第36話 潜入

「かわいそうにな。恐ろしい病気が流行るのは、昔っから皇帝の不徳のせいだと相場は決まってる」


「そうに違いねえ。先月の長雨も、落雷もきっと皇帝のせいだ」


「そんな奴は皇帝になる資格はねえ」


「おい、大きな声で言わないほうがいいぞ。あいつらがうろうろしている」


「やばいな。皇帝が代わらないと……飢饉がくるかもしれないな」


 通りすがりの若者達が男を囲んで同調しだした。栄の町から伝染してきた病だとは彼らは知らない。皇帝の不徳がもたらしたものは病に留まらなくなっている。


「そうか、昨日干した大根が消えちまったのは皇帝の不徳のせいか」


「それは泥棒でしょ。悪いのは皇帝じゃなくて泥棒!」


 小月の正論は男たちに無視された。


「もう行くぞ」李医師は小月を男たちから引きはがして先を急いだ。


「でも秀……陛下が叩かれるのはおかしいじゃない」


「他にぶつける相手がないんだから仕方ないさ」


「陛下がお気の毒だわ」


「お気の毒で済めばいいけどな。病が皇都中に蔓延したら大変なことになるかもな。……ああ、あそこみたいだぞ」


 李医師の指さした先で、一目で衛士とわかる屈強な連中が六尺棒を持って立ち、道を塞いでいる。街区の入口には俄か作りの小屋があった。街区の周囲は急ごしらえの木柵で囲われていた。中からは喚き声が聞こえてくる。


「潜り込むのは難しそうだな」


 どこからか戸板で運ばれてきた老人は、力任せの衛士によって柵の上から中に投げ込まれた。


「惨いな」


「中の人たちを見殺しにする気かしら」


 柵の隙間から伸ばされた手を、衛士が棒で叩いている。


「囲い込んでしまえば安全だと思ってるんだろう」


「ちょっとすいません」小月は衛士に駆け寄った。「責任者の方はどなたですか?」




「ああん、なんだ、お前は」


 髭面の男はみずから、鄭隊長と名乗った。小月にうろんな顔を向ける。

 多少汚れているとはいえ裕福な令嬢の装いをした小月が南街区にいることが不思議なのだろう。


「南街区に入りたいんですけど」


「あほか。病気になるぞ。帰れ」


 李医師は演技派だ。「中に親戚がいるんだ。無事を確かめたい」


「諦めろ」


「親戚はおそらく病気ではないと思うのだが」


「南街区を閉鎖しろという命令だ。遅かれ早かれ病気になるだろう。親戚は運がなかったんだ」


「南街区に病気の原因があったのか。だから閉鎖しているのか」


「知らんわ、そんなこと。俺は命令に従ってるだけだ。あまりうるさいことを言うと、中に閉じ込めるぞ」


「原因がわかったわけではないんだな。ともかく隔離しちまおうってことか。恐怖と不安で逃げ腰なのはわかるが」


「なんだと、この野郎!」


「ああ、そういえば頭がくらくらする……」


 李医師がその場に倒れた。


 小月は一瞬目を瞠ったあと、李医師に倣った。「私も熱が出てきたみたい」と言って地面に伏した。


「ちっ」


 舌打ちした鄭隊長は二人を柵の中に投げ込むようにと配下に指示した。




「いたた、腰を打ったわ」


 ゆっくりと体を起こし、小月は周囲を見回した。粗末な土壁に穴が開いた、家とも言えない家が並んでいる。一番近くの戸口からは、脛から下の足が覗いている。足には死斑が浮き、すでに蛆がたかっていた。さきほど柵に投げ込まれた老人は傍らに転がっている。すでにこときれていた。眼窩が洞のようだ。ぞくりと背中に悪寒が走るった。


「奥に行ってみよう」


 李医師に促されて奥に進むと、ますます死臭が強く匂った。吐き気がこみあげてきて手で鼻をおさえた。


「鼻や口から良くないものを取り込むことはありませんか?」


「あるかもしれない」


 李医師の答えを聞いて、小月は迷わずに裙を裂いた。


「わ、よせよせ!」


 李医師はあたふたとしながら小月を止めた。


「布で顔を覆ったほうがいいでしょ?」


「わかったわかった。それなら、これでいい」


 李医師は自身の袖を引っ張った。肩のところで綺麗に千切れて左腕が露わになった。


「破れかけていたから、ちょうどいいさ。それにこっちのほうが生地がしっかりしてるだろ」


 破れかけていたのは、客引きの女性と小月が綱引きをしたせいだ。思い出して、小月は急に恥かしくなった。

 縦に長く裂いた布を二本作り、李医師は一本を小月に手渡した。

 二人は鼻と口を覆うようにして後頭部で布を結んだ。

 その足もとを太った鼠が数匹、掠めていく。


「気をつけろ。鼠に齧られないように」


「でも鼠が原因ではないんでしょう」


 後宮や天猫楼には鼠はいなかった。鼠が病を運んだとは考えにくい。では何が病を拡げているのだろう。南街区に流行る理由が何かあるはずだ。小月はあたりに目を配った。


「いや、鼠に齧られた傷口から肉が腐ることがあるんだ。鼠だけじゃなく犬でも猫でも同じだな。極端な話、爪の長い女に引っかかれただけで化膿して死ぬことだってある。今は小月を診てやる余裕はない。だから気をつけろ」


「はい」


 無意識に死者を数えていたら七人目はかろうじて生きている人間だった。まだ青年といえる若さだ。地面に横たわり静かに目を閉じて死を待っている。


 李医師が覗き込むと青年は「このまま死なせてくれ」と呟いた。


「死にたいなら放っておく」


「どうせ、助からねえだろ」


「死にたくないなら助けてやろう」


「……あんた、医者か?」


 青年は眇めた目で李医師を見上げた。

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