3 ギメルリング

「つまり――昨日、君がこちらに持ち込んだ物は、元はその、ひとり暮らしだった故人の持ち物ということか」

 私がひと通りの説明を終えると、アンティークショップの店主、梓はそう言って確認した。私が頷くと、彼女は考え込むようにしてこう呟く。

「状況を整理しよう」

 場所は店の奥にあるカウンター。梓は定位置らしいその場所にいて、私はどこからともなくもたらされた――おそらく売り物の――椅子に、彼女と向き合う位置で座っていた。

「まず、君の自宅の前に置かれたダンボール箱だが。わざわざ君の元へ寄越した相手の、心当たりはあるのか?」

 私は気乗りしないながらも、自分の考えを述べる。

「考えられるとすれば千鳥の親族かな、と」

 というより、現実的に考えるならそれしかない。

 人形も含めて、あれらは千鳥の遺品だった。ならば、それを持ち出せる者は限られるだろう。

「なるほど。しかし、そうされるだけの理由はあるのか?」

 私は首を横に振った。

「わからない。千鳥の親族なんて、父親しか会ってないし、千鳥とはあまり仲は良くなさそう、とは思ったけど――これはただの私の印象。だから、本当は心底、私のことを怒っていた……逆怨みしていたのかもしれない」

 それに、父親以外の親族がどうだったかもわからない。葬式に呼ばれなかったのも、私に対する印象が悪かったせいかもしれない。

「逆恨み……それで盗聴器、か?」

 梓はそう呟く。どうもその考えには納得し難いようだ。

 彼女は私のことをちらりと見やると、こう尋ねた。

「確認するが、君に何か具体的な被害があったわけではないな?」

 私は考える。しかし、ダンボール箱が置かれていたこと以外、身の回りで変わったことはない。周囲であやしい人影を見た、ということもなかった。

 そもそも、あの箱を見つけてすぐ、私は地元の寺へ向かっている。そこからこの店へ来たのだから、人形が手元にあった時間はごくわずかだ。盗聴に関しても、ほとんど実害はなかったことになるだろう。

「すぐにここに持ち込んだから……少なくとも、今のところは何も。でも、その箱を誰かが置き去ったってことは、それは私の家を知っている人物ってことでしょうね」

「その親族というのは、どうだ? 知っているのか? 君の住まいを」

「念のため、連絡先を教えてる」

 だからこそ、千鳥の親族なら、そうしようと思えばできただろう。遺品が処分されるところまで、私は見届けてはいないのだから。

 ただ、わざわざ私のところに箱を持って来たことが、そうした嫌がらせなのだとすると――それが私にとって嫌がらせになり得ることを、相手は知っていなければならないことになる。生前の千鳥から話を聞いていたのだろうか。

 私が考え込んでいるうちに、梓は次の話に移った。

「では次に、殺人現場にドールが戻って来た、という件だが」

 ダンボール箱の件は棚上げにして、私はとりあえず、そちらの話に集中した。

「まず、ドールが処分されていた、という前提は確かだろうか?」

 私は当時の状況をできるだけ正確に思い出そうと試みた。千鳥が人形を処分すると口にしたことは間違いないが、それでもあの人形が本当に処分されたという確証はない。私はありのままを答える。

「本人がそう言っていたけど、それだけ。千鳥の発言を信じた上での、私の思い込みであることは否定できない」

 梓は俯き、ふむと呟いた。

「では、ドールはたまたま殺人現場にあっただけかもしれないわけだ」

 たまたまという割には、これ見よがしに遺体の近くにあった気もするが。可能性としては、なくはないだろう。

 梓はそこでしばし考え込んでから、思いがけないことを口にした。

「逆に、この時点で例の箱は部屋にあったのか?」

 箱というとダンボール箱とその他の物のことだろう。

「それは――あったでしょう」

 あった、という前提で、それを持ち出せるのは千鳥の親族しかいない、という話をしたばかりだ。とはいえ。

「確証は……ないけど」

「例えば、だ。君の知人は事件の前に、それを誰かに預けていたのかもしれない。あるいは、殺人の際に持ち去られた。これなら、箱を置いたのは親族以外という可能性もある」

 そう、なのだろうか。

 確かに、部屋をシェアしていると言っても個室はあったし、お互いのプライベートは詮索しないことになっていた。私は千鳥の部屋に入ったこともない。あの人形が実は処分されていなかったという展開があり得るなら、箱の方がすでになかったということもあり得る、のかもしれなかった。

 私はなぜ、あの箱とその他の物が、あの部屋にまだあると思っていたのだろう。

 それは、千鳥が売却に手間取っている気配があったからだ。しかし、それについても、そういう雰囲気から私が勝手に推測しただけで、千鳥があれらを部屋に持ち込んで以降、私はそのダンボール箱を――現物を見てはいなかった。事件の後も当然。しかし。

「待って。それじゃあ、逆に人形はどうなるの」

 箱と人形は合わせて私のところに届けられている。そして、人形は間違いなく殺人現場にあった。

 その事実を前にしても、梓は涼しげにこう言う。

「ドールは量産品だ。同じ顔のドールで、違う個体があったとして、君に見分けがつくか?」

 殺人現場にあった人形と、その後に私の元へ届けられた人形が別物――と言われても、私はいまいち腑に落ちなかった。とはいえ、同じような人形を並べられて、私に区別がつくとも思えない。とはいえ。

「だとしても、何のために……そんなことまでして、私のところに、わざわざそれを持って来たっていうの?」

 その問いかけに、梓は軽く肩を竦めた。

「意図はともかく、今は可能か不可能かの話をしているつもりだが。まあ、考えられるのは――そうだな。その箱を持っていた犯人が、君のところにそれを届けたのだとして」

 梓の発言に、私はぎょっとする。あの箱を置いたのが、殺人犯かもしれないと言うのか。

「その犯人は、君がどの程度、知人の交遊関係を把握していたのか知らなかったのかもしれない。そうなると君は、それを証言し得る危険な人物、ということになる。環視の対象たり得るだろう?」

 それゆえの盗聴器だ、と。これ見よがしに人形を置いたのも、千鳥の死の原因が人形のせいだと思わせたかった、ということだろうか。

 私は思わず顔をしかめた。そして、考え込む。

 あのダンボール箱が最後まで部屋にあったなら、それは事件後にも部屋を訪れることができた人物――千鳥の親族が持ち出した可能性は高い。しかし、実はすでにその箱がなかった、あるいは事件の際に持ち去られたのだとすれば、千鳥を殺した犯人の可能性もある、と。

「まあ、実際のところ、君の回りで起こったことは、全く説明がつかない、というわけではないな。少なくとも、怪異だとは断定できない。現にドールには盗聴器が仕掛けられていたし、実際にドールが動き回った現場を見たわけでもないのだろう? 奇妙なことは、何ひとつ起こっていないな」

 盗聴器は奇妙なこと、ではないのだろうか。話を聞いていると、この店主はどうにも、怪奇現象でなければそれでいいと思っていそうな節がある。むしろ、殺人犯が関わっている方が、より深刻な気もするのだが。

「次にこの、故人が残した日記帳だが――」

 梓はそう言って、さっさと話を切り替えた。仕方がないので、私もそちらに合わせていく。

 私は自分の手帳を開くと、そこにある情報を読み上げた。

「故人の名は、山内やまうちかごめ。享年七十四。一軒家で長らくひとり暮らし。特に重い病を患っていたわけでもない。死因はおそらく心臓発作による突然死」

 梓は軽く目を見開く。

「ずいぶんと詳しいな」

「取材をするつもりだったもの」

 私は続ける。

「直接の死因はともかく、孤独死ということで近所では少しだけ話題にはなってた。社会との繋がりもほとんどないから、孤立死と言っていいかもしれないけど。でもまあ一応、近所に知り合いはいたみたいだし」

 知り合いというか、関係性もわからないような謎の人物だが。

 その人物――やえさんは日記を読む限り、気軽に相談できる程度には彼女の身近にいたようだ。ただ、今のところはそれくらいしかわかっていない。

 しかし、梓が疑問に思ったのは、そのことではなかった。

「孤独死と孤立死は違うのか?」

 彼女の問いに、私はこう答える。

「ちょっと定義が曖昧なところもあるけど……孤独死は家族がいるか、あるいは社会との繋がりはあっても、ひとり暮らしとかで亡くなった場合も含んでいて、孤立死は家族もおらず、社会との繋がりもない――と、そんな違いかな」

 梓は感心したように、なるほど、と頷く。

 彼女はカウンターの上に置かれている日記帳に手を伸ばすと、何気なくぱらぱらとページをめくり始めた。

「とにかく――この日記には、ドールが動く、と記されてはいるが、その場面を目にしたというわけではないようだ。こうなるとその現象もまた、何らかの事情で第三者が介入した可能性はあるだろう」

 梓はそこで日記帳からは手を離す。

「とはいえ、今起こっていることと、過去に起こったことの犯人が同じだという可能性は低いだろう。断定はできないが、日記帳に、捨てたドールが戻って来た、と書かれているのは――この日付が正しいなら十年以上も前だ」

 そもそもの話。私と千鳥と、それから日記を記した人物とは接点などほとんどない。共通しているのは――経緯はどうあれ――人形やいくつかの他の物を所持していた、ということ。それくらいだ。

「十年前のそれも、誰かが盗聴器を仕掛けるためだったってことでいいの? 人形には細工があったんでしょう? でも――そうか。このときの人形と、今ある人形が同一の物とは限らないんだっけ」

 私は段々と混乱してきた。この店主が、実は同じような人形が二つあったかもしれない、などと言うものだから。

 実際のところ、あの人形と同じ物は容易に手に入れることができるのだろうか。アンティークドールは物によっては高値で取り引きされている、という話だったが。その辺りの事情が、私にはよくわからない。

 しかし、もしも本当にその人形が二つあったのだとすれば――今はもうここにはない、日記に書かれている方の人形は、やはりひとりでに動き出し、捨てても帰ってくる本物の呪われた人形だったかもしれない――

 と、思ったのだが。そのときふと、私は日記の内容を思い出した。


 ――人形を手放すことにした。

 動く理由はやえさんにもわからない。


 やえさん――怪異の対処法を知っているらしい助言者にも、その原因はわからなかった。つまり、動く人形は怪奇現象ではなかった、ということではないだろうか。だとすればやはり、誰かがそれを動かしていたということになる。

 そう思って、私はこう問いかけた。

「でも、仮に殺人現場にあった人形に盗聴器が仕掛けられていたなら、さすがに警察が気づいていたでしょう?」

 梓は軽く首を傾げている。

「それは、殺人現場にあった段階で人形には盗聴器が仕掛けられていた、という前提で言っているのか? それとも、過去の物が気づかれず残っていた、と? 少なくとも、その――」

 梓はそこで、カウンターの上に転がっている盗聴器に嫌悪の視線を向ける。

「盗聴器については、殺人事件の後に仕掛けられた物だと思うが。機種からしても、十年前に仕掛けられたことはあり得ない。過去の人形に関する騒動については、盗聴器が仕掛けられていたかどうかも合わせて、どう解決したのかもわからないな。ちょうど騒ぎ以降に書かれた日記帳の何冊かが抜けているようだ」

 彼女の言うとおり、日記帳は全ての日付がそろっているわけではない。そして、少しずつ読み進めてはいるのだが、結構な量なので全部を読めてもいなかった。

 そもそも、十年前にも盗聴器が仕掛けられていたとして、それこそ何のためにそうしたというのだろう。監視? 嫌がらせ?

 何もかも、不確定なことだらけだ。梓もそう思ったのか、軽くため息をつく。

「まあ、この人物については、わからないことが多すぎる。情報は日記だけ。それも、どの程度信用できるかわからないからな」

 私たちはしばらく積み重ねられた日記帳を無言で見つめていた。そこで私は、一枚だけ混じっている青い付箋の存在を思い出す。

「そういえば、指輪のことだけど」

 私はその日記帳を手にとって、青い付箋の挟まれた該当のページを開けた。同時に、鞄から例のひしゃげた指輪を取り出す。これだけは大した荷物にならないだろうと思って、持って来たのだ。

 日記にはこうある。


 ――やえさんは言っていた。

 指輪は決して指にはめてはいけないと。

 強い思いが残っているから。


 梓はそれを読んだ後、はっきりとこう言った。

「物は物だ。そこに思いが残るなどという考えは感傷だ。感傷は当人にとっては真実だろうが、他人とっては何の意味もない」

 しかし、彼女はそこで顔をしかめると、珍しくその先を言い淀んだ。

「ない、が――」

 梓が右手を差し出すので、私はそのひしゃげた指輪を彼女の手のひらに乗せた。梓はそれを、じっと観察し始める。

 指輪は一部が千切れており、もはやそれは輪ではない。金属部分には細かな彫刻があり、宝石を据えるための七つの台座が一列に並んでいた。しかし、宝石は外れてしまったのか二か所ほど無くなっている。赤黒い汚れが何なのかは、わからない。

 梓はその指輪を眺めながら、こう言った。

「このリングについては、私も少し気になっていた。私自身、勘は悪くない方だと思っている。ただ、それが正しいかどうか、大抵は確認できないのだが」

「何それ」

 どういうことだろう。私が首を傾げていると、梓は何かを思いついたように、突然席を立った。

「少し待ってくれ。確認する」

 そう言い残すと、梓はカウンターの奥に消えてしまった。それから聞こえてきたのは――電話でもかけているのだろうか――誰かに向けたような声だ。

「久しぶりだな。実は、君の連れ合いに尋ねたいことがあってね。ああ。もちろん――石のことだ」

 しばらく話をしていたようだが、その声はいつの間にか止んでいた。梓は少し間を置いてから顔を出したかと思うと、唐突にこう告げる。

「これから石の専門家に聞きに行く。京都へ」

 私は思わず怪訝な顔をした。

「なんで京都?」

「単に知り合いの店があるというだけだ。彼なら怪異にも詳しい」

 石と怪異? どんな取り合わせだ。

 私の訝しげな表情など気にすることもなく、梓は例のひしゃげた指輪を示した。

「とにかく、リングを見てもらおうと思うのだが。これを一旦、私に預けてもらえるだろうか。あるいは、ついて来てもらっても、かまわないが?」

 梓は本当に今からそこへ向かうつもりらしい。事情はよくわからないが、ここまで来れば乗りかかった船だ。

「私も行く」

 考えた末に、私は彼女にそう答えた。



「ここが知り合いの店?」

 梓と共に訪れたのは、京都の東にある町屋ばかりが並んだ静かな通りだった。どうやら、その中にあるひとつが目的の場所のようだ。

 観光地にも近いが、意外なほどに人通りは少ない。周囲を見ても何の看板も掲げられていない建物ばかりで、当然その町屋も同じだった。

 本当に店なのだろうか。あまりにも店らしくないので、同行者がいなければ、私はおそらく入ることもためらっただろう。

 怪訝な顔をしていたからか、梓は私にこう言った。

「友人の連れ合いがやっている――当の友人の方は不在らしいが。大丈夫だ。話は通っている」

 梓は何のためらいもなく、目の前の格子戸を開けた。

 その先には、真っ直ぐに土間の通路が続いている。左手にある――おそらく町屋の店に当たるだろう部分は、板戸で閉め切られているようだ。誰かが出てくる気配はない。

 入り口に立ち尽くす私を置いて、梓は訪いも告げずに、さっさと奥へと行ってしまった。私は仕方なく、それについて行く。

 歩いているうちに不意に通路の壁が途切れると、そこに小さな中庭が現れた。縁側に面していて、その向こうには座敷が見える。

「――ああ。申し訳ございません。お出迎えもせず」

 奥の方から声がした。私の視線は自然とそちらに向かう。

 そこに立っていたのは、年の頃三十くらいの着流しの男性だ。梓は彼の元まで歩み寄ると、こう言った。

「いや。かまわない。こちらこそ、突然の訪問で申し訳ない」

「話は聞いていますよ。どうぞ。座敷の方へ」

 奥にある玄関から招き入れられて、梓と私は先ほど目にした座敷へと通された。座卓を挟んで私と梓が並び、その向かいに男性が座る。

音羽おとわえんじゅと申します」

 男性は私に向かってそう名乗ると、隣の梓に向き直った。

「それで、今回のご用件は」

 この男性――音羽が、どうやら梓の言う石の専門家らしい。

 梓は私のことを、同行者だ、とだけ簡単に紹介した。実際のところ、私は単について来ただけなので、その扱い自体には特に不満はない。

 道すがらここがどんな場所なのか、私も一応尋ねはしたのだが――梓は、石のことを聞くだけだ、と言うばかりで、ろくに教えてはもらえなかった。そのため、何のためにここへ来たのかもよくわかっていない。軽く名乗るだけにして、大人しく黙っていることにする。

 挨拶もそこそこに、梓は早々に例の指輪を取り出した。

「こちらのリングなのだが」

 梓はそう言うと、指輪を音羽に差し出した。彼はそれを黙って受け取る。

「知りたいのは、嵌められた石の種類だ。二つほど欠けているが」

 欠けているのは一番端とその反対側の端から二番目。音羽は端の欠けている部分を飛ばして、順に石を見ていった。

「そうですね。オパール、ルビー、エメラルド……」

 音羽はそう呟きながらしばらく指輪を見ていたが、不意に表情を曇らせると顔を上げてこう言った。

「別室で確認致します。少々お待ちいただけますか」

 梓が、かまわない、と答えるのを確かめて、音羽は席を立つ。そして、座敷を出て行ってしまった。

 宝石の目利きのことなどわからないが、場をあらためるくらいだから時間がかかるのかと思ったのだが――それほど待つこともなく、音羽は座敷に戻って来る。再び先ほどの位置に正座して、彼は指輪を示しながらこう言った。

「あらためまして。端の欠けている方から、オパール、ルビー、エメラルド、ガーネット、空きがあって、ルビー……ですね」

 それを聞いて、梓はこう呟く。

「なら、やはり欠けたひとつはエメラルド、か。Fは定石では何だったか……」

「古い指輪で使われていたかはわかりませんが、今ではファイアオパールや長石――フェルドスパーなどでしょうか」

 その会話からして、二人の間には了解した何かがあったようだ。しかし、私には全くわからない。

 音羽はひしゃげた指輪にちらりと視線を向けると、梓の方へと差し出した。しかし、手のひらに置く寸前になって、音羽はどこか不安げな様子で口を開く。

「それと、こちらの品」

 指輪を受け渡す姿勢のまま、二人はお互いに探るような視線を交わした。

「あまり、よくない物のようです」

 その言葉に対して、梓は平然と頷く。

「それはわかっている。いや。予測はしていた、と言うべきか。まあ、それを確かめるためにここへ来たようなものだからな」

 その答えを聞いても、音羽はどこか心配そうな表情だ。彼はさらに、こう提案した。

「うちでお預かりしましょうか」

「いや。心配には及ばない。私の元にあれば、悪さはできないだろう」

 梓がきっぱりと首を横に振るので、音羽は、わかりました、と言うと、素直に指輪を手放した。

 梓は彼に礼を述べ、早々にいとまを告げる。知り合いという話だったが、ずいぶんとあっさりとした会談だ。やはり無愛想というか、何というか。ただ、相手の方も、それは了解済みのようではある。

 音羽は私たちと共に座敷を出ると、表の戸まで見送りに出てきた。

 そのとき不意に、音羽がはっとしたように目を見開く。何かと思えば、頭を下げながらこんなことを言い出した。

「申し訳ございません。お茶もお出しせずに」

 そんなことを気にするのは、今さらな気もする。梓は苦笑した。

「かまわないでくれ。こちらも手土産のひとつも持って来ていないのだから。またあらためて、連絡させてもらう」

「ええ。お伝えしておきましょう」

 音羽は笑みを浮かべると、そう言って頷いた。物腰もそうだが、基本的に穏やかな人物らしい。それだけに、指輪に対する剣呑な表情が気になった。

 ともあれ、わざわざ京都まで赴いた目的については達せられたようだ。

 私たちは惜しむこともなく、その店を後にする。結局、私自身はこの店が何なのかも、何のために訪れたのかも、わからないまま。



 気づけばもう夕刻で、辺りは夕日の赤に染まっていた。

 梓の後を追うようにして、私は商店街を早足で歩いて行く。わかっていたことだが、私に対しては未だに何の説明もない。遠ざかりそうな背中に向かって、私は仕方なくこう問いかけた。

「それで? いったい何がわかったの?」

 梓の歩く速度が、少しだけ遅くなった。どうも、同行者の私のことを忘れていたか、あるいは普段からこんな感じなのかもしれない。

 梓は振り返らずにこう答えた。

「あのリングに嵌まっている宝石の名前、だ」

 そして、その指輪がやはり危険な物であることが――ではないのだろうか。

 しかし、梓はこう続ける。

「こういうことは、専門家に確認するのが一番いい。宝石はあまり得意ではないらしいがね」

 どうやら彼女は、指輪の危険性については言及しないつもりらしい。よくない物。気になることではあるが、とりあえずは話の流れに合わせることにする。

「あなたの店では、宝石は扱わないの?」

「扱わないわけではないが。アンティークならともかく、比較的新しい物については私もまだ自信がない。宝石の鑑別はそれだけで一分野だ。というより、何ごとも私はまだまだ勉強中だからな」

 アンティークショップの店主は、思いがけず殊勝なことを言った。それにしても――

 比較的新しい物。それは、つまり。

「その指輪、アンティークじゃないってこと?」

 百年経ったら、だったか。指輪自体はひしゃげているわ、汚れているわで、古い古くない以前の問題だが。

 梓はこう答える。

「これはおそらく、アクロスティックジュエリーだ」

 残念ながら、それは私が聞いたことのない言葉だった。前を行く梓には私の表情などわからないと思うのだが、何かを察してか、彼女は私の反応を待たずにこう続ける。

「アクロスティックとは折句おりくのことだ。折句とは詩などに用いられる技法で、文章そのものとは別に、意味の異なる言葉などを折り込む。アクロスティックジュエリーの場合は、宝石名の頭文字を並べて、言葉を作る。十九世紀初めのフランスで生まれ、流行した」

「十九世紀フランスなら、アンティークじゃないの」

「いや。その時期に流行したというだけで、現代でもアクロスティックジュエリーは作られている。私の見立てでは、あれはそう古くはない」

 古くはない、と梓は言うが、それはおそらくアンティークに比べて、という意味だろう。あの指輪が、前の持ち主――ゴミ屋敷と呼ばれる家に住んでいた老女のことだ――によって作られた物だとは思われない。それ以前に持ち主がいたとすれば、百年は経たずとも、それなりに時を経ているはずだった。

 考え込んだ私に、梓はこう問いかける。

「あのリングに込められた言葉がわかったか?」

「……もしかして、フォーエバー?」

 思いつきで咄嗟に答えたものだから、何だか間抜けな発音になってしまった。おまけに、すぐに間違いに気づく。

「いや、待って。ガーネットはGか」

 そう思ったのだが、梓は首を横に振る。

「それで合っている。当てはまる宝石名がない場合、別名や色の名前を代わりにすることがある。ガーネットはこの場合、Vermeilヴァーメイル……フランス語で朱色だ」

 あの指輪には意味が込められている。その言葉が、永遠。しかし、それ自体は指輪に込める意味としては、珍しくも何ともない。

「過去の例に倣ったからだろう。作りたい言葉にそれらを当てはめた。しかし、そうしたせいで、ちぐはぐにはなっているが」

 英語とフランス語だからか。当時のフランスで流行ったジュエリーなら当然、込められる言葉も本来ならフランス語なのだろう。

 だとすれば、あの指輪は梓の見立てどおり、その文化を受けて、後の人間が作った物なのかもしれない。とはいえ。

「それで、そのことに何の意味があるっていうの?」

 私がそう尋ねると、梓はしばし黙り込んだ。しばらくはお互いに口を閉ざしたまま、商店街をひたすら歩いて行く。

 次に口を開いたのは、梓の方だった。

「そのこと自体には、問題はない。ただ――」

 間を置いてはいたが、それは一応、私の問いかけに答えたものらしい。しかし、彼女にしては珍しく、その先を自信なさげにこう続ける。

「少し考えさせてくれ」

 まだ何か、気になることがあるのだろうか。

 とはいえ、この店主の考えなど私にわかるはずもない。わざわざ京都までついて来たが、果たして私がここに来る意味はあったのだろうか。

 深くため息をつきながら、私は思い出したように話題を変えた。

「そういえば、あの店もずいぶん変わったところだったけど。石の専門家、だっけ? 石を売っているわけじゃないの?」

 よくよく考えると、あの場では石のひとつも目にしていない。いや、中庭に石灯籠があっただろうか。とはいえ、まさかあれは売り物ではないだろう。

 梓はこう答えた。

「あの店はまあ、どちらかというと好事家向けの店だ。ただ、あの店主は呪者でもある。何でも、石の霊を使役しているらしい」

「は?」

 私は思わずそう声を発してから、言葉を失った。彼女は何を言っているのだろう。本気で意味がわからない。

木内きうち石亭せきていの『雲根志うんこんし』に神社に参拝する石の精の話があるが、あんな感じだろうか。それとも、護法石かな。会ってみたいものだ」

 梓は妙にしみじみとそう言った。冗談だろうか。私はどう返していいかわからない。

 そのうちに、梓はぽつりとこう呟く。

「しかし、彼がああ言うからには、やはりそうなのだろうな……」

 その言葉を最後に、梓は沈黙した。私たちは無言で京都の通りを歩いて行く。そうして何もわからないままに、途中で梓とも別れ、私はそのまま家路についた。



 時刻は夜。しんとした自室で、私は部屋の片隅に置かれたダンボール箱をただ眺めていた。

 梓が言っていたことを思い出す。彼女が言うには、目の前にある箱は千鳥を殺した犯人がもたらした物かもしれない、ということだった。

 怪異と殺人。どちらが本当に恐れるべき相手だろう。いや――どちらもか。私はこの日、帰宅してからというもの、家の周囲や室内を十分に確認し、扉にも窓にもすべて鍵をかけてから、ようやくここに落ち着いていた。

 この家はひとりで暮らすには大きすぎる。目の届かない場所が多いと――やはり怖い。怪異だろうが、現実の殺人犯だろうが、潜んでいるとすれば、そういった場所だろう。

 私はかつて訪れたあのゴミ屋敷を思い浮かべた。物であふれた一軒家。何かを恐れていたから物を集めたのだろうか、それとも、物を集めたから恐ろしいことが起こるようになったのだろうか。

 そのとき、不意に妙な音がした。家のどこからか。しかし、突き詰めてみれば、それは怪奇現象でも何でもないのだろう。それでも、ひとりでいると――ましてや、得体の知れない物がそこにあるかと思うと――どんなささいな物音でも恐ろしく感じてしまう。

 私は机の上にある日記帳を手に取ろうとした。

 これを読み進めなければならない。どうせ他にやることもないのだから。そう思って、時間があればそうしようと思っていた。しかし。

 ふと、そのときは何か別の物が気になった。

 日記帳と一緒に机の上に置かれているのは、端切れで作られたらしい小さなぬいぐるみと、それから漆器の皿。その皿の方に、いつの間にか薄っすらと水がたまっている。そのことに気づいた。

 そういえば、先日は雨が降っていたはず。どこかで雨もりでもしているのだろうか。雨もり。

 何だろう。この光景どこかで。でも、この皿は――

 なぜか日記を読む気になれなくて、私はその代わりに端末を手に取った。しかし、何をすればいいかわからない。何かをしなければならない、と強く思っていることは確かなのだが。

 思いつきから、指輪、とネット上を検索してみる。これであの店主が言い淀んだ理由がわかるはずもなかったが、わからないことだらけの状態で、私はすがるような思いでそうしていた。

 大抵はブランドの広告や販売のページが出てきたが、SNSなどをいくつか試しているうちに、有名な女優の個人的なアカウントが目にとまった。気になったのは、その人がもともと自分の好きな女優だったからだ。

 以前はよく見ていたブログを覗いてみる。彼女の綴る日々の言葉や載せられた画像の数々が、今の自分の目には眩しく映った。しかし、しばらく眺めているうちに辿り着いた一枚の画像に、私の上向いていた気分は一瞬で吹き飛んだ。

 そこに写っていたのは指輪だった。宝石が四つ並んでいて、少し変わった彫刻が施されている。その指輪が、細くしなやかな指にはめられていた。

 私はこれに似た物を、つい先ほど見た気がする――

 例のひしゃげた指輪は梓に預けたままだ。だから、それと比べようにも記憶しか頼りになるものはない。しかし、それでも目の前にある画像のそれは、ひしゃげた指輪のデザインと似ているように思えた。

 画像には、アンティークショップで偶然見つけた指輪であること、変わったデザインで気に入っていることなどが、簡単な文章で添えられている。

 ひしゃげた指輪を初めて見たとき、梓は確か、同じような物がないか、と聞いていた。この画像の指輪がひしゃげた指輪と、例えばペアだとして、片方が別の人物の手にある、ということがあり得るのだろうか。

 どうやら私は、明日もあの店へと赴かなければならないようだ。ため息をつきながら、私は早めの起床のために、ベッドへと潜り込んだ。




「やはりギメルリングだったか」

 私の話を聞くなり、梓はそう言った。

「ギメルリング?」

 私が問い返すと、梓は例のひしゃげた指輪を取り出した。

「ルネサンス期のヨーロッパで生まれたリングだ。ギメルの名はラテン語の双子を意味する言葉に由来する。形状は二つのリングを知恵の輪のように――まあ、これは知恵の輪のようには外れはしないのだが――繋ぎ、重ねて一つの指輪として嵌められるリングだ。当時、結婚指輪として流行した」

 ペアリングではなく、二つで一つの指輪、ということか。しかし、目の前にある指輪はすでに指輪の形をしていない。こちらだけが潰れて、もう一方は無事だったということだろう。

「もう一つの方も、アクロスティックジュエリーなの?」

 私の差し出す端末に映る画像に、梓はあらためて目を向ける。石の部分だけ拡大して、端から順に見ていった。

「そうだな。画像では確信は持てないが。緑の不透明な石がマラカイト、隣はおそらくだがアイオライト……ネフライト、エメラルド」

「foreverとmine ……」

 ――永遠に私のもの。

 これが、元の指輪に込められた言葉。確かに少し偏狭な気はするが、それでも不吉と言うにはまだ遠い。それにしても――

「どうして、指輪が別々のところにあるの?」

 元は一つだった指輪。片方が壊れて別れてしまったとはいえ、そんなメッセージを込めるなら、一緒に所持していそうなものだが。

 梓の考えはこうだった。

「そうだな……もう一方は普通の指輪として売られたが、歪んだ方は破棄したのかもしれない。あるいは、君の知人が無事な方だけ換金した、といったところだろう」

 確かに、そんなところだろうとは思う。見たところ片方の指輪は綺麗なようだし、これなら比較的簡単に売却できそうだ。

 梓はしばらく何か考え込んでいたが、不意にぽつりとこう言った。

「呪いというものは厄介だ。その物だけではなく、周囲にも影響を及ぼすことがある。御する者がいなければ、なおさら」

「呪いは文化、じゃないの」

 私は思わずそう言った。初めて会ったときに、彼女はそんなことを言っていた気がする。梓は私を見返すと、思いのほか真剣な表情で、ああ、と頷いた。

「文化だ。だからこそ、長い間を経て形成されていった型がある。しかし、これに関しては思いつきで詰め込んだような稚拙な型だ。ただ、時にはそういう物の方が怖いこともある。何が起こるかわからないからな」

 梓はそれでも何かを迷っていたようだが、不意に意を決したように顔を上げると、こう言った。

「もちろん、私の考えすぎという可能性もあるが――知ったからには、放っておくわけにもいかないだろう。伝えよう」

 私は嫌な予感がして、思わず顔をしかめた。

「伝える? 何を? どうやって?」

 誰に、と問うのは愚問だろう。当然、もう一つの指輪の持ち主に、だろうから。

「メッセージが送れるじゃないか」

 梓は平然と端末を指差した。ブログにコメントが送れることを言っているのだろう。しかし――

「有名人が一般人のメッセージなんて、いちいち取り合うわけないでしょ。そもそも何て書くつもり?」

 私は狼狽した。冗談じゃない。彼女はとんでもないことをしようとしている。

 しかし、私の戸惑いに気づく様子もなく、彼女はしれっとこう答えた。

「その指輪は呪われている。危険な物かもしれない、と――」

「馬鹿じゃないの」

 正気の沙汰じゃない。そんなことを書き込めば、指輪どころではないだろう。下手すればネット上で大騒ぎだ。

 私は必死に、彼女の凶行を止めた。

「そもそも根拠が弱すぎる。人形のことは、奇妙なことは何も起こっていない、とか言っていたくせに。それなのに、指輪の方は呪われている? 笑わせないでよ」

 そこまで言われると、常に自信ありげなアンティークショップの店主も、さすがに閉口したものらしい。複雑な表情のまま、彼女は押し黙る。

「とにかく。そんな恥ずかしいこと、やめてよね」

 私は梓の手から端末を取り上げると、気まずい雰囲気のまま店を出た。不吉な予感から逃げるように。

 しかし、少なくともこのときの私は、本当に何かが起こるとは思ってはいなかった。




 後日。とある事故が報道された。

 何でも、人気の女優がドラマの撮影中に指を一本、切断してしまったらしい。撮影の際の安全性や、怪我をした女優のことがしばらく話題になったが、そのうち別の話題に取って変わられて、事故の件はやがて人々の記憶から忘れられていった。

 そして今、私はデタラメな迷路のような街にいる。あの日以来、あかとき堂には足を踏み入れていなかったが、今日は久しぶりに朝から店を訪れていた。

 扉を開けてドアベルが鳴ると、やはり、いらっしゃい、と声がかかる。そのまま奥へ進むと、カウンターの向こうには相変わらず店主が座っていた。今日はどうやら新聞を読んでいたようだ。

 私のことに気づいたのか、彼女はちらりと視線を寄越した――が、何も言わない。私は思わず、ため息をついた。

「何か言いたいことがあるんじゃない」

 私がそう言うと、梓は軽く肩を竦める。

「過ぎたことを言っても仕方がない」

 それが彼女の答えだった。

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