<28・アキさんのピアノ>

 成績は全体的に、燕より兄の方が上なわけだが。その燕が、数少ない兄に勝てる科目が、体育と音楽であったりする。梟が運動神経が良くない(というより、元々が病弱なので体力がない)のは皆も知っているところだが、もう一つ大きな弱点があることを知っている人間はそうそう多くないだろう。

 兄は音痴だった。それも、ちょっと音楽室でテロが起きそうなレベルの。

 かつて燕と兄、両親の全員でカラオケに遊びに行った時の死屍累々ぶりたるや、筆舌に尽くしがたいものがあったのである。なんといっても、普段喋る時ははっきりした声なのに、いざ歌おうとすると兄ときたら、低音がちっともでなくて声がとんでもなく掠れるのである。マイクがまるで拾わない。でもってそれに合わせて音量を上げると、サビだけ妙に頑張ってしまうのだ――とんでもない大声量で、外れまくりの声で。

 兄の場合“きちんと音は聞こえているけれど、発声する段階で音痴になる”典型であるようなので、治そうと思えな治せないこともないのだろう。ただ、それをなんとかするには本人のあのとんでもない癖をどうにかしないといけないわけで。燕もそれは分かっているのか、ここ最近は完全にいじけてしまって絶対にカラオケに行かない、行っても死んでも歌わない状況が続いているのだった。

 まあ、“音痴だけ直せばかっこいいのに”みたいな評価を周囲に散々聞かされていれば、そりゃ本人もしょぼくれるというものだろう。

 だからなんとなく、燕もわかってしまう気がするのだ。ピアノだけ弾けばいいのに、歌わなければいいのに――そう言われて悔しかったであろうアキさんの気持ちが。


――確かに、此処は兄ちゃんが来なくて良かったかも。


 燕は兄よりは、音楽が得意な自覚があった。歌だけなら先生にもちょいちょい褒められるので、おそらく悪いものではないのだろう。先生がピアノで鳴らした音などもなんとなく想像がつくので、多少程度に音感もあるとは思っている。少なくとも、梟が此処に来るよりはマシだったはずだ。

 何故なら、この七不思議には、歌が必要不可欠であるのだから。


『古い方の七不思議によれば。……アキさんはずっと、自分の音楽が完成させられなかったことが悔しくて悔しくて、ずっとピアノを弾いているって話なんだよな。逢魔が時から、真夜中までずっと。そして、自分の歌が完成させられる時を夢見てる。その手伝いをしてくれた人には祝福を与え、邪魔した人には罰を与える……らしいんだけど、どんな祝福で罰なのかがふわっとしてんだよな。だから正直、何が起きるのか全くわからないんだ』


 梟の言葉を反芻しながら、燕は黒いピアノの前に立つ。


『アキさんに会う方法は、一つ。ピアノの傍に立って言うんだ。アキさん、アキさん、一緒に歌いましょ……ってな。するとアキさんがピアノの前に現れて音楽を弾き始める。それに合わせて、アキさんを満足させる歌を歌うことができれば……アキさんは喜んで幸運を与えてくれるんじゃないかって話だぜ。ただし、何の曲がどのように流れてくるかは全くわからない。誰も聞いたことないからな。全く知らない曲って可能性もあるだろう』

『ええ!?知らない歌じゃ、歌えないよ俺……!』

『そうだな、だからその時は……死ぬ気でアドリブ頑張れ、それっきゃねえ!お前歌上手いからいけるだろ、俺と違って!うん俺と違うから!』

『二回言わなくてもわかるから兄ちゃん!!』


 無茶ぶりにもほどがあるだろ、と頭を抱えた燕。せめて譜面があれば、次にどんな音が来るのか想像することもできるけど(一応オタマジャクシは読めるのだ、これでも)、それもないのに満足に歌うなんてできるはずがない。

 それでもやるしかない、という状況なのがなんとも残念で仕方ないが。


「あ……アキさん、アキさん!一緒に歌いましょ!」


 ぎしぎしと煩い床を踏みしめて、真っ黒なピアノを真正面に睨んで。半ばやけっぱちのように言った時。

 ぱさり、と。何かが燕の足下に落ちてきた。え、と思って見ればそれは数枚の楽譜である。しかも、どれも手書きの譜面ときた。

 タイトルには、“カナリアのうた”とある。歌詞も書かれているが、まったくもって初見の曲だ。


――え、え?まさか歌うのってこの曲……?


 譜面があるから、全く歌えないほどではない、と信じたいが。それでも練習なしにどうこうなるものなのだろうか。音も少なくて、かなりシンプルな曲ではあるようだが。

 戸惑って譜面を見つめていると、ぽろん、とピアノが高い音を鳴らした。はっとして顔を上げれば、いつの間にかピアノの前に誰かが座っているではないか。

 ぱあ、と。まるでスポットライトのように、ピアノの前に証明が当たる。奏者の様子が見えた。短い髪の、ぽっちゃりとした可愛らしい女の子だ。今までの幽霊とは明らかに違う。何も知らなければ、そしてこの状況でなければ、生きている人間の少女と何も変わらないようにしか見えなかったことだろう。

 彼女は燕の方を見ることなく、指先を鍵盤に乗せた。そして、ぽつりと呟くように告げる。


『……歌って。わたしの、曲。まだ、完成してないの……』


 ふわり、と手元の譜面が浮かび上がった。慌てて追いかけるように燕が立ち上がったところで、譜面は空中で燕の目の前に、それこそ譜面台に立てかけるように固定される。

 何故だろう。不思議な感覚だった。さっきまでは、初見でいきなり歌うなど無理だとばかり思っていたのに。彼女の気持ちを知りたい、理解してあげたい――そう思うと同時に、音符がするすると頭の中に入ってきたのだ。まるで、燕を導くように。

 彼女の指が、動き始める。可愛らしくも切ない前奏が始まった。


――何でだろう。


 合わせるように、燕は口を開く。


――歌える気がする……俺。




“言う通りに動くいい子

それだけが求められてると知ってた

不格好なだけの個性なら

無い方がマシだよと大人は笑う”




 きっと、アキという少女は思い悩んでいたのだろうな、と想像する。自分に求められる才能はピアノだけ。下手くそだと笑われる歌は余計だと。でも彼女は、ピアノも歌もやりたかった。二つが合わさってやっと自分の音楽が完成すると思ったのだ。

 だから一人で、ずっとずっと練習していて。下手くそな歌なんて要らないと言われるのが悔しくて、そんな相手を見返したくて。だから。




“ねえ 上手に声が出せない金糸雀に

夢を歌う資格は無いの?”




 だから、この歌を作ったのだ。

 誰かにわかって欲しくて、届けたくて。




“どうかお願い たった一言でいい

どんな不格好でも 不器用でも

下手くそでもいい 君は君でいいって

悪い子でもいいって 言って欲しくて”




 たった一言、それでよかった。

 たった一言で救われることもあると、誰かに気づいて欲しかった。

 小さな言葉だけでいい、それで人は救われることもあるのだと。




 ***




“誰かが望んだ通りに

社会の役に立てる子になれたなら

けど出来損ないの僕では

あまりにも持てるカードが少なくて


ねえ 上手に羽ばたけない金糸雀は

鳥籠で嘆くしか無いの?”




 初めて聞く曲だった。燕の透き通るような高い声が、混沌と化した校舎の中を響き渡っていく。誰かのオリジナルだとしたら、きっとそれは“アキさん”の曲なのだろう。彼女は自分だけの曲を歌って完成させてほしいと、そう願って燕にそれを託したのだ。


――鬼と言うと、悪意の塊だけを想像しそうなもんだが。よく考えたら……人の欲望ってやつは、元々は小さな“願い”でしかないんだよな。


 英玲奈の手を握って階段を降りながら、梟は思う。不思議なことに、燕の歌声は距離がどれほど離れても小さくなることがなかった。まるで誰かがスピーカーで、校舎全体に流してでもいるかのように。


――誰かに愛されたい、認められたい、わかってほしい、お金持ちになりたい、可愛くなりたい。そういうものが寄り集まって、鬼を作る。……そう考えるなら、ただ自分の歌を歌って完成させて欲しいと願う“鬼”がいるのも、全然おかしなことではないのかもしれない。




“どうかお願い 嘘でも構わない

失敗してもいいって 逃げてもいいって

転んでもいい 僕は僕でいいって

認めてくれたなら それで良かったの”




「梟さん!」


 英玲奈が声を上げた。二階から踊り場に降りるべく踏み出した瞬間にである。げ、とぎりぎりのところで足を止める梟。凄まじい殺気が、下から上ってくるのを感じたのだ。歌に気を取られていてすぐに気づくことができなかった。


「おでましかよ……!」


 どうやらマリコさん、は燕ではなく梟達を標的にすることを選んだらしい。もはや彼女は、二足歩行の人間の姿ではなかった。這いずるように四足で、じわじわと一階から階段を上ってくる。否――もう四足、どころではなかった。こうして見ている間にも、彼女の脇から、背中から、鈍い音を立てて何かが突き出してくるのだ。

 肉を裂き、骨を生やし、そのたびぶるぶると全身を痙攣させる彼女はもはやヒトでもただの怨霊でもない。白目を向き、鋭い牙が生えた口を大きく開き――自分たちの姿を見つけた怨霊は。踊り場で、大きく吠えた。もはや獣に近い咆哮である。




『ギシャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!』




 そして、ジタバタと両手両足を振り回すようにしながら、速度を上げて階段を駆け上ってくる。


「逃げろ!!」


 マリコ――否、鬼から逃げるべく、梟と英玲奈は踵を返した。




 ***




“どうかお願い たった一言でいい

どうかお願い ほんとは嘘じゃなく……”




 間奏を経て、いよいよ曲は最後の盛り上がりへと向かう。果たして自分は、アキの望む通りの歌が歌えているのだろうか。彼女のお眼鏡に叶う曲が共に作れているのだろうか。

 懸命に鍵盤を叩く彼女の様子を伺う余裕はない。今はただ、目の前にある譜面に集中するのみ。よそに意識を持って行かれていては仕損じるとわかっていた。ただの失敗ではない、きっとそれはアキに伝わってしまうという確信がある。彼女が音楽に真剣であればあるほど、目の前の一曲に集中しない歌い手を許す事などないだろう。

 さあ、最後のフレーズを。

 残る小節数は、あと――。




“どうか気づいて そこに愛はあるか?

その一言は時に 世界を変える

誰かを殺し 誰かを突き落とし

そして救える 君がくれたように”




 まるで、波が引いて行くように曲が終わりを迎える。はあ、と息を深く吐きながら最後の後奏が終わるのを待った。ささやかな希望を歌うような指が、静かに最後の一音を鳴らした瞬間――彼女はゆっくりと顔を上げ、初めて燕の方を見たのである。


『……ありがとう』


 彼女はそっとその左手を鍵盤から離し、ドアの方を指差した。暗い教室の中、スポットライトがもう一つ増える。

 音楽室の入口にぽつんと置かれているのは――あの赤い服のお人形だった。まさか、鬼であるはずの彼女が、自分に最後のピースを差し出してくれるというのか。


「……いいの?」


 思わず燕が尋ねると、アキは満足そうに頷いた。そこには、慈しむような優しい笑みが浮かんでいる。


『……貴方のおかげで、完成できた。……私の願いは、それだけだから。本当は私達はみんな、そういうものでしかなかったの。小さな願いが叶えば、それで良かった。大きな変化なんて、大きな野望なんて、そんなもの誰も持ち合わせてはいなかったはずなのに……』


 終わらせてね、と。彼女は祈るように言葉を結ぶ。燕は頷いて、人形のところに走り出した。まるで溶けるように、手元の譜面が光となって消えていく。

 鬼の中には、終焉を願う者もいたのだ。自分達の本分がどこにあるのか、けして忘れていない者も。

 ならば、自分は。


――終わらせる、必ず……!


 燕が人形を拾いあげた瞬間。大きな地響きが、校舎全体を揺らしたのである。

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