<19・ルリコ先生の保健室>

 自分は兄ほど、頭が良いわけでもない。だから、今までの推測は全て間違っているなんてことも充分あるだろう。あの人形は七不思議とは何ら関係がないのかもしれない、関係はあるけれど自分に悪意があって悪戯しようとしているだけなのかもしれない、ここから抜け出す方法なんか何もないのかもしれない、七不思議を全部体験したら脱出はおろかもっと悪いことが起きるのかもしれない――。だが、それらを今考えてもどうにもならないことである。

 今は、少ない材料からでも状況を冷静に判断して、少しでも前に足を進めるしかないのだ。

 燕には、帰らなければいけない理由がある。

 このまま燕が行方不明になったら、兄は間違いなく己を責めるだろう。それはさすがに寝覚めが悪い。確かに彼がおまじないを教えてくれたのは確かだけれど、彼に聞かなくても自分は安斎あたりに詳細を聞いたかもしれないし、何より実行すると決めたのは他ならぬ燕自身である。過剰に責任を背負い込まれるのは、流石に申し訳ないし、なんだか腹も立つというものだ。

 そして、このまま自分が消えたら――もう二度と、英玲奈と会うこともできなくなってしまう。

 彼女のヒーローとなると約束したのに、その約束を果たせずに終わってしまうのだ。それだけは、避けるべきことだった。泣かないだけでは駄目なのだ。本当に、大好きな子の大好きな存在になりたいと願うなら、約束くらいびしっと守れる男にならなくてはいけないはずではないか。


――保健室……。


 あの人形は、ひょっとしたら自分にもう一度七不思議の怪異を封印させようとしているのかもしれなかった。あるいは、此処から脱出するための手引きをしてくれているのかもしれない――とりあえず、今はそう考えようと思っている。少なくとも、彼女が導いた先で“ユリさん”に遭遇したのは、さすがに偶然ではあるまい。

 ということは、この一階の保健室も、七不思議のいずれかの舞台であるはずだ。安斎にひとしきり七不思議の物語は聞いたはずだったが、一体どんなものであっただろうか。


――えっと、えっと、確か……!




『ルリコ先生っていう、美人で優しい保健の先生がいたんだってさ。俺達男子の憧れの的ってやつ?』




 そうだ、この話を語る時、安斎の奴は他の話以上にウキウキしていたのではなかっただろうか。そこはそれ、彼も小学生男子というわけである。面白いことと、美人なお姉さんには積極的というものだ。同年代の女子は好きな子ほどしょうもない悪口でからかうことがあっても、年上の美人なお姉さんなら話は別なのである。

 タイトルはそう、“ルリコ先生の保健室”。

 そのまんまやんけ!というツッコミを心の中でしつつ、ガチャリとノブを回す燕。当然のように、ドアに鍵はかかっていなかった。さあおいでなさい、とでも言うかのように。




『ルリコ先生に会いたくて、しょっちゅうしょうもない怪我をして保健室に来る生徒もいたし……それこそ不登校っていうの?そういうやつも保健室にだけは来て勉強していくってこともあったらしい。ルリコ先生は優しくて綺麗で、生徒のちょっとした相談にも乗ってくれるすごいいい人だったんだって。俺もそういう保険の先生が良かったなー、今の先生すんごいババアだし』

『そういうこと言うと殺されるよ安斎……?めっちゃ怖いんだからね浅井先生』

『はいはい、気をつけマース。……でさ、続きなんだけどな。ある時その先生のところに頻繁に、特定の男子が訪れるようになったんだよな。いっつも殴られたみたいな怪我してる奴がさ』




 悪ふざけのような会話が、今は少しだけ懐かしい。自分はあの日常に戻れるのだろうか――一瞬そう考えてしまって、燕はブンブンと首を振った。

 戻れるのだろうか、ではない。戻るのだ、絶対。ここで気弱になったら、死ぬよりも前に心が折れる。そうなったら、何もかも終わりではないか。

 諦めるな。死んでから諦めたって遅くはない。自分の大好きのアニメのヒーローだって、そう言っていたはずだ。




『毎日のように来るようになった男子っていうのがさ、ようはその……いじめられてたみたいなんだよな。体が小さくて、病弱でっていう典型。かけてる眼鏡もしょっちゅう割られてたし、殴られるせいでいっつもアザだらけだった。殴り返すようなタイプじゃなかったっていうのもあるし、その当時クラスを仕切ってたガキ大将が本当にクソな奴だった上、担任も事なかれ主義っつーか見て見ぬふりだったんだとさ。……ただそいつは、何度殴られても、学校に来るのをやめなかったんだ。親のプレッシャーもあるけど、何より体が小さいわりに意思が強かったらしくて。何がなんでもきちんと勉強して、医者になりたいっていう夢があったんだと。ルリコ先生は、そんなガキのことを応援しつつも、苦い気持ちで見守ってたんだ』




 ドアを開いた先、どこか昔懐かしいような木の香りが漂ってきていた。やはり、自分が知っている保健室とは違う。木造の壁、床、天井。カーテンで覆われたベッドが奥に二つ並び、身体測定で使いそうな体重計などが置かれ、視力検査で使いそうな“C”の並んだ紙が大きく壁に掲げられている。

 医薬品などが入った棚。

 保険医の先生らしき人が使うのであろう、椅子と机。

 ざっと見たかんじ、室内に人影はない。当然、保健の先生らしき人物も。




『ある日を堺に、いじめられっ子のガキは保健室に来なくなった。……何がなんでも学校に来るんだって言ってたのに。そいつは校舎の上から飛び降りて、死んじまったんだよな。世間では、自殺ってことになった。でもルリコ先生は、その子供が自殺するなんてどうしても思えなくて、生徒達に聞き込みをして……で、知っちまったんだよ。いじめっ子が、度胸試しって名目で、そのガキに校舎の壁を登らせてたんだってこと。そいつは足を踏み外して、死んじまった。でもいじめっ子達は、自分達がやったことを周囲の子供達を脅すことによって口止めして、全部なかったことにしやがったんだ』




 マジで胸糞悪い話だ、と聞いた時は思ったものである。だが、問題はここからなのだ。

 その残酷ないじめの実態が明らかになった時、ルリコの中で理性の糸がぷつりと切れてしまったというのだから。




『ルリコ先生は、いじめっ子の主犯だったガキ大将を騙して保健室に連れていくと、奥のベッドに縛り付けて……生きたまま解剖してやったんだと。いじめられた子が受けた苦痛を思い知らせてやるために。痛い痛い、って泣き叫ぶガキ大将を、笑いながら切り刻んだって話だ……怖いよな、美人で優しい先生がそんなになっちまうんなんて。しかも、先生も同じくそのまま保健室で自殺しちまったんだと』

『ひ、ひえ。そ、それで……?』

『以来、先生はいじめで苦しむ生徒がもう二度と出ないように、っていう願いから……この保健室に留まって願いを叶えてくれる存在になったらしい。人間関係が改善するようにお願いすると、叶えてくれるんだとよ。勿論、いじめられているから助けてほしい、っていうのでもOKらしいぜ』




 他の七不思議でもそうだが。起きた出来事が残酷であるわりに、その霊は悪霊扱いされていない。それどころか、やや強引に“生徒の願いを叶えてくれる心優しい存在”として解釈されているのが違和感があるとも言える。まるで、後半部分だけ新たに書き直されたかのような印象を受けるのは自分だけなのだろうか。

 普通は、そんな最期を迎えたなら、他のいじめっ子を探して学校内をさまようとかそういうことをしそうだというのに。


――実際、“ユリさんは暗闇の中”も……聞いてた優しいおまじないとは違う印象だったもんな。捕まったら殺されるって、本能的に思ったし。七不思議が反転した結果、出てくる幽霊達がみんな悪霊になった可能性は普通にありそう……。


 実際、昔は可愛いおまじない系列ではなく、もっと怖い内容の七不思議であったのだと父等も言っていた。とすると、人形の封印が解かれた結果、幽霊達が可愛いものではなく“本来のもの=旧七不思議”の悪霊に戻ってしまっている可能性もあるのかもしれなかった。

 問題は、その旧七不思議の内容を、燕はほとんど知らないということなのだが。ああ、父に聞いておけばよかった、なんてことを今思っても後の祭りだ。


――多分、前半の物語が関係してくるよね。……惨殺事件が起きた、多くのベット……。


 ベッド二つは、どちらもカーテンが引かれている。しかも、外から入ってくる月明かりだけでは、中の様子を透かしてみることもできない。

 電気はつくだろうか、と一歩踏み込み、そろそろと入口付近の壁を探した時。図ったように保健室のドアが閉まった。本当に、要らない歓迎でもされているかのように。


「もうっ……!」


 小さく悪態をついて、電気のスイッチをパチリと押す。いくらペンライトがあるとはいえ、こうも暗くては探索にならない。

 幸い、灯はすぐに点灯した。やや切れかかった白熱灯の光が、パチパチと点滅しながらも室内を明るく照らし出す。ほっと息をついた、次の瞬間だった。




 ぐちゃり。




『ふぐっ……!』




 ざくり。




『ひぎっ……!』




 ねちょ、ねちょ、ねちょ――ぽきり。




『ひぐううう!いひゃい、せんせ、いひゃいよお……!』




 ぎょっとして、燕は声と音がする方向を見た。さっきまでは、確かに誰の気配もしなかったはずである。しかし、今は違う。何かが、奥のベッドの方にいるのである。濡れた肉を掻き回すような音、骨を折るような音、それからくぐもった――少年の悲鳴。

 じわじわと鼻をついてくるのは、鉄錆の臭いだった。そう、台所で母が魚を捌いた時そっくりの、あの臭いである。


――ま、まさか。


 ごくり、と息を飲んだ。まさか今。現在進行形で、そのベッドで解剖が行われているのだろうか。それを、死んだ保険医と少年で繰り返し続けているとでもいうのか。

 音がするたび、カーテンが揺れる。ベッドがギシギシと暴れるように鳴る。凍りついたように動けない燕の耳に、女の狂ったような高笑いが聞こえた。


『アハハハハハハハ!苦しい?いいえ、まだまだこれからよ。ほら、暴れないの……なによ、まだちょっと指を折って、お腹をぱっくり開いただけじゃない。私が外科医の免許も持っている保険医で良かったわねえ。腹膜も切ってないからほら……綺麗なピンク色の内臓がよーく見えるでしょ?……ああ、ちょっと、漏らさないでよ。まあ、内臓丸出しじゃ、お腹が冷えちゃうのも仕方ないとは思うけれど』

『ひぐっひぐうっ……!せ、せんせ、ごめんなさい……!』

『私に謝ってもらっても仕方ないわ。……ちゃんと向こうに行って、あの子に土下座でもなんでもして許してもらうことね。……。まあ、あんたがあの子と同じところに行けるとも思ってないけど。……さあ、次へ行きましょうか。この腹膜を、そーっと切っていくとね……』

『ひ、ひぎいいいいいいい!』

『ほら、でろーんって!綺麗にお腹の中身が飛び出しちゃった!じゃあ、今から一つずつ貴方に見せて、解説してあげるわねえ?』


 一体、少年をどれほどの恐怖と激痛が襲っていることか。

 そしていくらいじめっ子とはいえ、小学生の男の子を相手にここまでのことをするほどの狂気と憎悪はいかばかりであることか。

 光景は見えない。ただ、声と音が聞こえるのみ。カーテンの向こうには、一体どれほどの惨劇が広がっているというのか。


――ま、まさか。カーテンを開けて、向こうを見ろっていうのか……!?


 見たくない。どんなホラー映画より凄まじい状況になっているに決まっているのである。

 だが、そもそも彼らは既に死んだ存在。惨劇が起きたのは仮に事実だとしても、今の幽霊である彼らが本物の血と飛び散らせているとは考えにくいはずだ。というか、このまま怪異を見ずに保健室を出てしまったら、自分は七不思議を体験したことにならないのではないか。

 ぐるぐると考えながらも。燕は震える足を、一歩前に踏み出していた。がくがくと恐怖で膝が笑う。ぎしり、と踏み込む音が悪霊に聞こえてしまのではないかと不安に駆られる。


――大丈夫、大丈夫だ。もし何もなかったら、すぐに逃げるんだ……すぐにっ……!


『いだいい……いだいよう……おなか、いだいっ……!ぜんぜ、もうやめで……もうしない、もうしないからぁっ……!』


 泣き叫ぶ声と、内臓を掻き回すようなねちゃねちゃという音は続いている。もう、カーテンは目の前だ。凄まじい血の臭いに吐きそうになりながらも、燕は。


――何も、ありませんようにっ!


 祈るような気持ちで、カーテンに手をかけ、一気に開いたのである。

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