チロを連れて

湾多珠巳

Strolling with Chiro 1

 二月も後半に入った頃、母が言った。

「来月、元町もとまちに来てほしいって、鷺坂さんが」

「あそう」

 神戸元町には父がいる。仕事用の別宅……と言えば聞こえはいいけど、職業が職業なんで、家族に気兼ねなく好き勝手できる自分の巣を、繁華街の至近に構えたというのが実情だ。鷺坂さんは、まあそんな仕事用オフィスのマネージャー――ということになっている、父の悪友みたいなもの。

「なに。いよいよ離婚に応じるって話?」

「もう、イジワル言わへんの。次の仕事の確認やないの。あんたの分も合わせて。だいたい私はあの人と離れる気なんてないんやからね」

「早い方がええと思うけど。あんなオヤジと関わっとったら、ますますややこしぃなるで?」

「はいはい。ほんで、いつやったらアンタ、行けるの?」

 三月のスケジュールをざっと確認する。丹波の山間やまあいのこの家から、元町は遠い。同じ県とは思えないぐらい。アタシはあからさまに嫌そうなため息をついてみせた。

「どうせまた泊まりがけやん? 週末しかないがな。春休みで混雑するの嫌やし……第二週ぐらい? お母さんは大丈夫なん?」

「私は行かへんよ」

「えっ、なんで?」

「なんでって、園美ちゃんとこ行ってくるから、三月はほとんど帰らへんで」

 出産を控えた義姉の名前である。実家に戻ってくれればいいものを、あちらのご実家はここ以上に僻地らしく、適当な産科がないということで、自宅近くの西宮のクリニックに入院予定とのことだ。ダンナである兄の昌寛まさひろは、まあそこそこ家事はこなすものの、さすがに幼い甥のケアまでは無理らしく、ヘルプ要請が来ているのだ。

「がんばって都合合わせられんこともないけど、正直しんどいわ。あんたに全部頼む」

「そうか。ほならしゃあな……って、ちょっと待って、アレどうすんの?」

 斜め後ろの方角を鋭く指しながら、アタシは訊いた。年季の入った古民家っぽい我が家の、台所から西寄りの庭側には、小さな部屋がある。まるで座敷牢のような……というか、実際そういう目的の部屋だったらしい。

 そしてその部屋には――。

 母はちょっと目を三角にして、アタシを叱りつける顔になった。

「アレとか言うたらあかん。失礼にもほどがあるで」

「そんなこと言うても」

「ちゃんとペットって言いなさい」

「ちょっと待ち! そっちの方がずっと問題――」

「チロっていう名前もあるねんから」

「いや、ええか? そんな呼び方自体、重大な人権しんが――」

「うん、チロほっといて家空けるわけにはいかへん。そやからイルミ、あんたチロも元町に連れてったって」

「はああぁぁぁぁっ!?」



 チロ、というのは、もちろん本名じゃない。確か、なんとかミサエとかそんな名前だったように思う。

 そう、座敷牢もどきの部屋で暮らしているそれは、れっきとした人間である。二十代前半で、なで肩、小太り未満のええ体をした、ショートで猫目の女の子。もちろん生きている。幽霊、妖怪のたぐいではない。でも、存在自体が理解不能だし、コミュニケーションできる相手じゃない、とアタシは思っている。

 時々、ゲストみたいな人間が長期で転がり込んでくるアタシの家だけれど、〝ペット〟が現れたのは初めてだ。正直、アタシは参っている。

 順に話そう。

 アタシの父親、雪丘輝一は、口にするのも恐れ多いことながら、SM界にその人ありと言われた往年の名監督だ。もちろん撮ったものは十八禁作品ばかり。この手のブームがだいぶん下火になった近年でも、ぽつぽつ仕事はしているらしい。

 AV監督という人種は、大きく二つに分けられる。別に女の裸ばかりを撮るつもりはなかったのが、成り行きで仕事を覚えてしまい、職業意識で続けている人々。そしてもう一方が、単にAVが好きで好きで仕方ない、という人々。中には、ハダカではない特別な領域に魅せられ、ハイパーニッチな趣味道を驀進した結果としてこの業界で成功した珍しい例もある。

 雪丘輝一はその希少種の親玉みたいな人物だ。女体調教という、禁断の最果てなるマニア道の。

 と、ここまで書くとおおよそのところはおわかりだろう。チロは父が見出した逸材の一人なんであった。でも何が逸材なんだか、アタシには分からない。分かろうとも思わない。とにかく、オヤジはミサエ……チロにすっかり惚れ込み、愛人のように囲い込んだあげくに自分の丹波の実家に連れ込み、部屋をあてがうようになってしまった。

 当初はその座敷牢っぽい場所で新作AVを撮るつもりだったようだけど、その話はお流れになったようで、でも二人ともその空間がすっかり気に入ってしまったらしく(実家とは言っても、父はこの家で暮らしたことはなかった)、そのまま居付きやがったんである。間もなくオヤジは別の仕事で家を出て、以来そのまま。それが去年の年末だから、そろそろ三ヶ月だ。

 信じられないのは、母親も兄も、義姉の園美ちゃんまで、チロに対して鷹揚そのものだったということだ。

 ここでもう一度書く。チロは、鬼才雪丘輝一が惚れ込んだ〝逸材〟である。何の? そう、アタシだって言葉の上でなら説明できる。正直、認めたくはないけれども、世間的にはそう語る方が通りがいいかも知れない。

 チロはMだ。いっそ病的と言っていい、ホンマもんのマゾヒストなんである。



 朝の十時を過ぎても、庭先に底冷えした空気が残る、春浅き三月。その第二土曜日。

 門の手前に愛車を止め、運転席でエンジンを温めながら、アタシは元町への同行者が玄関から出てくるのを待っていた。

 義妹の出産予定日がずれ込んでいるようだ、と連絡があって、結局今現在、母親は家にいる。でも明日ぐらいからは西宮へ行ったほうがいいいだろうとのことで、やはり神戸に母は同行しないことになった。

 残念だったけれど、今日の見送りをやってくれるのはありがたかった。今に至るまで、アタシはチロとは会話の経験すらない。もしも今日母がいなかったら、チロに事情を説明して、部屋から引っ張り出して自動車に乗せる、なんてことをアタシ一人でやらなきゃならないところだった。そりゃ、やってできないはずはないんでしょうが――いや、できたのかな?

 ま、自動車に乗せさえすりゃ、あとは会話なんてなくたって、何とかなる。アタシ自身が長距離ドライブが苦手なのと都会のゴチャついた道路に病的な拒否感を持ってしまってることもあって、今日は途中から鉄道だけど、切符渡して改札通るぐらい問題ないはずだし、ぐずるようなら手を引っ張るとかして。そうそう、あんな感じで手を……手を?

 視界の中に入れていたルームミラーに、二人の姿が映し出されている。家着いえぎの母がコート姿のチロを引っ張ってる構図。でも、何かがおかしい。

 よくよく見ると、引いてるのは腕じゃなくてリードだ。散歩用の。母が片手に持ってる細い紐がチロの喉元に伸びていて、そこには目にも鮮やかな赤いネックレスが……って、犬の首輪っ!?

「何やってんねんよ、あんたらっっ」

 つい運転席から飛び出して、どやしつけてしまう。敷地の広い田舎の家だし、植え込みその他でご近所に見られる恐れは少ないとはいえ、いきなり誰かが訪ねてきたらどう言い逃れ出来るというのか。

「そーゆープレイは玄関の外でやったらあかん!」

 アタシの主張は至極真っ当だったはずたけど、母はただ不快そうに眉根を寄せて言った。

プレイ遊び? 失礼な。チロは本気でマゾ奴隷極めてんねんで。協力してやろうって気はないんかいな」

「こんなんで町中歩いて電車に乗れ言うんかっ!」

「ええやん、電車に乗るまでやったら、首輪ぐらい。さ、チロ、入り。あっ、トランクに押し込まれる方がええ?」

「ちょっと、それ、警察に見つかったらシャレで済まへんからやめて!」

「口やかましいねーちゃんやなあ。んなら後ろで横になってる? そや、頭に袋かぶって足も縛っとこうか?」

「だから、通報が入るねん、そういう誘拐ごっこしてると! どこで誰が中見てるか分からんねんから!」

 アタシがそう抗議しているにもかかわらず、母は手に抱えていたふかふかの毛布を後部シートに敷き拡げている。なんでまっすぐ座らせようと思わないのか。

「ちょっと、話聞いてる?」

「だって寒いし」

「ちゃんとヒーター入れてるやん。そんな寝床みたいなことにせんでも――」

 その時になって、アタシは今日初めてチロをまともに見た。母の傍らで、大きなマスクをしてただじっと成り行きを眺めている娘。なんだかアタシの視線を避けているようで、体も、微妙に前かがみのポーズでなぜか棒立ちっぽくて……って、ちょっと待って。

 アタシはチロの肩を横からがしっとホールドした。驚いたチロが、小さな声を漏らして、逃れるつもりでよたよたっとふらつく。その声と動作で確信したアタシは、指をコートの前ボタンに走らせて、一気にチロの中を暴いた。

「あ〜〜っ、やっぱりぃっ」

 中は全裸だった。いや、一糸まとわぬ姿ではなく、裸以上にヤラシイ格好をしていた。乳房を挟み込むように上下に縄がけがしてあって、その二本の胸縄を中央で絞った別の縄がV字型のホルターネックみたいになっていた。要するに縄のブラ。

 上が縄ブラなら下もその類だった。アタシは一瞬視線を落としただけでまじまじとは見なかったけれど、これはいわゆる股縄というやつだ。縄でTバックみたいな――というかふんどしみたいな形を作る縄化粧。

 アタシとて立場上、この業界の基本的なボキャブラリーは持ってる。今さらこういうものを見て心臓バクバクになったりはしない。でも、縄がけした女の子の体をここまで間近に見るのはそうしょっちゅうじゃない。ちょっと声が必要以上に険のあるものになってたかも知れない。

「なんちゅーことしてんの、コレっ!?」

「うん、だから寒いやろ?」

「ちゃんと服着なさい! まるっきりの変態やん!」

「んなこと言うても、チロは本物の変態やで?」

「ああああっ、もうっ!」

 いったんコートの前を閉じて、一度家の中に戻そうとチロの腕を引っ張る。その時になってようやくもう一つの違和感に気づいた。背中の後ろを覗き込むと案の定だ。チロの両手首は革手錠で後ろ手に拘束されていた。……いや、してもらっていた?

「…………」

「……ン……」

 つい間近にチロの顔を覗き込む。なおもアタシの顔を見ようとしないチロの、ほとんど覆面みたいな大きなマスクに、アタシは手をかけた。令和五年現在、なおも国際的な感染症対策が続いているということで、こういうマスクを着けているのは全然不自然じゃないけど、これだけあちこち変なことしてるってことは……うん、予想通りだった。チロの口には粘着テープがピタピタに貼ってあって、たぶん口の中にも何か入れてる。ゴムボールみたいなのか、布切れの塊か。まさに人体拘束の見本みたいな処置である。

 親しく話もしてないし、今さらではありますが……この娘、ここまで拘束プレイが好きなのか。あるいは露出とか羞恥も入ってる?

 もうアタシはこのまんま部屋に戻って、一日中布団をひっかぶって過ごしたい気分になっていたけれど、そう言うわけにはいかない。今日はまだ始まったばかりなのだ。

「――で?」

「うん、電車に乗るまで。ええやろ?」

 アタシの視線にもまるで動じることなく、屈託のない笑顔を向ける母である。なんとなく今の今まで聞きそびれていたことながら、いったいこの人はオヤジとどんな性生活を送ってきたのか。アタシはどんな状況の下、天から生を授かったんだろうか。

 長い長いため息を吐き出す。……あ、もういいや。とりあえず前向きに行こう。

「一応、何があるかわからんから、横になるのは止めて。まっすぐ座って。ちゃんとシートベルト締めて。んでせめてマフラーぐらいして、その首輪隠し。あと、何かの弾みに窒息されてもアタシは間に合わへんから、手錠だけは外しといて」

 世の中には猿ぐつわマニアってのが結構いて、本格志向の人は口の中に詰物をして声を完全に殺す。けど、そうすると軽くむせただけで呼吸困難になる可能性があるからとても危険。これで緊縛なんかしてたらマジで命取りになるんで、Mの人からリクエストがあった時は、すぐ間近で誰かがずっと見守ってやらないといけない……なんていうプレイあるあるは、オヤジの周りの悪い人たちからいっぱい聞いてきた。この娘も、その程度のことぐらい分かっていそうなもんなのに、と、ちょっと当てつけっぽくイヤミに言ってやる。

 母はいささかもたじろぐことなく、

「あ、それは問題ないから。チロ」

 そう言って顎をしゃくると、チロの背後でカチッと音がして、後ろ手になっていたチロの腕が何事もなかったのように前に出てくる。アタシの目の前で華奢な拳が二つ並ぶと、またカチッと音がして両手首の革手錠がくっついた。マグネットだったのだ。

「ただのアクセサリーに見えるやろ?」

「……さっさと乗んなさい」

 努めて頭の中を真っ白にして、アタシは運転席に戻った。もう何も言うまい。ここにいるのは意思疎通の不可能な存在だ。世にも珍しい奇習に彩られた星からやってた、文化人類学的に格別な配慮が必要なお客さんなのだ。そうに決まってる。

 明るい笑顔で両手を振る母に送られて、アタシとチロは出発した。


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