2-6


「……なるみも?」

 恐る恐る発された藤吉くんの声掛けにハッとなり、立ち上がった私はいそいそと彼の元へと近づく。壁を背にしてぐったりと座り込んでいる彼の前で再びしゃがみこみ、とりあえず顔に巻かれているはちまきを取ってやった。

 少し眩しそうに目を細めた藤吉くんが、私の顔を見るなりくしゃっと頬を潰した。

「よかった。怪我とかはなさそうだね。見えてないから状況が全然わかんなくて」

「い、いや、私より藤吉くんでしょ! お腹、思いっきり蹴られてたじゃん。大丈夫なの?」

「僕は平気だよ。ちょっとだけ吐きそうだけど。無理に動いたりしなければ」

 遠慮がちに腹部をなでながら、彼は強がるような笑顔を見せていた。

 一抹の不安を残しつつも、とりあえず私はホッと胸をなでおろす。たゆんだ心地が全身の緊張を徐々に緩和させていき、血脈がゆるやかになっていく。平静を取り戻した私は数多あるクエスチョンの中で一つ、最も大きな疑問符を藤吉くんにぶつけた。

「藤吉くんそもそもさ、なんで女子更衣室のロッカーの中にいたの?」

 彼が変態で覗き魔だから――という理由にしては状況が奇妙すぎる。

 藤吉くんは「ああ」とあさっての方向に視線を逃がしながら、

「なるみもをいじめている連中が同じクラスの女子たちだっていう目星はついていた。そして、直接的な嫌がらせを実行するなら男子連中の目の届かない場所でやると踏んだんだ。でもキミは、おそらく過去のいじめの経験から女子トイレで一人になるのを警戒しているよね。だとしたらあとは、男子と女子で授業が別の体育の授業……先生もいない着替えのタイミングかなって。だから僕は女子の体育が終わる寸前に女子更衣室に忍び込んで、ロッカーの中に待機していた。なるみもへの、いじめの現場を抑えるためにね」

 私が押し黙って目を丸くしていると、藤吉くんが慌てたように手を振った。

「――あっ、言っとくけど決して覗きはしてないよ。そのためにはちまきで目隠しまでしていたんだから」

「あっ、いや、それはわかっているけど、そうじゃなくてさ――」

 私はポリポリと頬を掻いて、ばつの悪そうに地面に目を伏せる。

「……なんで、私なんかのためにそこまでしてくれるの? この前私、平気だよって、言ったのに」

「まぁ、それはさ……」言い淀んだ藤吉くんが少しの間を置き、すぐにまた口を開いて、

「やっぱ僕は、なるみものファンだから。ファンは推しを守るのが、使命というか――」

「本当に?」

 彼の発言に違和感を覚えた私はグッと目を見開いて、藤吉くんの顔面にずずいとにじりよる。鼻先十センチメートルの距離感で、藤吉くんもまたギョッと目を見開いている。

「本当にそれだけの理由? キミ、下手したら変態扱いされて人生終わってたんだよ? そんなリスク負ってまで、ただファンだからってここまでしないでしょ。フツー」

 彼を詰めるような、切羽の詰まった口調になっていたかもしれない。

 藤吉くんは再び押し黙っていた。押し黙ったまま――やがて何かを諦めた様に、ふぅっと大きな息の塊を吐き出した。

「……僕の人生が、キミに救われたから。今度は僕がキミの人生を救いたいんだ」

 まっすぐに私を見つめながら、彼はゆっくりと言葉を紡ぐ。

「僕も、なんだ。僕も中学生の頃、同級生からいじめを受けていた」

「……えっ?」彼の吐露に、私は思わず呆けた声を漏らした。

 藤吉くんが、過去を思い描くようにポツポツと語り始める。

「理由なく殴られたり、理不尽な命令されたり……結構エグくてさ。耐えられなくなった僕は途中から、学校に行くこと自体を放棄した。いわゆる引きこもりになったんだ。……でも部屋で一人きり何にもしないと、僕をいじめてたやつの顔がどうしても頭に浮かんじゃって。だから、てきとーにネットで動画観たり、ゲームしたり、そうやって時間を潰していた。このままでいいのかな。ずっとそう思ってはいたんだけど、中々、行動には移せなくて」

 彼がこぼす一つ一つのテキストが、私の心の中に沈み込んでいく。

 彼の言葉が明確に、私の過去に共鳴を示したから。

 彼の言葉に、痛いくらいの共感を覚えたから。

「ある時ね、なんとなく観ていた深夜のバラエティ番組を気に入って、気づいたら毎週観るようになっていた。それが、『idol.meta』が出演している『ドメタと夜更かし』だったんだよ。MC芸人とドメタのみんなとの掛け合いが面白くてさ。この子たち、ライブだとどんな感じになるのかなって、なんの気なしに動画を漁ってみた。……びっくりしたよ。スタジオの檀上ではホンワカしているっていうか、どっか抜けたような発言ばっかしている子たちなのに、ダンスしている姿がめちゃくちゃカッコよくて、一人一人、こっちが息を呑んじゃうくらい真剣な表情をしててさ。一瞬で心、奪われた」

 その感想は藤吉くんだけでなく、ドメタのファンを公言する他の人からもよく耳にする。バラエティ番組やらラジオトークでは女子高生然とした天然を炸裂させている私らだったが、ライブパフォーマンスではまるで何かに憑りつかれたような演目を披露する。そのギャップがドメタのウリでもあった。

「だから、最初はなるみもというより、ドメタの箱推しだったんだよね。でも、『ドメタと夜更かし』を毎週観ている内に、なるみものことが気になるようになってきた。なんかね、他の子たちは自分の色を出そうとか、うまくMCの人と絡もうとか……みんな、そういう姿勢が見えるんだけど、なるみもだけは違って、よく言えば自然体、悪く言えばやる気がなさそうっていうか……素のまんまのキミが、画面に映っているように見えてさ。この子はなんでアイドルをやっているんだろうって、興味が沸いたんだ」

 ゴトリ。私の心臓が音を立てて転がる。

 直感があった。彼の言葉はきっと、私が抱き続けている自責の念を浮き彫りにする。

「出演した地上波のテレビ番組は勿論、それ以外にも雑誌記事やら、ネット配信やら、……ブログはあんまり更新してくれないけど――とにかく、なるみもに関する情報を集めまくった。そうして、キミがアイドルを始めたきっかけ――いじめられた過去について語っている例の雑誌インタビュー記事にたどり着いた。その記事を読んで僕ね、ハッとなったんだよ」

 視線を落とし、少しだけ首を引いた藤吉くんが躊躇するように口を開閉させている。しかしすぐに頬をたゆませて、再び私に目を向けた。

「僕はそれまで、芸能人とかアイドルってどこか遠くの、自分が存在する世界とは別のところで生きている人たちだと思っていた。ドメタだってそう、あんなにすごいパフォーマンスができるキミたちを、フィクションの世界の住人のように感じていた。でも、なるみもがいじめられていたっていう過去を知って、変な言い方になるけど、親近感……みたいな気持ちが、沸いたんだ。なるみもにだって僕と同じような学生生活があって、同じ時間軸で呼吸をして、食事をして、僕と同じように辛いことがあったら悩んで、それでも、アイドルとして立派にやっていて――そんな当たり前のことに、気づいたんだ」

 藤吉くんの言葉はどこかエコーがかっていて、ぐわんぐわんと耳の奥で反響していた。

 私は彼から視線を逸らして、地面を見つめる。

「だから、さ」藤吉くんの柔らかい声が、私の四方を取り囲んでいた。

「なるみもがやれているんだから、僕にもやれるはずだって、このままじゃいけないと思っているなら、自分から何かしなくちゃって。僕は人生で初めて、自らの意志で行動を起こしたんだ。中学は結局そのまま登校しなかったけど、家で一人で勉強して、高校受験を受けた。第一志望の高校に受かって、学業に復帰することができたんだ。いじめられていた過去を思い出すことも未だにあるけど、なるみもの頑張っている姿を見るとさ、負けるもんかって、そういう風に考えられるんだ。だからなるみもは、僕の人生を……救って、くれたんだ」

「や、やめてよ」

 懇願するような声だったと思う。

 私は顔を上げられない。

 へたりこんだまま、罪を告白する受刑者のように情けない言葉をボロボロとこぼす。

「……私、藤吉くんが思っているような努力、全然していないよ。アイドル始めた理由だっていじめから逃げたいだけだったし、今だって、たまたま受かっちゃったからなんとなく続けているって、それだけなんだよ。他のメンバーと違って食事とか美容、全然気にしていないし、ダンスの自主練だって一番やってないし、ブログも更新しないし、すぐに腰痛めるし、全然、ダメダメで――」

 私の声が尻すぼみになり、代わる静寂が間を縫った。藤吉くんはきっと呆れた顔で、侮蔑の目を私に向けていることだろう。

 いよいよ覚悟した私が上目遣いで彼を窺い見ると、予想とは裏腹、何故だか藤吉くんはきょとんと不思議そうな顔を見せている。そして、

「えっ、何言ってるの? そんなの、なるみもの推しはみんな知っているよ?」

「……へっ?」

 私が阿呆面で阿呆な声を返すと、「ぷっ」こぼすように彼が吹き出した。

「なるみもはそれが、いいんだよ。他人のペースに惑わされずに、常に自分らしく振る舞っているから、僕はキミにシンパシーを感じたんだ。憧れを抱いたんだ。『なんとなくアイドルをやっているアイドル』なんてこの世になるみもだけだと思うし。それでアイドルをやれているのって、逆にすごいことだと思うよ」

 私はポカンとしていた。

 そんな考え方、したことなかったな。

「これは僕の想像だけど。なるみもを推している人たちってみんなきっと、キミのそういう姿勢を気に入って、なるみもを好きになったんじゃないかな。他のアイドルにはない、とことんマイペースななるみもを、さ」

 心臓をキツく縛り上げていた有刺鉄線が、バラバラとほつれていく。

 脳みそをギュウッと押しこんでいた半球体のカプセルが、粉々に砕ける。

 凝り固まった筋肉が、ドロリと溶け出す。

「ははっ……アハハッ――」

 壊れたような笑い声が漏れた。アハハッ、アハハッ、乾いた音が空間に漂い、藤吉くんは戸惑ったような表情で私を見ていた。

「いや、さ」私はベタンと地面に腰を落としながら、両手を後ろ手に体重を支えながら、潤んだ瞳を彼に向けた。

「私……私みたいのでも、ちゃんとアイドルとして、人に元気、与えられていたんだなって」

 藤吉くんはなおも困惑した顔つきを継続させていたが、やがてフッと綻ぶように息を漏らして、コクンと大きく頷いてくれた。

「よっと」立ち上がり、グッと背伸びをしてみる。肉体をつなぐ繊維が引き伸ばされる感覚が気持ちよく、断捨離された脳内で思考がクリアになった気がした。

「藤吉くん。ホントありがとねっ。私をいじめから助けてくれたことも、私に……大事なこと、気づかせてくれたことも」

 振り返って彼を見ると、藤吉くんは照れ臭そうに後ろ頭を掻きながら、「そんな別に、僕は大したことなんて」

 その仕草を愛らしく感じてしまった私は思わず、彼にずずいとにじりよった。

 鼻先十センチメートルの距離で再び、ギョッとなった彼に対して私は、

「ねぇねぇ。明日の昼休み、空けといてくんないかな?」

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