第3話 OLの話(2)

 仕事が終わり、わたしはオフィスを飛び出した。時刻は午後九時半。電車に飛び乗れば、十時の約束には少しの遅刻で済む。

 本来であれば、この時間には電車に乗っていて、十時には合流できるはずだったのに。

 これも全て課長のせいだ。最後に余計な仕事を押し付けられた。そのせいで今慌てているわけだ。

 走る。駅までの距離を考えたら、歩きでも間に合わないわけじゃないけど。だけど、万一電車に乗り損ねたらいけないから走った。


 職場から最寄駅までは歩いて十分強。この周辺で最も大きい駅だ。

 駅舎は高層ビルと直結されている。高層ビル内にはブティック、本屋、家電量販店などが入っている。駅舎を反対側に抜けると、新幹線のホームもある。

 午後九時半過ぎという時間でも、人混みは減っていない。むしろ増えているまである。その中を縫うように歩き、改札にICカードをタッチする。

 廊下を歩いて、新幹線込みで十六もあるホームのうち、一、二番ホームに入る。ここから上り線の快速に乗って約束の橋に向かう、というわけだ。

 ホームで電車を待っている人はそこまでいなかった。まぁ、さっき一本前の電車が行ったばかりだし、それは当然か。

 わずかに形成されている列に加わる。電車が来るまで少し時間がある。なら、早いうちにやるべき事をやってしまおう。

 カバンからスマホを取り出して、チャットアプリを開く。


『ごめん少し遅れる』


 とだけ飛ばして、スマホをしまう。

 ホームに少しづつ人が増えていく。誰もが疲れ切った顔をしていて、ホームに人が増えるたびに覇気が消えていく気がした。

 で、私もその一人ってわけ。毎日朝早くに出勤して、夜は終電ギリギリ。繁殖期には終電を逃す事も多い。

 それは死にたくもなる。休みなんて滅多になく、あっても寝て終わりだし。

 ぼんやりと線路を見つめる。どこまでも続く線路を走る列車は、自分の意思で別の道を歩めない。

 まるで私みたいだ、と苦笑する。親の言いなりで、その次は会社の言いなり。

 ホームに電車が滑り込んできた。甲高い音を奏でながら。

 車内で確認したチャットアプリには、


『待ってるね』


 のスタンプだけが送られてきていた。




 電車で二十分強、途中で普通列車に乗り換え、対面ホーム式の駅に到着する。

 他の乗客に混じってホームに降り立ち、二階の駅舎に上がって改札を出る。そのまま北口の階段を降りて、そこからまっすぐ。

 街灯がそこまでない、昏い道をとにかく走る。すぐに脇腹が痛み出して、体力不足を実感する。

 この辺りは住宅地とも商業地とも言えない、いわば中途半端な場所だ。点在するのはアパートと、そこの一階に入居している唐揚げ屋とか、散髪屋とかだ。

 ちょっと行くと、中規模の橋があった。この橋──より厳密に言えば川──を境に、繁華街が始まる。

 そこに、


「あっ、やっときた。待ってたよ、澪おねーさん」


 その少女は、昨日と同じ格好で待っていた。違うのは、学生カバンを手に持っているという事。それを持っている姿を見ると、彼女が女子高生なのだという事を実感できた。


「ごめんなさい、遅くなって」

「いいよいいよ。おねーさん、ちゃんと来てくれたから」


 昨日と同じように、あどけない笑顔を顔に貼り付けている。

 かと思えば、いじけたような表情を見せ、


「ドタキャンする人とかもいるからさ。そうなるとこっちも大変なんだよ」


 大袈裟に肩をすくめて見せた。


「って、そんな事よりさ、澪おねーさんちゃんとご飯食べてる?」


 会話のジェットコースターに乗っている気分だ。この一分間の間に、話題が二転三転している。

 で、なぜこんな話題を彼女が振ってきたのか。それは不明だ。だけど、何かしらの意図があるのはわかる。


「ご飯? 食べては、いる、けど」


 心配させるのもなんだかな、と思って嘘をつく。


「本当に? じゃあ、今日の晩ご飯は何食べた?」

「あー、と」


 一瞬戸惑う。夕食を摂る時間なんてなかったから。

 その様子を察したのか、


「じゃあ、お昼は?」

「お昼は……カップ麺だったかな。ミニサイズの」


 昼休憩なんてないし、仕事の合間に食べるのだから普通サイズのカップ麺を食べている余裕なんてない。


「じゃあ、朝は?」

「プロテインバー」


 朝はギリギリまで寝ていたいから、コンビニで買い込んだプロテインバーを齧りながら家を出る。


「どうりで。昨日から思ってたんだけど、おねーさん痩せすぎ。ちゃんとご飯は食べなくちゃダメだよ」


 お母さんみたいな事をエリナは言う。そんなふうに体を心配するような事、誰かに言われたのは初めてだった。


「だから、行こ! 夜もやってる美味しいご飯屋、知ってるんだ」


 エリナは昨日と同じように私の手を取って歩き出す。

 精神的な余裕が少しあると、彼女の手のひらの感覚をしっかりと感じられた。

 寒さからか冷たくなっている。けれども暖かさを感じる手。健康的で、柔らかな指先。私の骨と皮だけの手とは大違いだった。


「っあ」


 それを意識した途端、眩暈がした。なんでか、彼女の顔を見ることができない。


「どうしたの?」

「な、なんでもないよ。うん」


 そう返事するので精一杯だった。なぜそうなったのか、それがわからなくてモヤモヤとしていた。




「おばちゃん、まだやってるよね?」


 エリナに連れられてきたのは、橋から駅側に戻って東に進んだところにあった。アパートの一階に入居している居酒屋だった。


「あら、お嬢ちゃん。いらっしゃい」


 カウンターが主体の居酒屋で、テーブル席は二つ。全体的に古っぽい内装だ。

 そこまで混んでいないから、のんびりと過ごせそうだ。


「今日は二人なのね。そっちは?」

「わたしの親戚。普段ご飯あんまり食べてないっぽいから、何かお願い」

「はいはい。じゃ、定食でも出すわね」

 

 トコトコ、とエリナが奥に歩いていく。カウンター席に座って、こっちこっちと手招きする。

 それに倣って私は彼女の隣に座る。


「はい、お冷。お姉さん確かに痩せすぎねぇ。ご飯大盛りにしちゃう」

「あ、どうも」


 元気のあるおばちゃんだと思う。年は五十代後半ぐらいか。お冷を受け取って、喉に通す。冷たい飲み物が食道を通る感覚がした。


「ここ、以前別の人に連れてきてもらったんだけど、安くて美味しいからさ、常連になっちゃった」

「そうなんだ。というか、こんな所にお店あったんだね」


 ここ、帰り道のはずなんだけど気がつかなかった。普段どれほど狭い視野で生きているのだろう。


「お嬢ちゃんはどうする?」

「えーっと」


 声を掛けられたエリナが困ったような表情を見せる。

 そりゃあ買春しているような子だ。お金に困っているにだろうというのは容易に想像できる。

 まぁ、大した出費にはならないだろうし、


「いいよ、奢ってあげる」

「じゃあ、お言葉に甘えて。わたしリンゴジュースで」


 奢られ慣れているらしい。彼女は特に躊躇もせずに注文をする。


「はいはい、いつものね。そっちのお姉さんは、飲み物どうする?」

「烏龍茶で」


 お酒を呑むことはあるけど、だいたい次の日後悔するし、だからお酒はやめておく。空きっ腹っていうのもあった。

 少しして、女将さんがサバの味噌煮定食を私の前に出した。


「いただきます」


 割り箸を手にとり、サバの味噌煮に箸をつける。そのまま口に運ぶと、いい具合のしょっぱさの鯖が、口いっぱいに広がった。

 その余韻が消えないうちに、白米を頬張る。


「……おいしい」


 空っぽになった胃袋に、タンパク質と糖質が染み込む。


「でしょ? ここお気に入りなんだ」


 そう言って笑みを浮かべるエリナ。本当に笑顔が素敵な子だ。その横顔でどれほどの男と関係を持ったのだろうか、と思うと少し辛い感情になった。


「じゃ、食べたら昨日のところに行こ」


 あどけない笑みのままそう言った彼女を、お金で買っているという事実に、私の胸に罪悪感が生まれた。

 だから、その顔を直視できずに、目を逸らしてしまった。

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