第33話 南街区へ行こう

「最低だ、最悪だ。うわー、気持ち悪い」


 李医師はずぶ濡れの犬のように全身をぶるぶると震わせている。今、二人がいるのは街区のはずれにある寺院の墓地である。かたわらには棺桶。蓋がずれて若い男の遺骸が覗いている。


「ごめんなさい。肥櫃を運び出すのが夜だなんて知らなかったのよ」


 小月が考えたのは、煌びやかな後宮の人間だって排泄はする、という現実である。牢房に排泄用の壺があったように、平寧宮にも排泄場所に便壺が備えてある。座って用を足せるように穴が開いた板の覆いがついていた。こまめに交換されているようで、常に綺麗な状態だったが、排泄物は肥櫃に溜めて必ず外に運び出すはずだ。その肥櫃の一つに紛れ込んで、こっそりと脱出しようと目論んだのだが、屎尿馬車の往来は人目を避けて夜間に限られていることがわかった。小月が諦めかけ、李医師が安堵したとき、馬の嘶きが聞こえてきた。別の馬車が今まさに出発しようとしていた。


「本来なら死者の運び出しは夜間にするみたいね。疫病を恐れて、一刻も早く後宮から出したかったんでしょうね。幸運だわ、私たち」


「何が幸運だ。棺桶に隠れるなんて、最悪な脱出方法だ」


「宦官さんには窮屈な思いをさせて申し訳なかったわ。でも李医師はお医者さんなのだから死体にはなれているでしょう?」


 二人は名前も知らない死体に抱きついて狭い棺桶に隠れていたのだ。  

 何も知らない御者は目的地である寺院の墓場で馬車を停めた。棺桶の蓋ががたがた動くのに気付いた彼は、荷台から棺桶を蹴り落して逃げてしまった。怪異だと思ったのだろう。死んだ宦官には気の毒だが、御者はいずれ埋葬人夫をつれて戻ってくるはずだ。小月はそっと手を合わせた。

 

 棺桶から目を背けながら李医師が嘯く。「俺は死体が嫌いだから、死なせないように頑張ってるんだよ!」


「私たち、病気で亡くなった遺体に抱きついたわけだけど、伝染ると思う?」


「多分大丈夫だろう」


「どうして大丈夫だと言えるの?」


「俺は何十人もの病者に触れたが、接触が原因で伝染ったことがないんだ」


「え、本当に?」


「もちろん、俺も過去に何度か罹ったことがある。病者との接触が原因なら発症までの日数に規則性がないことになる。だが流行り病には規則性があるものなんだ」


「規則性……」


「そう、お嬢ちゃんに言われるまで考えてなかったけどな、なんせ珍しくない病だったし、どうやって伝染るかなんてわからない。運が悪いなと思ったくらいだ。……そういや、一人で山の中をうろうろしてた時にも罹ったことがあったな。山小屋で薬草作りに夢中になってて何日間も誰とも会わなかったのに、なんで発症したんだろう」


「山で動物に噛まれたとか、腐ったものを食べたとか?」


「いやあ、ないな。そういや聞いた話だと西のほうでは鼠が疫病を運ぶことがあるらしいな。鼠みたいにそこらにありふれてるもんが媒介してたら厄介だな。えーと、南街区はどっちかな」


 鼠が疫病を撒き散らかす。恐ろしい話だと小月は思った。宦官と藩貴妃に接点がなくても、鼠が媒介したとしたら合点がいく。後宮では鼠を見かけなかったが、一匹もいないとは言い切れないだろう。 


 二人は街区を目指して歩いた。小月はきょろきょろと見回した。皇都の街中を歩くのは初めてだったので凡その見当を立ててみた。「えーと、下層民が多く住んでるって聞いたから、おそらく宮廷から遠い端っこじゃないかしら。南街区だから、……南はあっちね」


「人が多くなってきたな」


 通りをいくつか横切り、市場や商店が目立つようになるにつれ、人が活発に行きかうようになった。道幅の広い目抜き通りがまっすぐに伸びている。ここが皇都の中心なのかもしれない、と小月は目を瞠った。道の両側には三階建て以上の立派な屋楼がずらりと並んでいる。


「水が原因ではなかったんですよね?」


「栄の町と皇都では水源が違う。腐った水を飲んでおっ死ぬことはあるが、症状が違う。そういう単純なもんじゃねえ。さすが皇都、色気のある建物が多いねえ。しかもどこも賑わっている。疫病とは無縁に見えるな」


 李医師は油を売る店を見つけると、店主に南街区の場所を尋ねた。店主は客が持参した容器に油を移している最中だったが愛想のいい人物だった。せわしない皇都の繁華街で、ここだけはゆったりとした時間が流れているように見えた。


「何故、口の細い容器を使っているの。漏斗を使うから余計に時間がかかってしまうんじゃない?」


 小月の素朴な疑問に、店主が笑って答えた。「口の細い容器には利点があるんだ。倒しても多量は零れない」


 客は苦笑した。「油は高価だからな。大きくて口の広い瓶を持ってくる客は金持ちだけだよ」


 なるほどと腑に落ちた。植物を絞って作った油はさらりとしているが、とても高価なのだそうだ。後宮では植物油をふんだんに使った料理を食べている。後宮の厨房にある油壺はさぞ大きいことだろう。


「ずっとずっとずっとまっすぐ行ったどん詰まりの南側だよ」


 小月と李医師は店主に礼を言って店を出た。


「距離がありそうだな」


 李医師は手庇をして目を細めた。並んで歩きながら小月は疫病について考えた。


「さっき、接触で伝染らないって言ってたけど、もし、例えばの話なんだけど、唇と唇を合わせたせいで伝染ったとか……ないかしら?」


「なんだ、それ」


「例えばの話よ」


「うーん、考えにくいな」


「え、本当?」


 小月の脳裏には藩貴妃に口移しで水を飲ませた映像が浮かび、霧散した。


「栄の町に、病者の口から疫神を吸い出すインチキ呪術師がいたんだけど、伝染らなかったからね」


「だとしたら、むしろどうやったら伝染るの──? 李医師?」


 李医師は三階建ての真っ赤な屋楼を見るや、すたすたと歩み寄る。

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