貴方の素顔は私だけが知っている~遊び人の元婚約者と地味令嬢が幸せになるまで~

灰色テッポ

第1話 地味令嬢サブリナ

「サ、サ、サブリナ・レイモンドっ! き、君との……。君との婚約を今日をもって破棄するッ!」


「本気で仰ってますのアドニス様!?」


 吃りながら夜会という公けの場所で婚約破棄を宣告したこの美青年は、その王国の社交界で知らぬ者のない遊び人であった。

 彼の名はアドニス・ネスラン。侯爵家の嫡男であり、長く美しい金髪を揺らすその姿はまるでエルフと見紛うほどに優美である。


「む、むろん本気だとも。サブリナ、君が嫉妬に狂って僕の女友達に残酷な行いをしてきた事は分かっているんだ! ぼ、僕はそんな心の醜い者を妻に迎えるつもりはないっ!」


「まあっ!」


 そう驚いた彼女はアドニスの婚約者、サブリナ・レイモンド伯爵令嬢。

 ちょうど一年前、王国一の遊び人が射止めた一つ歳上の女性として、社交界で注目を浴びた令嬢である。


 とはいえサブリナ自身が注目されたと言うよりは、その婚約の不可解さに貴族たちが驚いたというのが正確だろう。

 サブリナは自他共に認める、何の取り柄もない平凡を絵に描いたような女性である。彼女の褒めるところを探すとしたら、辛うじて豊かな黒髪くらいか。


 口性くちさがのない者からは地味令嬢と揶揄されるほど魅力に欠けた、そんな影の薄い女性のサブリナが、有名な遊び人であるアドニスの熱烈な求愛によって婚約したというのだ。

 社交界がその話題で独占されたとて不思議な事ではなかった。


「分かりましたわアドニス様……。しかし我々だけで決められる問題では御座いませんので、明日私の屋敷にて正式な破談の申し込みをして頂きたく存じます」


「む、むろんだとも! 君は屋敷で明日を待つがいい。不愉快だ、もう帰りたまえっ!」


「ではこれにて……。みなさまお騒がせ致しまして申し訳ありませんでした」


 サブリナが夜会から去っていくのを見送った貴族たちは、あたかも薪が新たにくべられた暖炉の様にこの話題で盛り上った。

 まあそれも当然であろう。衆人の中での婚約破棄など常識ではありえない醜聞なのだ。しかも遊び人と地味令嬢の不可解な婚約が破棄されたとあっては、これが面白くない訳がない。


「もっと早くにこうなるべきだったのですわ。地味令嬢のくせしてアドニス様の婚約者であった事が間違っていたのですから」


「でも私、サブリナ様の影が薄すぎて、さっきまでいらっしゃる事にも気付きませんでしたわ。おほほ」


「分かりますわ。アドニス様が眩しすぎて余計にサブリナ様が影に馴染んでしまいますのよね」


 そこかしこから聞こえてくる話し声は、殆どサブリナをからかうものばかり。特に人気者のアドニスに好意を寄せていた令嬢たちにとって、鬱憤を晴らすには最高の舞台であったろう。


「おいアドニス、こんな事して大丈夫なのかよ? レイモンド伯爵家の名誉を酷く傷付けた事になるんだぜ?」


「あっはは、問題ないね。非があるのは向こうだよ? 僕は友人である美しいご令嬢方の名誉を守ったんだ、これぞまさに騎士道精神というものさ!」


 アドニスはさっき婚約破棄を宣告した時とは打って変わった滑らかな言葉遣いで、笑いながら友人の一人にそう答えた。


「そうかもしれんが……。君の声がどもって上ずってた様にも聞こえたからさ、さすがに自分のした事に尻込みしているのかと心配になったんだ」


「おいおいよしてくれよ。どうして僕が尻込みなんてするんだよ。あの吃りはね、そう! 怒りだ。怒りに声が震えたのさ」


「私は分かっていましたわ! アドニス様が正義心に燃えて震えていらしたのが」


「そうよ! あれは吃りなんかじゃなくて、アドニス様が奏でるリュートの調べの様にお美しいお言葉の調べですわ」


 アドニスを両側から挟むようにして寄り添ってきた二人の令嬢は、おそらくアドニスの女友達なのだろう。

 長身のアドニスを見上げるように見つめる二人に、アドニスは軽くウィンクをして言った。


「僕の心の理解者がいるとしたら、この可憐な二人のご令嬢のことだと僕は言うだろう。ありがとう」


 身悶えしながら喜ぶ二人の令嬢はもちろんの事、そのまわりにいた他の令嬢までもが小さく嬌声を上げる。


「ちぇ、心配して損したぜ。社交界きっての遊び人はご健在だな」


 友人の男は口を尖らせながらも、苦笑いをしてアドニスの逞しい胸の辺りを軽く突っつき、「それでどうするんだい?」と夜会の会場を見渡した。


 言うまでもなく、アドニスの婚約破棄によって雰囲気が変わってしまったこの場の始末についての事である。


 アドニスは彼に笑顔作ってみせると、長く美しい金髪をなびかせながら颯爽として楽団のところまで歩いていく。

 そして団員の一人からリュートを借り受けて、柔らかな和音を奏でながら夜会の参加者全員に向かって語り始めた。


「さあみなさん踊りましょう! 今宵は騎士道精神のもと、すべての淑女の為にその愛が証明された記念すべき日です。そして今度はみなさんの番ですよ。あなた方の愛する人の手を取って、どうかその愛を証明して下さい!」


 アドニスが弾き始めたリュートの弦に合わせて、楽団が軽妙で洒脱な曲を演奏しだす。

 同時に沸き上がった歓声はドレスの花を一斉に咲かせ、夜会の会場を埋め尽くした。


 こうして何時にも増して熱気を帯びたその日の夜会は、アドニスの遊び人としての名声を一層高めることとなったのであった。




 翌日────


 約束通りサブリナの家を訪れていたアドニスは、客間で一人落ち着きなくモジモジしながら座っていた。

 いや、約束通りと言うには父親であるネスラン侯爵の姿がそこにないのはどういう訳か? 正式な婚約破棄にアドニス一人というのは解せぬ事である。


「お待たせしてごめんなさいアドニス様」


「あっ、サブリナ! 遅いよお、本当に心配で堪らなかったんだからね!」


 客間のドアを開けて入ってきたサブリナに、アドニスは飛び付くように駆け寄って彼女の手を握った。


「貴方の為に綺麗になろうと頑張っていたのですもの、許してくださいね」


「ぼ、僕の為に!? ああ! なんて僕は幸せ者なんだっ。ありがとうサブリナ!」


「ふふ、さあ座りましょう。すぐに侍女がお茶の替えを持って参りますので」


「う、うん……」


 どこか必死のアドニスに比べ、サブリナには余裕があるようにも見える。


「でもアドニス様、心配なんて何もないのですよ? 私の心はいつだってアドニス様と共にあるのですから」


「本当に? けど婚約破棄だなんて、僕はもう死にたいよっ! サブリナと結婚できないのなら一生独身でかまわないッ」


「我慢なさって下さいね。これもアドニス様がありのままのご自分で生きていく為の計画の内なのですから」


「そうだったね、僕が泣き言をいってる場合じゃなかった! くそっ、なんだこんなものっ!」


 憎々しそうに声を荒げたアドニスは、自分の美しい金髪を握りしめる。

 すると何を思ったのかその髪を引き千切るようにして引っ張った。


 ズルリ……


 アドニスのその美しい金色こんじきの髪が彼の頭部から滑り落ちたのはどういう事だろう。いやそれは彼の髪ではない。金髪のカツラだ。


「ふぅ」


 満足そうに息を吐いたアドニスの、その禿げ頭がツルリと光っていた。

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