第2話

 さては、この、自分に惚れているな?

 今思えば、何て、図々しい。自分で、自分に呆れてしまう。でも、赤の他人には、驚くくらい引っ込み思案な先輩のことだから、僕から声をかけなければ、きっと僕らは永遠に恋人同士にはなれなかっただろう。だから、図々しくてよかったのだ。むしろ、万々歳なくらいだ。

 季節は春。いや、むしろ初夏と言っても差し支えの無いくらいの暑さだったか。東北出身の先輩は、「暑い、暑い」と文句を垂れながら、白衣の長袖を捲って、学内を歩いていた。当然、前を向いていなかった先輩は、大学院に進学したばかりの僕とぶつかることになる。そして、盛大にトートバッグの中身をぶちまけてしまう。

「神経内科?」

 重量、価格ともに存在感のある教科書類は、どれも、神経内科関連のものだった。地べたにしゃがみこんで、せっせとそれらを拾っていた先輩は、僕の独り言に顔を上げる。不快感のある風に、先輩の綺麗な黒髪がそよぐ。

 一目惚れだった。僕は、先輩に恋をした。

 と、同時に、先輩の頬が見る見る間に、赤くなっていくのをはっきりと確認した。他人を背景としか思っていないと断言しきる先輩のことだから、実際は恋をしたのか、それともただ単に背景に話し掛けられて驚いたからなのかは、よく解らない。でも、出会ったばかりの僕は、先輩のことなどよくは知らない。だから、勝手に、目の前のこの女性は自分に恋をしたのだと決め付けた。

「教科書、重そうですね。持ちましょうか」

 もちろん、先輩は首を横に振る。

「どうして?」

「まだ、読んでない。から、指紋、つけられたくない」

 先輩は、もう涙目である。本当に、コミュニケーション能力に難ありだ。

「じゃあ、かばんにいれたら、そのかばんを持っていきますよ。これなら、指紋つきませんけど?」

 明らかに、不快な表情をされたが、恋する男は気にしない。

 この時、先輩は、「変な男にまとわりつかれてしまった。だから、春は嫌なんだ」と思ったらしい。春はあまり関係ないような気がするのだが。いや、春になると、変質者が出るというあれか。つまり、僕は背景から変質者へと格上げされたのだった。いくら、自分に対する評価が低いといえども、背景では、恋はできない。そう、僕はあえて、変質者になる必要があったのだ。

 僕は唸る。次なる作戦を思いつかねば。

「そうだ、僕、この春から大学院に進学したんですけど、研究室の場所がわからなくて」

 先輩に睨まれる。そんなわけないだろうと、たしなめられているような心地がする。

「面談、しないと、受験、できない、よね?」

 ずばり、言われてしまった。しかし、ここでひるんでたまるものか。

「研究室の場所、忘れました」

「どこの研究室?」

 多少、違う意味で哀れみを感じたのか、何と、ありがたいことには、先輩のほうから質問してきて下さったのだ!

「法医学教室です」

「法医学」

 何と、何と! 先輩は、法医学に興味があったのだ。法医学教室に通っててよかった!

「法医学、やる人って少ないんだよね。がんばってね」

 仏頂面の中に垣間見える、輝く瞳。先輩、可愛すぎです。

「監察医の適性はあるって解剖実習の時、先生に言われたんだけど。他に、もっとやりたいことがあったから」

「神経内科は、臨床医になるんですか? それとも、研究医?」

「研究医」

 よかった。このコミュニケーション能力で、臨床医では他の医療従事者とも、患者さんとも、気まずいものがあるだろうといらぬ心配までしていたのだった。

「飛び級で、博士号とった」

「天才?」

 先輩の言う、飛び級で博士号をとったというのは、医学部入学当初から研究医を目指している人のためにあり、医学部過程の途中で、大学院の博士課程に行き、早くから研究に慣れるという目的がある。また、博士号を取得後、残りの医学部過程を修了すれば、医師免をとるための受験資格も与えられる。

「本当にすごいですね。頭、いいんですね」

 にわかに頬に衝撃が走る。道行く学生連中も思わず、視線を自分たちに集中させる。

「何故、僕は殴られたのでしょうか?」

「うるさい、から」

「照れ屋さんなんですね」

 我慢の限界だと思しき先輩は、二発目の平手打ちを封印し、さっさと行ってしまった。

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