第9話 平寧宮

「陛下。藩右丞相……父が琥珀殿に来ると耳にしましたが……?」藩貴妃は団扇で軽やかに琥珀殿を指し示す。「日没の頃となると、そろそろかと」


「ああ、すぐに向かう」


「私も久しぶりに父に会いたいですわ」


「では藩貴妃も一緒に来るといい。ああ、黄欣」秀英は黄太監を呼んだ。「小月を託す。私の大切な客人としてもてなすように」


「え、私めが、あの……」黄太監の顔は青ざめ、小声で諾した。「……はい、かしこまりました」


「小月、遠路疲れたであろう。今日はゆっくり休め。明日の昼餐を一緒に取ろう」


 秀英は藩貴妃を伴って望楼を下った。

 その姿を見送りながら、胡貴妃は無邪気な声音で小月に問いかけた。


「文房四宝って知ってるかしら?」


「あ、はい。紙と硯と筆と墨……ですよね」


「それは知ってるのね」


「実物は、見たことあります」隣町には代書屋がいた。秀英が筆を握っているところを窓から見かけた記憶もある。「でも、触ったことはありません」


「あら」


 胡貴妃は珍しいものを見るように小月を見つめ、やがて、にこりと微笑んだ。どういう表情をしたらいいか迷って、仕方なく笑ったような笑顔だった。


「今度、陛下の幼少時代のお話を聞かせてくださいね」


「はい!」


「胡貴妃様、夜の望楼は寒くなります。お体に障ります」


「そうね。では失礼するわ」黄太監に促され、胡貴妃は一礼して去っていった。


「胡貴妃、ちょっと戸惑っておられたな。無理もない」黄太監は小月を伴って別の方向に向かった。歩きながら小月に語りかける。「小月様、後宮の階層は、位階と陛下からの寵で成り立っています。位階の高い者が低い者に声をかけるまで、低い者は余計な口をきいてはならない。挨拶は低い者から。厳格な決まりです。今の貴女は陛下の客人。位階はないが、寵だけはある。ううむ、難しい」


「私をどう扱っていいか、困っているのね」


「そうですとも。みんなが困っています」


 連れられるままに後宮のひとつの宮の扉をくぐった。黄太監はぶつぶつと「私はこれでも宦官の長なのに。皇帝陛下付きだったのに。なんでこんな田舎娘の……。事実上の降格じゃないか……」と呟いていたが小月には聞き取れない絶妙の声量だった。


 宮には『平寧宮』という扁額がかかっているが、小月には読めない。女官の安梅と韓桜が建物の入口に並んで小月を待っていた。双子の姉妹のように愛らしい女官たち。小月が滞在する宮として皇帝が彼女たちに準備させていたのだそうだ。


「私たちが小月様の侍女として配属されました」


「心を込めてお仕えいたします」


 黄太監は宮の中を案内した。「後宮には十余りの宮があり、こちらの宮はその一つです。今後は私、黄欣と、安梅と韓桜が小月様のおそばに侍らせていただきます」


「立派な建物ですね。ここは、宿屋のようなもの、でしょうか」


「は? あ、いえ」小月の素朴な疑問に黄太監は眉目を寄せ、侍女は袖で口元を隠した。


「先ほどは肝が冷えました。小月様、軽々しく返答なさらなかったのは賢明でございましたな」


「皇后になれと言われたこと?」


「はい。陛下は軽挙妄動とは無縁の方。きっと深く考えたうえでのことでしょう。とはいえ、余りに突飛な発言で驚きました。陛下はこうと決めたら頑固な方ですので、どうか、うまいこと諦めさせてくださいませ」


「「え?!」」


 安梅と韓桜が同時に声をあげた。安梅は用意していた茶を、韓桜は菓子を卓に無造作に置く。


「黄太監は小月様が皇后になることに反対なのですか!?」


「小月様が皇后になれば侍女の私達は大出世できるんですよ!」


 黄太監は首を左右に振った。「皇后というのは国の母です。後宮を差配する長です。誰にでもこなせる役目ではないのですよ。強く賢く麗しくなければならないのです。安梅、韓桜、無茶を言うものではない。小月様のどこにその素養がある?」


 ずいぶんと酷いことを言われているようだが順当な評価だと小月は思った。自分はただに田舎娘だ。知識も知恵も教養もない。自慢できるのは体力くらいだ。


 黄太監は小月に後宮の説明を始めた。小月は香り高い茶に驚き、甘い菓子に舌鼓を打ちながら、興味深い話に耳を傾けていた。皇帝は皇統を継承させるために複数の妻を持つ。後宮はそのために存在する。後宮の位階は皇后を頂点に、三貴妃、六妃、九嬪と続き、そのあとは定員のいない貴人、美人、才人と続く。皇后から六妃までは各々独立した宮を持つが、九嬪以下は共同生活となることがある。後宮には他に皇帝専用の宮殿と女官や宦官の官舎、花苑と蚕殿などがある。総勢数百人の人間が住んでいる。


「藩貴妃と胡貴妃は高位なのですね」


 現在は空位の皇后につぐ位階だから、上から二番目になる。秀英の妃として後宮入りしたのは、今のところ、そのふたりだけだという。

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