第16話 牢へ

「陛下のご聖恩は小月様も感じておられましょう。位階がなくとも陛下の寵があれば、後宮でのお立場も悪いことにはなりません」


「……一考の余地はあるな。その場合でも皇后位は空位のままでよかろう。藩芳と胡美玉のどちらかを上位にしては均衡を崩す。そう思わないか」


「御意にございます」


 秀英と黄太監の会話は、小月には意外だった。位階はどうあれ黄太監は小月が輿入れすることそのものに反対だろうと思っていたからだ。


「まあ、一案としておこう。結論を急ぐこともない」秀英は再び立ち上がって小月を見下ろす。「気が変わるかもしれないしな。ではまた明日来る」そう言って秀英は踵を返した。


 皇帝は激務だという。本当は昼食を取る時間さえ惜しいはずだ。


「……明日も来るのね」


「それだけ、陛下にとって小月様はかけがえのない存在なのです」


 黄太監はすっかり秀英応援隊になったようだ。

 秀英は気づいただろうか。最後に視線が合ったとき、望んだ女の眉がくもっていたことに。

 なぜ私の意思を訊こうとしなかったのか。謝絶されるのが嫌だったのか。それとも訊くまでもないと思ったのか。

 そして、なぜ自分は秀英の愛情を素直に受け取れないのか。



 午後は字の練習をして過ごした。お手本は千字文。字を書くことに集中していると不思議と気分は澄んでくる。黄太監が大毅国の歴史を講釈したいと申し出てくれたが断った。後宮に入るならば最低限、覚えるべき知識なのだろうが。




 その後三日は平穏だった。胡貴妃の真方宮に出向いて絵を習ったり、散歩中にかちあった藩貴妃に足を引っかけられて転ばされたりもしたが、概ねは平穏だった。


 ある昼餐でのこと。

 思い出話を語りあった。川で小魚を取ったとか、飛蝗を素手で取る競争をしたとか。小月は差し迫った問題から目を逸らしている自覚はあったが、秀英は昔話を思いのほか歓迎した。幼いころに戻ったかのように無邪気に笑いあう。


「小月といると疲れが吹き飛ぶよ」


 ああ、この笑顔が好きだ。

 

 小月のもつれた心がふわりと解ける。


 秀英の笑顔があれば自分は素直になれる。なんて単純なのだろうか。

 そばにいたい。どんな形であれ、秀英を求めている気持ちに偽りはない。

 

 小月は勇気を奮いたたせた。


「秀英、うまく伝えられるかわからないけれど、聞いてほしいことがあるの」


「なんだい」


「私は貴方のことが──」


 そのとき、密やかな空気が破られた。


「明小月、藩貴妃に毒を盛ったのはお前だな!」


 六尺棒を持った衛士が十人ばかり、平寧宮にわらわらと入ってきた。小月を目にするや、腕を掴み、床にうつ伏せに引き倒した。棒を十字に組んで左右から小月の肩を押さえつける。


「何事だ。主上の御前だぞ!」黄太監が叫ぶ。


 衛士の背後から張包が進み出て、


「陛下。藩貴妃が倒れました。うわごとで明小月に毒を盛られたと」


「なんだと!?」


 不自由な状態で、小月はどうにか張包を見上げた。嘘や冗談を言っている顔つきではない。


「藩貴妃の容態は?」秀英の表情は厳しい。


「高熱にうなされております」


「では、宮廷医をすぐに藩貴妃のもとへ」


 秀英は動揺を抑え、端的な指示を出した。


「真相を糾明いたします、陛下。法に則り、ひとまず明小月の身柄を預かることになりますので、御了承ください。平寧宮はただいま探索中です」


 張包の言に、秀英は頷いた。

 

「陛下!」秀英の足下に藩貴妃の侍女が身を投げ出して、さめざめと泣いた。「陛下、この女が藩貴妃を殺そうとしたのです! 厳罰をお与えください!」


 秀英は小月を見た。小月は小さく首を振る。


「申し開きはあるか?」平坦な秀英の声音。


「私は毒なんて盛っていません」


 声が震えないようにするのが精いっぱいだった。


 衛士が、黄太監と安梅、韓桜を連れてきた。「こいつらは何も知らないようです」

 別の衛士が続けて報告に来た。「平寧宮をくまなく探しましたが何も見つかりませんでした。毒は使い切ったのかもしれません」


「わかった。小月をとりあえず冷宮へ」


「冷宮への軟禁は適正ではありません。妃嬪ではありませんので……」張包が正すと、


「……では、牢へ」


 張包は一礼すると、小月を立たせて、衛士に引き渡した。


「連れて行け」


「待っ……!」


 秀英を目で追った。視線が合う。鋭い双眸。

 私を疑っているのだろうか。

 否、そうではない。秀英は皇帝なのだ。

 衛士に追い立てられる小月の背後から、


「陛下、私にお任せください。必ず真相を明らかにします」


 低音で凄味のある張包の声が鼓膜に届いた。

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