夜中の異常者
午後10時20分過ぎ。
バイトを終えた僕は、家路についていた。住んでいるアパートは最寄りの駅を挟んで、バイト先がある繁華街とは反対側の住宅地にある。大学進学を機にこの地に引っ越してきて、2年ちょっと。最近では、生まれ育った地元と同様に愛着が湧いてきた。
途中で少しトイレに行きたくなったので、近くの公園に駆け込んだ。
用を済ませて公衆トイレから出てくると、どこからか呻き声に似た何かが聞こえてきた。防衛本能からか、耳を澄ませて音の出どころを探してしまう。
「あ゛ぁ゛…」
どうやら、すべり台の近くから聞こえてくる。
「う゛~、う゛~」
(獣?)
直感的に誰かが苦しんでいる声だろうと分かったけど、明らかに普通の人間のものではなかった。
(生死に関わるほどの重症だったら、目覚めが悪い…)
あまり関わりたくなかったけど、近くまで行って様子を見ることにした。
「う゛う゛…、う゛う゛……」
(お、男のひと?)
すべり台の近くで、男はうずくまっていた。
「あ…、あの、大丈夫ですか?」
僕の声に反応したのか、僕のほうに顔を向けた。
「っ⁉︎」
獣が威嚇するかのように、敵意に満ちた鋭い眼光が僕を捉えていた。
(この人、普通じゃない⁉︎)
「う゛っ」
頭の中で『その場から逃げる』という選択肢が生じる前に、胸に強い衝撃を感じた。男が僕に向かって突っ込んできたのだ。
「こ゛ろ゛す゛…。こ゛ろ゛し゛て゛やる゛……」
(酔っ払い……?)
ふと男の足元を見ると、注射器のような物が落ちていた。
(薬物乱用者⁉︎)
どうやら男が錯乱状態にあったのは、違法薬物によるものらしい。
「うっ!」
突き飛ばされて背中が地面と接している僕の上に男が乗り掛かってきた。
「がぁ‼︎」
錯乱状態とも思える男が僕に向かって拳を何度もくり出してくる。僕は必死になってガードするが、男は意味不明な言葉を口にしながら殴ってくる。このままでは殴り殺されると思った僕は、なんとかして男の腕を掴むことができた。けれども、動きを止めることで精一杯な僕には、男を振り払って逃げる余裕なんてなかった。
(誰か……)
火事場の馬鹿力といっても普段から運動をそんなにしていない僕の体力では、すぐに限界が来てしまう。なけなしの腕力で男から身を守りつつ、誰かが助けてくれることを必死に願った。しかし、
「ら゛ぁ゛‼︎」
虚しくも僕の腕は振り解かれ、両手が自由になった男は立ち上がり、僕の顔面を踏み潰そうとしてきた。その一連の動きがスロー映像かのように僕の瞳に写ると、
(あ…、これ死んだ……)
ドゴッ。
「………え?」
気付くと、暴走していた男は顔に手を当てて痛みに悶えながら、地面に転がっていた。そして、さっきまで男が立っていた場所には、上下黒のスーツに黒い布マスクを身につけた人物が立っている。どうやら彼が、あの男の顔面に蹴りを入れたらしい。
「危ないところでしたね」
成人男性を蹴り飛ばしたというのに、彼のスーツは一切乱れていない。
「立てますか?」
爽やかな笑顔で彼は僕に手を差し伸べてきた。
「ど、どうも」
(格闘技の経験者…?)
なんとか立ち上がれた僕は、地面に倒れて動かなくなった男に目をやった。
(死んでない…よね?)
「安心してください。気を失っているだけです」
そう言って彼は、僕を助けるときに放り投げたであろう自身の鞄を拾い上げた。
(町医者が往診のときに使っていそうな鞄だな…。医師?)
「あ、あの。ありがとうございました。助けていただいて……」
「いえいえ。お薬をお届けした帰りに、たまたま近くを通りかかっただけですから」
彼は軽く笑いながら、スーツのポケットからスマートフォンを取り出し、
「警察には上手く説明しておきますので、ここは私に任せてお帰りになられてください。もう遅い時間帯ですので」
「えっ…。一応、目撃証言とかで残っていたほうがいいんじゃ……」
スマートフォンを操作しながら彼は話を続ける。
「あの中毒者。今はああやって気絶していますが、またすぐに暴れ出すかもしれません。それに…」
「ん?」
「ときには面倒なことから距離をとることも、世の中を賢く生きるために必要なんですよ」
そう言って僕の肩を軽く叩き、公園の出入り口を指差す。早く帰るようにと促されたので、再度彼にお礼を言って僕はアパートに帰ることにした。
帰宅後、シャワーを浴び終えた僕はスマートフォンをいじろうとショルダーバッグを手に取った。
「ん?」
バッグの中に見慣れない遮光性の小さな瓶と手紙が1通入っていることに気付く。
「何これ?」
気になった僕は、テーブルの上に瓶を置いて手紙を読んでみることにした。
『こんばんは。先ほど、公園でお会いした者でございます。この手紙を読んでいらっしゃるということは、無事にご自宅に帰られたようですね。鞄と一緒に忍び込ませた物は、私が作ったオリジナルのアロマオイルで“
瓶のフタを開けると、柑橘系に似たような香りが部屋中に拡がった。
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