怠惰なあたしは戦場なんて行きたくない

コラム

01

幼い少女が泣いていた。


納屋なやといっていいボロボロの室内で、ネズミや虫がたむろしている場所で。


「お母さんしっかりして! あたしをひとりにしないで!」


彼女の目の前には、ベットで横になっている母の姿があった。


どこか品のある母の顔は青白く、呼吸するのも苦しそうだが、笑みを絶やさずに少女の頭をなでる。


冷たい手で触れられた少女は、母がもう長くないことを無意識のうちに感じていた。


前に飼っていた犬や猫が冷たくなって死んだときと同じだと。


「あとのことは、心配しないで大丈夫よ。あなたのことは、シューティンガー家の人たちが面倒を見てくれるから……ゴホッゴホッ」


「ヤダ! ヤダよお母さん! あたし、知らない人の家なんていきたくない! いくら貧乏でも、お母さんとはなれたくないよ!」


咳き込む母の口からは血が出ていた。


少女はわめきながらそんな母にすがりつき、彼女を困らせる。


胸の中で泣く娘に無力感を覚えながら、母は少女を抱きしめた。


力無く、ただおおうように包み込むその姿は、病床とは思えないほど生命の息吹を感じさせた。


少女は母の胸の中で言う。


「なんでお母さんが苦しむの? 誰にでもやさしくてなんでも自分でやるお母さんなのに、どうして誰も助けてくれないの……? お父さんだってみんなのためにがんばったのに戦争で死んじゃって……。がんばればいいことがあるんじゃないの……?」


「良いことならいっぱいあったわ。まず、私とお父さんにはあなたが生まれてきてくれた」


「で、でも、お父さんもお母さんもいっぱい人を助けてあげたのに……お金もいっぱい貸してあげたのに……誰も返しに来ないじゃない……。そのせいで薬も買えなくなって、お母さんは……うぅ……」


人助けすれば見返りがあると、少女は思っていた。


いや、返礼なんて大袈裟なものではなく、善意には善意が返ってくると、彼女は信じていたのだ。


だが父に世話になった者らや、母に金銭を無心してきた連中は、二度と姿を見せることはなかった。


これはさすがに子供の一方的な癇癪かんしゃくではなく、少女が裏切られたと思っても仕方がない。


父と母を見捨てた者たちを恨む少女の涙を拭い、母は娘に自分の顔を見るようにうながす。


「そんなこと、言っちゃだめよ。みんな、みんなそれぞれ事情があるんだからね……。あなたには苦労をかけちゃうけど……」


血を吐いても母は恨み言を言わずに、娘のことを気にかけた。


しゃべることすら辛いというのに、少女の目を見つめ、浮かべた笑みには憎しみの感情ひとつない。


「あなたは頭がいい。思い描いたことを実現できる力があるわ。その恵まれた能力を、恵まれない人たちをおとしめるためにではなく、そういう人たちを助けるために使ってあげてね……。それがあなたの幸せにもつながると思うから……」


「なんでそんなことしなくちゃいけないの!? あたしはヤダ! 人のためになんてがんばらないよ! お母さんを助けてくれない人たちなんかのために、あたしはがんばらない!」


「あまりお母さんを困らせないで。今はしょうがないかもしれないけど、きっと大丈夫……。私は知っているわ。あなたがとっても優しい子だってこと……」


母はそう言いながら動かなくなった。


笑顔のまま、自分たちを見捨てた人間のことなどいなかったかのように。


残された娘に善意を説きながら、今その人生を終えた。


「お母さん!? お母さん!? 死んじゃヤダ! あたしを置いていかないで!」


少女がいくら声をかけようが、母からの返事はない。


いくら泣き喚こうが、もう永遠に声は返ってこない。


母の亡骸なきがらにすがりながら少女は思う。


相手のために尽くしたからといって、何かしてもらえるなんて幻想である。


母が死ぬ間際まで言っていた、誰かのため、何かのために努力する姿勢はとても素晴らしいものだ。


生まれたときからずっと両親の言葉を信じてきた。


しかし、そんなことをしても――。


素晴らしいことをしても――。


見返りや報酬などはない。


善意や努力など無意味だ。


なぜならば父や母は人のために頑張ってきたのに、誰一人手を貸してくれなかったのだ。


困った人がいて手を貸せば、こちらが困ったときに手を貸してもらえるはずだろう?


善意には善意を――世界はそういう風にできているはずだろう?


その答えが母の今の姿だとしたら、少女の両親は、他人に利用されて使えなくなるまでしぼり取られて死んでいったことになる。


「あたしはがんばらない……あたしは……ぜったいにがんばらない! 誰かのためなんてぜったいに……ぜったいにぃぃぃッ!」


目の前で息絶えた母と、亡き父に少女はちかう。


両親の教えとは真逆といっていいことを、声に出して自分に言い聞かせる。


だがこのとき少女は、まだ自分でも知らなかった。


世界を恨み、善意や努力を親のかたきと思いながらも、結局は父や母と同じ道をたどること――。


これから彼女が成長し、両親ゆずりの優しさと、その恵まれた才能を誰かのために活かすことになるとは。

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