔に、那智の顔が覆い被さってきた。

「んッ?!」

 驚きに目を見開いているのも束の間、唇を割って、那智の舌先が入ってくる。

「んんッ……!」

 抵抗しようにも依然として那智の力は強く、引き剥がすことが出来ない。せめて身を起こすなり捩るなりしたいが、何も叶わないまま、執拗に舌を絡み取られる。まさかその舌を噛み切ってやることなんて出来るはずがなかった。嶺はされるがままだ。

「ん、んん、」

 抗議の声を出そうにも、長い口づけである。

 流石に酸欠を起こしたのか、くらくらとしてきた。那智の熱い舌先に当てられたのかもしれない。今更アルコールが廻ってきたのか? この、言い様の知れない空気に那智の次の行動が読めない不安が強くなってきた。――――那智を怖いと思ったのは、これが初めての事だった。

 那智の思うままに口の中を蹂躙されたところで、どれ程時間が経ったのか、やっとその口が解放された。

「はっ、………なち、なんするんだよッ……」

 嶺は混乱しながらも、先程よりも敵意を持った目で那智を睨み上げた。まだ顔が近い。那智の目は完全に据わっていた。ぞくりと背筋が粟立つ。感情の灯らない目に、今日の那智のことをやっぱり怖いと思った。

「那智…………、ッおい!」

 嶺の手首を押さえる手が片手になったかと思うと、那智の右手が嶺の股間に触れた。

「僕で勃つ身体にしたい……」

「………………は?」

 また那智が覆い被さってきたかと思うと、執拗に舌を

嬲られる。那智の自由になっている片手が服の下から入ってきて胸に触れ、弄り始める。

 胸を触られることに不快感しかない嶺だったが、流石に何か良くないことが起こっていることを理解していた。このままでは、何か、決定的にまずいことが起こってしまう。脳内はぐるぐるとパニックになったが、身体が一つも動かない。このままされるがままになるのか、とまた焦るが、どうしようもない。

 と、息継ぎの為か、再び口が解放された。ほっとして、那智を見上げる。

「……な、ち……」

「…………嶺さん、涙目になってる……かわいい……」

 言うなり、那智の舌が首筋を舐める。そのまま、ちゅっと音を立てて嶺の首筋を吸う。

「ン、……おい、本当にッ、やめろ、那智ッ」

「こういうこと、光子さんとしたんですか?」

「は、」

「子供を授かったんだから、しましたよね。でも、流石に嶺さんが上ですよね?」

「おい、」

「僕の胸がどれだけ痛かったか………貴方にわかりますか?」

 また那智の右手が嶺の下半身に伸びた。ヤバイ、と思ったが、防ぐ術もなく触られる。当然、欲に反応したりなんてしていない。嶺にとって那智は、そういう対象ではない。

 那智の手がベルトにかかる。ズボンに手を入れる気なのかと思うと、流石に嶺はもう限界だった。


那良之助ならのすけ


 普段よりもずっと低く威厳のある嶺の声が、那智のかつての名前を呼んだ。

 那智はハッと動きを止め、一瞬にして酔いを覚ました。慌てて嶺を確認し、青ざめる。

「す、すみませんッ……!」

 嶺から飛び退き、部屋の奥の窓まで下がったかと思うと、正座して頭を下げた。

「大変っ失礼致しましたッ………!!」

 嶺は服の乱れを直しながらゆっくりと起き上がり、そんな那智を見た。

「…………」

「…………」

 沈黙。

 那智は微動だにせず、頭を下げたままの姿勢で赦しを待っていた。嶺はそんな那智を冷ややかな目で見つめ、その頭では、なんと言葉をかけるべきか悩んでいた。

「…………タクシーを呼ぶ。今日はもう、帰れ」

「はい。大変、申し訳ありませんでしたっ………!」

 那智は未だに顔を上げない。

 結局、タクシーが来てこの部屋を出るまで、那智は顔を上げなかった。

「………お邪魔しました」

「ん」

「………大変、申し訳ございませんでした……」

「……ん」

 玄関で見送り、那智はアパートの階段を下りていった。

 那智の足音が聞こえなくなると、嶺は玄関の扉を閉め、のそのそと部屋の奥へ進む。転がっていたグラスを拾い上げてローテーブルに置き、ベッドに倒れ込んだ。

「……………なんなんだよ、さっきのは……」

 枕に顔を埋め、ぼやく。

 許しがたい行為ではあったが、それ以上に、嶺にとって那智は確かに特別な存在だった。許す許さないなんて次元ではないのだ。だからこそ、混乱した。どうしていいのかわからなかった。

 那智のひたすら土下座していた数分間のことを思い出す。

 消え入りそうな……本当に小さな声で、那智が懇願しているのを聞いてしまった。


「……………嫌いにならないで………」


 本当に、消え入りそうに。

 泣きそうな、子供のような、頼りない声。

(…………嫌いになんて、なるわけないだろ……)

 かといって、流石に伝わってきた那智の自分に対する感情に応えてやれるはずもなかった。

「…………どうしろと……」

 枕に顔を埋めたまま、夜が明けていった。










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