第10話 真矢のただいま。

「ただいまー」


 そう、玄関から聞こえてきた元気の声は午後九時を過ぎていた。

 明日の朝が速い真弓さんは既に寝床に入っており、リビングには僕しかいない。


「今日も疲れたー。

 リハーサルに本番! 撮り直しも一回あったし……はあ……」


 っと一人ごとのように言うので、


「お疲れ様、真矢ちゃん」


 リビングルームに入って来た彼女になるべく優し気な口調で声を掛けてあげる。


「和樹さん、不意打ち~♡」

「真弓さんは仕事中だからね、僕が待っていてあげないとダメかなと」

「うーん、嬉しい♡」


 っと、ソファーに座った僕に後ろから抱き着いてくる真矢ちゃん。


「ちょっと抱き着くのは勘弁してくれ」

「えー、なんでー?」


 ニヤニヤと笑みを浮かべられるので、正直に言ってやることにする。


「そのね、温かくて柔らかいモノがね、刺激的過ぎるんだよ……それに、柑橘系を思わせる香りも……」

「柑橘? 今、何もつけて無いんだけどなー」


 自分の匂いをクンクンと嗅ぐ真矢ちゃん。


「汗臭い?」

「そんなことないと思うよ?」

「うーん?」


 二人で悩むが答えは出ない。


「それはさておき、和樹さん。和樹さんはホントに嬉しい事してくれるね?」

「は?」


 ちょっと言っていることが意味不明だったので、素で返してしまう。


「おかえりって言ってくれたり、お疲れ様って言ってくれたりしてくれた人は、お母さんを除くと和樹さんがこの家では初めてなんだよ! 初体験!

 お母さんですら最近はおかえりなさいを言ってくれない!」

「ああ……成程。

 他の男にとって真矢ちゃんは邪魔だろう。

 真弓さんもそう言う言葉を掛けてあげるのは難しかったのかな?」

「そう! そうなのよ!

 だから、私は今までの男共は大っ嫌い。

 でも、今、和樹さんは一つ真矢ポイントゲット、すんごく嬉しい♡」

 

 っといいながら、ソファーの前にポジションチェンジ。

 僕の膝の上に乗るように、彼女は僕の首に両腕を絡めてくる。

 僕の胸元に胸が当たる……! リビドーが!


「やっぱり和樹さん、私と結婚してよ」

「それは……ノーコメントで」


 はっきり言い切れないのは男というモノで申し訳ないと思う。

 今日、一日の付き合いで真弓さんの可愛い所がもっと知れた。しかしながら、真矢ちゃんとはコミュニケーションが圧倒的に不足している。

 正直、僕は可愛い真弓さんに傾いているというのが現状だ。

 それでも真矢ちゃんに判断を下せずにいるのは、優柔不断だと思う。

 それこそ、


「保険みたいに考えて、回答を伸ばすのは全然有りだよ。

 私は全然、早い回答を求めていない。

 むしろ、ゆっくりした方が真矢には有利になるって思ってる」


 僕の心を読んだような言葉が突き刺さり、口がバッテンになってしまう。

 僕、というか男のゲスさが理解されているようで少し意地悪したくなってしまい、


「真矢ちゃんは僕のこと、恩義に感じているだけでしょ?

 だったらそれは好きにならないんじゃないかな」


 真矢ちゃんの感情を否定したのだ。

 真矢ちゃんはちっちっちと人差し指を振りながら、


「そうでもないよ。

 ううん、むしろ逆。

 私を私にしてくれた貴方には私を好きにしていい権利があるの」


 無茶苦茶なことを言われるが、好きにしていいよと耳元で囁かれると心の悪魔が動き出しそうになるのでムリヤリ抑えつつ、


「それは、恋や愛じゃないよね?」

「結婚に、恋や愛は必要なの?

 後に育めばいいとも考えるのが今の普通じゃないの?」


 いわれ、確かにと納得してしまう自分が居る。

 それもそのはず、


「自分自身、お見合いしたからそれは良く判る。

 正しい、確かに君の言う事は正しい」


 納得させられてしまった。

 そうしてしまうと、今度は前から真矢ちゃんが抱き着いてきて、


「それに私は好きだよ、和樹さんの事。

 間違いなく。

 ライクかラブかはさておきだけどね?

 でも、これをラブにすることは出来るんだよ」


 っと、まるで中学生が啄ばむような軽いキスをしてきた。


「ほらね?

 私は嫌悪感どころか、嬉しい気持ちが沸いている。

 もっとしたいとも思うし、ディープなのもしたいって考えてる。

 これは恋? それとも愛? それとも?」

「わからない、僕は経験不足だ」


 正直に応えておくことにする。

 僕はそこまで人生の酸いも甘いも噛みしめたことが無い。

 職場と家を往復するマシーンとなって九年は立つ。


「そこで正直な所が好きだよ。

 よくいるもん。

 気持ちを二択で迫ってきて、好き嫌いで、嫌いなら好きってことだよねって迫ってくるジェイタレとか、もう大嫌い! そういうの!

 私の気持ちはどこにあるっての!」


 っと、僕でも知っているようなタレント名を上げては罵詈雑言を吐いていく真弓ちゃん。

 芸能界も何らかしらあるらしく鬱憤が溜まっているらしい。

 大変だなぁ、っと他人事ながら感じてしまう。


「でも、ダメだよ、真矢ちゃん。

 他人の事を悪く言ったら、自分に返ってくることもあるし、そういうことをいう人物だって思われたら評判が悪くなっちゃうし、仕事も無くなっちゃうかもよ?」

「大丈夫だよ、和樹さん」


 だってと、真矢ちゃんは僕から離れながら、ニシシと悪戯っ子のような笑みを浮かべて、


「和樹さんにしか言わないもん」

「んー、信頼があると考えると有難う。

 けれども僕が悪口キライとか思わないんだ?」

「会社で総務や労務をやってるんでしょ?

 だったら聞きなれてるって考えたから、違ったらごめんなさい。

 やめておくよん」


 真矢ちゃんがニシシと意地悪く笑みを浮かべてくるので、万歳で降参のポーズを取る。


「いいや、ご慧眼。

 僕は悪口の吐口としてよく使われてる。

 社長にも、社員にも。

 だから、誰かしら誰であっても不満を持たない人間なんていないと考えているよ。

 それにそういうのが無い人は人間らしくない、そうも考えてる。

 悪口を言ってくれる、そういう人間関係が出来ているのだと、嬉しく思えるよ」


 途中、会社のメンツを思い出しながらだ。

 社長からの悪口だけは、ちょっとと思う。

 何故ならば、個人への攻撃の言葉が多く、その対象が退職することが多いからだ。

 さておき、長くなっちゃったかなっと、言葉を終えてから真矢ちゃんを観ると、


「やっぱり、大人だなー、和樹さん。

 大人って言うか、包容力があるよ。

 私、好きなタイプ」


 顔を赤らめて、こっちを見てきた。

 そして、僕の両ひざを両手で抑え、屈みこむようにし、僕の左耳に、


「やっぱり好きになってるよ、私、和樹さんの事」


 そう囁いてくれた。


「……ありがとうと言うべきかな?」

「私が勝手にやってることだから、ありがとうは違うんじゃないかなぁ……。

 ほらハグして、早く早く」


 座っている僕のことを脇下からホールドしてくるので、仕方ないと、僕も彼女を包み込むようにホールドしてあげる。


「……和樹さん? 真矢ちゃん?」


 そんな所を真弓さんに見られた。

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