3 異常行動

「喉が……渇、く……」


 よろよろと立ち上がった一体が、口元を押さえながら苦し気な声を上げた。

 皆にはそれぞれ同じ量の水が配られている。

 けれどその個体は受け取った水を全て飲み干しただけでは足りなかったようで、すぐ近くにいた一体が半分ほど飲み残した水を差し出した。


「これを」

「ありが、と……うぅう」


 受け取るものの上手くパックの蓋を開けられないらしい。指先が痙攣している。そのままへたり込み、両手を冷たい床につけて体を支えた。蓋を開けられないままのパックが、力無く投げ出される。

 嫌な予感がする。

 ざわつくクローン体に気づいたのか、監視官たちが声を上げた。


「そこ、何をしている」

「429番の……喉が渇くと」


 パックを渡した一体が顔を上げ、答えた。

 けれど監視官たちは先程の検査機器と、膝をついたまま呻く429番を見比べて言った。


「そいつはもうダメだ。破棄してこい」

「でも……水があれば……」

「欠陥品に余計な資源を出せるか。焼却炉に運――」


 監視官の言葉の途中で、喉の渇きを訴えていた429番が突然絶叫を上げた。

 瞳の色が赤く輝き、荒い呼吸を繰り返す。僧帽筋そうぼうきんの辺りが異様に盛り上がり、表情が人のそれには見えない程、醜悪な物へと変化していく。

 噂に聞いていた異常行動。アンデット病の症状だ。

 周囲のクローンたちが輪の形で避ける。

 ガフガフと荒い呼吸を繰り返す429番の変貌を前にして、どう対処していいのか分からない。僕も……遠巻きに見つめながら、思考が停止したように動けないでいた。叫びに合わせ、空洞の大気まで恐怖に震える。

 その時、監視官の引きつったような命令が響き渡った。


「何をしている! 早く処分しろ!」

「処分って……」


 誰ともなく声が漏れた。

 ここでいう処分にあたる対応は、「行動不能にして焼却炉で焼くこと」だ。けれどとてつもなく頑丈に造られた僕らを行動不能にさせるのは、容易ではない。

 429番の近くにいた一体が、戸惑うように声をかけた。


「起きて歩けるか? お前は……処分されることになった。僕が付き添うから。焼却炉まで行こう」


 答えは無い。ただガリガリと鉄の床を爪で掻くだけだ。自身の肉を削り欠片に砕き、そうすることで命令に従おうとするかのように。

 僕らは自害防止の強制学習を受けているから、どれほど苦しい状態に置かれても、直接刃物で切り付けるような「自殺する」という選択肢を選べないように造られている。

 居合わせた皆が顔を見合わせた。

 ……誰かが、殺さなくてはならない。


「監視官……彼を、殺してください」


 戸惑う一体が防護服の人間を見上げる。

 監視官ならばクローンを機能停止にする権限がある。万が一の場合に備え、武器も所持しているだろう。それで幾度か打撃を与えれば、頑丈なクローンでも殺すことができるはずだ。

 そう思い乞うように声を上げたが、居合わせた監視官は口々に拒絶した。


「そんな狂暴な奴に近付けるか! お前たちで停止させろ。それができなければ、突き落とせばいいだろう!」


 突き落とす。僕は暗い階下を見下ろした。

 今日のチェックポイントは、階段途中にある少し広めのスペースだ。周囲は手すりで囲っただけで、広大な空洞を見渡せる場所にある。見上げれば、ぼんやりと明るい上層がどこまでも続き、手すりから下は果てが見えない程暗く、遠い。

 落とせば……ただでは済まないだろうが、確実に死ねるとも限らない。

 配管や手すり、迫り出した床や階段に当たれば、四肢の一部を失ったまま長時間苦しむのは目に見えている。第一、落とした個体を見つけ出せるかどうかも分からない。


 そうこうしている内に、429番の変容はさらに進んでいった。

 膨れ上がる筋肉。血管は赤黒く、白い肌に醜い網の目を浮き上がらせる。

 浅く速い呼吸と、したたり落ちる唾液。赤く、赤く、輝く瞳。

 掠れた声。


「がぁぁあ……あ、あ……喉が、焼ける」


 ぶぅん、と空を裂くように429番の腕が振り回された。

 避けるように、クローンたちの輪が崩れる。そのまま、二度、三度。振り回す腕をよけながら、誰もが、最初の手を出せずにいる。ほんの数分前まで隣で食事をしていただけの同種に、損傷を加えることができない。

 自害ができないように、他を害することも制限されているのだから。


「何をやっている! 早く殺せ! 命令だ!」


 監視官の引きつった声が響き渡る。クローンたちが戸惑っている間に429番の症状は更に進み、ついに逃げ遅れた一体の腕を掴んだ。と同時に、首筋に喰らいつく。

 喉に張り付く悲鳴と、血の匂い。

 瞳と同じ、赤い鮮血が床を濡らす。

 それを合図に、僕の側の966番が保全工具を手に強く握り、声を上げながら429番に襲い掛かっていった。スイッチが入ったかのように、何体かのクローンが続く。

 首を喰われた一体は他のクローン体の手で助け出され、フロアの端、僕の側まで運ばれた。


 喰われた傷口からの出血が止まらない。唇は蒼白で、恐怖に見開かれた瞳が痙攣するように揺らめいている。

 僕は少し離れた場所で立ち尽くしていた監視官に声を上げた。


「手当てを、今なら助かる!」


 だが、返る言葉は冷ややかなものだった。


「冗談じゃない」

「ったく……今日だけで、何体潰さなきゃならないんだ」


 人には、温かな魂が格納されているはずだ。

 魂があるから、人は感情豊かで素晴らしい人格を備え、尊いのだと。その人間たちが言う。「そいつも処分だ」と。


 首を喰われたクローン体の左手首には、K―EN3205N―982と刻印されていた。僕と同じ工場で生まれた、僕の弟だ。

 僕と同じ造形の弟が、助けを求めるように見上げ唇を震わせる。

 このままでは呼吸もままならない状態で、長く苦しまなければならない。人間が「処分だ」と言ったなら、僕らは活動を停止させなけれはならない存在なのだから。


 僕らに生きる道は無い。


 生きる? いや……そもそも、有機的な構造をしているというだけで、生物と認められているわけではない。生き物ではない――なら、僕らはいったい何だろう……。

 物言わぬ機械と人との中間の、ひどく……不自然な存在。魂も無く、命じられたままに動く人形ひとがた。アンデッドと言われる姿が、僕らの本来の形なのだとしたら。


 僕は982番の首を包むように握り、力を込めた。


 冷たく骨ばった首筋。両手は、瞬く間に赤く濡れていく。生きている者の脈動がある。982番の引きつった指が、絞める手の甲を引っ掻く。

 それでもここで力を緩めるわけにはいかない。

 できるだけ早く。

 できるだけ苦しまず。

 確実に機能を停止できるように。

 先に生まれた者は若い者たちをサポートするのだと言っていた966番の言葉を思い出しながら、僕は腕の筋が痛むほどに力をこめ続けた。





 どれほどの時間が経ったのだろう。気がつけば背後で聞こえていた叫びや喚き声は消え、空洞を抜ける風だけが冷たい床を震わせていた。


「973番」


 呼ばれながら軽く肩を叩かれてはじめて、僕はぎこちなく顔を上げた。そこには血濡れた966番が、静かに見下ろしていた。


「そいつ……最初に喰われた奴か?」


 982番は息絶えていた。油の切れた機械のように両手を離す。

 とさり、と砂を詰めた袋を思わせるように、骨ばった体は力なく崩れた。薄く瞼を閉じたその顔は、午後の微睡まどろみの中にいるようだ。


「処分するように……言われた」

「そうか」


 手を離しても、僕の指は細い首を絞めた形で強張ったままだった。

 青白い指先には、赤黒い血が塊となってこびりついている。乾き、砕けてぱりぱりとこぼれるそれは、982番の思いが形になったもののように見えた。僕の指にしがみ付いて、それでも力無く落ちていく。

 生きたかったのか、もっと早く殺して欲しかったのか。それとも他に願いがあったのか。これといった言葉を交わしたことはない僕には、分からない。


「ありがとうな」


 966番が囁く。


「こいつは……お前のおかげで、死ぬことができた」


 そう言って982番を担ぎ上げ、アンデット化した、元が何であったのか判別できなくなったモノを担ぐクローンと共に、フロアの階段を下りていた。

 残った者たちは、監視官の号令で午後の作業を開始した。



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