第31話 李医師の到着

「国力……」


 国力というものが何から構成されているかは、小月にはわからなかったが、国力が弱まると戦争を呼ぶことがあるという論理には納得した。自然界では弱ったものは狩られる。


「他国からの侵略だけではありません。国力が傾くと内乱も起こりえます」


「内乱……」


「内乱による王朝交代は珍しいことではありません。陛下は領土拡張に関心はなさそうですが……あ、ここですね、入れますよ」張包は貯水桶に金魚を流し入れた。「これで蚊の発生が抑えられるといいですな」


「そう願うわ」


「平寧宮までお送りしましょう」


「ご親切に感謝します。でも、ここでけっこうです」


「……何故です。そういえば、女官の姿が見えませんが。藩貴妃の侍女はどこに? 寝ずの番がいるはずでしょう」


「……」


 一拍の間を置いて、張包は眉を顰めて小月を睨む。「どうやら余計なことに首を突っ込んでいるようですね」


「よ、余計なことではないわ。後宮内で一人死んでるのよ」


「宦官でしょう」なんでもないことのように吐き捨て、張包は大股で宮の中に入っていく。


「張包さん、待って」


「藩貴妃のようすは?」


「熱が下がってきたとこ。今は眠っていると思う」


 張包が寝室を窺う。すぐに気付いた安梅が、唇に指をあて「静かに」と合図をした。南岩医師はまだ眠っている。藩貴妃は安定した寝息を繰り返している。安梅が着替えさせたのか、藩貴妃の寝衣が清潔なものに変わっていた。


 張包は声をひそめた。「危険です。人を手配しますので、もうお帰りを」


「安梅と交替しながら私が介抱します。藩右丞相も心配してましたし」


 娘が死んだらお前を許さないなどと脅されたことは伏せる。


「わかりました。ですがもし困ったことがあれば……いえ、失礼いたします」不承不承といった顔で張包は帰っていった。


 張包の父は左丞相だ。左丞相と右丞相と皇帝が国家の中枢を担っている。張包は右丞相にたいして何らかの確執を抱いている可能性もある。


 安梅に防火桶に金魚を入れたことを伝え、休むように促した。だが安梅は小月を先に休ませようと説得してくる。そんなやり取りをしていたら、「二人とも休みなさい」と、いつのまにか目を覚ましていた南岩に長椅子に追いやられた。


「よく眠れたよ。おかげで疲れも取れた。あとは私に任せなさい」


 小月と安梅は顔を見合わせ、南岩に頭を下げて、長椅子で休ませてもらうことにした。





「お嬢ちゃんたち、もう朝だぜ」


 若い男性の声が降ってきた。ここは後宮、藩貴妃の宮の中。夢に違いない。小月は気に留めずに眠り続けようとした。


「具合が悪いのかな?」


 腕を引っ張られて、ようやく小月は目が覚めた。目の前にいたのは──


「李高有!」


 栄の町で出会った医師。

 無造作に結んでいる長い髪。そのほつれ毛が逆光できらきらと輝いて見えた。

 続けて安梅も目覚めた。小月の手首を握る若い男に驚いて「ぎゃあ」と叫ぶ。


「脈診をした。とくに問題はなさそうだな」


「藩貴妃は!?」


「診てもらったよ」南岩がひょこりと顔を覗かせた。「あと一回か二回は熱が出るだろうが、今の体力なら乗り切れるだろうとのことだ」


「水を飲ませたのが功を奏したな」李医師は感心しきりに頷いた。「そうでなかったら脱水で死んでたろうよ」


「やはり、栄の町で流行っている病と同じですか」


「ああ」


 小月は藩貴妃のそばによった。貴妃は小月を認めるとうっすらと笑みを浮かべた。その笑みには、もはや儚さは無く、ふてぶてしい好敵手の面差しに戻っている。


「いつもの藩貴妃だわ。よかった」


「明日になったらまた熱が出るそうよ。予告されるとちょっと怖いわね。さっき李医師に聞いたの。病後に健康な子供を産んだ女性は沢山いるから、その点は心配いらないって」


 藩貴妃はほっとした顔をしている。真っ先に問いただしたのだろう。小月も安堵した。せっかく病が治っても生きる気力を削がれたらたまらない。


「取れるときに充分栄養を取りなさいって。ところでなんなの、この草は。変なにおいがするじゃないの」


「それは除虫草といって、虫を寄せ付けない性質があるんですよ」


「あら、そうなの。貰っておいてあげてもいいわよ。役に立つなら多少臭くても我慢するわ」


 小月にとっては爽やかな香りだが、藩貴妃にとっては変なにおいのようだ。感じ方は人それぞれだ。

 枕元に目をやる。秀英の似姿絵がない。


「あれは預かっておくわ。回復するまでのお守りよ」藩貴妃は上目遣いで小月を睨み上げた。その眼差しに僅かな含羞が覗く。


「はい、もちろんです」


 差し上げます。と言いたかったが、やめた。描いてくれた胡貴妃に悪い、という思いもあったが、なにより惜しいのだ。いずれ後宮を去る身だから、せめて秀英の似姿絵だけは大事に持っていたいと思ったのだ。


「あ、そうだ。私が描いた陛下の似姿もあるの。あとで侍女に届けさせるわ」


「まあ、貴女も絵を描くの。それは楽しみだわ」


 安梅がぎょっとした顔をしているが、小月としては自信作である。

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