殺したはずの男

鬼平主水

第1話

 マヨネーズのかかったオムライスを、晴斗はるとはこの世の至福かのようにおいしそうに食べていた。綾乃あやのは彼のスプーンを運ぶ手をぼおっと眺めていた。


「食べないの?」


 彼女の視線に気づいた晴斗が訊いてきた。綾乃の前にも同じオムライスがあったのだが、かかっているのはケチャップだった。


「晴斗ってさあ、いつもマヨネーズだよね、オムライス」


「やっぱおかしい?」


「前も言ったけどさあ、普通ケチャップかソースでしょ? 卵に卵とか、体壊すよ?」


「でもやめられないんだよ。マヨネーズは何にでも合うんだから」


 晴斗はいつもこういうのだ。よくこんな食生活で太らずにこれたものだと思う。だが彼の言う通り、もう体を壊すことはない。その前に、綾乃がこの手で彼を消すつもりだったからだ――。





 二人の出会いは大学時代である。通っていた学校自体は別だったのだが、晴斗の大学で開催された学園祭に、たまたま綾乃が共通の友人に誘われて参加したのがきっかけだった。軽音楽部にいた晴斗のライブ姿を見た綾乃は、ほぼ一目惚れの状態だった。ライブ後、初めて対面した二人は意気投合し、気づけば交際を始めていたのである。

 綾乃にとって初めての恋人だった。優しく包容力のある彼に、綾乃はべったりだった。彼女が惹かれたのはその笑顔だった。彼が自分のそばで笑ってくれるだけで、綾乃の心は満たされたと言ってもいい。絶対に離したくないとも思っていたのだった。

 晴斗との同棲を提案したのも綾乃からだった。綾乃は短大に通っていたので、彼よりも二年早く就職することとなった。それを期に、一緒に住もうと誘ったのだった。晴斗は快諾した。

 晴斗はミュージシャンを目指していた。部活のメンバーとともに、授業の無い日はライブやコンクールに参加していた。ある意味では、心の支えになってくれていた彼を、綾乃が支える番になったのである。



 だが綾乃は少し献身すぎたのかもしれない。晴斗は日に日に堕落していた。

 綾乃への相談もなしに晴斗は大学を辞め、音楽活動の頻度も減っていった。本来であれば卒業しているはずの頃には、買い物などの必要時以外に外出することがなくなったのだった。

 綾乃はそれをとがめることはしなかった。。晴斗が決めた道であれば、そこに文句を言う必要はないと考えていたから。

 仕事が忙しくなるほど、その余裕は無くなっていた。朝の準備が忙しくて、食器の片づけや洗濯もままならないままに自宅を出なければならないことがあった。


「悪いけど片づけお願いね」


「うん、やっとく」


 晴斗もそう返事していた。しかし帰ってみると、洗濯機は回ってすらおらず、食器も朝の状態から何も動いていなかった。


「ねえ、片づけてないじゃん」


「ああ、ごめん、忘れてたわ」


 本当に忘れていたわけではないことくらい、綾乃には分かっていた。

 仕事の疲れと日々のこうした晴斗へのいらつきが重なっていき、綾乃のストレスは溜まっていた。

 それにもかかわらず別れることができないでいる自分にも、綾乃は腹が立っていた。


「もう、やっといてくれてもいいじゃない」


 この日も、そういう文句を言いながらも片づけたのは綾乃だった。

 こんな状態でありながら、結局彼に依存しているのは綾乃自身だったわけだ。綾乃は心理的な依存を、晴斗は経済的かつ生活的な依存をお互いにしていたのだろう。



 昨年、綾乃はプロジェクトリーダーに選ばれた。若干25歳、入社からわずか五年での抜擢は異例だった。それだけ彼女の仕事ぶりが素晴らしかったということだろう。

 同時に、綾乃にとある考えが浮かんだ。晴斗のことである。これまで何だかんだ心理的な支えになっていた彼だったが、仕事に比重が置かれることが分かった今、晴斗の存在は邪魔にしかならなかった。恋愛と仕事――彼女は仕事を取ることにした。


「そうなんだ、おめでとう」


 就任の件を晴斗に伝えたが、彼はよく分かっていないようだった。綾乃は、意を決して言った。


「だからね、これからは仕事が優先になっちゃうから、別れてほしいの」


 晴斗の表情が変わった。


「何で? 別れる必要なくない?」


「正直言って負担になって来てるの。わがままだとは思う、一緒に住みたいって言ったのはわたしだし。でももう限界になってるの。ごめん」


 だがそれを聞いても晴斗はすがった。


「そんなこと言わないで、悪いのは俺の方だから! 綾乃の助けになることなら何でもする。だから、一緒にいてほしい! 頼む!」


 ここで弱みを出してしまうのが綾乃の良くないところなのだ。晴斗にすがられると、彼女は自分の意見を殺し、彼を許してしまうのだった。

 暴力を振るわれるとかモラハラを受けるとか、そういうことは一切ない。ただただ綾乃の精神的負担がきつくなってくるのだ。別れ話があってから、二、三日は晴斗も家事をしていたのだが、気づくと綾乃が家のことを片づけていた。

 同じようなことが何度も続いた。綾乃の仕事が多忙になるにつれ、別れ話の口調も荒くなる。だが晴斗に泣き疲れると結局許してしまう。そしてまた家事は綾乃がすることになる。

 綾乃の崩壊は目前だった。ついに彼女は、、という危険な思想を持ったのであった。





 今二人がいるのは、デートの時によく通っている洋食屋だった。オムライスにかけられる調味料が好みで選べるため、晴斗が気に入っているのだ。


「そろそろ出よっか」


 食事を終え、会計を済ませることにした。もちろん支払いは綾乃である。


「それで、本当にあの山まで行くわけ?」


 時間は20時を過ぎていた。目的地である山までは早くても一時間はかかるだろう。晴斗が心配するのももっともだったが、綾乃は気にしていなかった。むしろ遅ければ遅いほどいいのだから。


「夜景を見るんだから、夜が更けてもいいでしょ? 早く乗って。すぐに出るから」


 車の運転も綾乃の役目だ。晴斗は免許すら持っていない。だがさすがに自家用車までは持っていない。この赤い車はレンタルである。


「でもあの山って展望台あったっけ?」


「この前も言ったじゃん。子供の頃お父さんと行ったことあるって」


「でもまだ残ってるのかな」


「行ってみなきゃ分かんないけど。じゃあ出すね」


 洋食屋を出た赤い車は、目的地である山へ発進していった。

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