第45話 リスク
阿場多新社長の肝煎りで始まったユニバキッチンは強制力を伴った。
社長の意を汲んだ執行役員、その下の部長、その下の課長、一般社員へと水が高きから低きに流れるように誰も疑問に思わない。組織というものは良い面も悪い面も流れていく。皆が絶賛し、拡散し、工場の社員食堂にも採用され、調達が大規模になればやがて市販にも広がることが予想された。
「小雪さんは、本当に何も見えないんですか?」
「見えないって……」急な問い掛けに息を呑み、一瞬言葉に詰まる。今までのことを思い返し、真っ直ぐ見つめ返す。「ええ、その通りよ。私は見えない。だから、秋山君が感じていることが理解できない。わかるのは可視化された物体や文字、言葉だけよ」
「それならば、今、目の前に広がる白い花の群生に紛れる彼らは当然見えませんよね」
「彼ら――」
静寂に包まれた山の奥。
どくどくと心音が強まり、鼓膜に響く。
「どうやらこの世界には、確かに人智の及ばぬことがあるようです。それは、時として呪いであったり、都市伝説の類であったり、奇跡と呼ばれる何かであったり。その全ては憶測でしかなく、核心部分は誰もわからない。誰も真実に辿り着けません。
この産地って境界線のような場所らしいです。亀裂とも呼ぶんでしょうか。なんで発生したのかその理由は不明です。山や川には不浄なものが溜まるとか多くの伝承がありますが、どうやらそういう類のものではないようです。だって、調達先の群生地はこんな山奥だけでなく、例えば都市農園とか、それこそ空き家の一角とか、そういう場所にもあるんですよ。だから、全てが不浄の地に由来するといったものではない。
人も植物も動物も、今いる世界から逸脱してしまう存在が確かにいるんですよ。それが、たまたまウコンであっただけです。僕は全て見えてるからわかるんです」
一面を覆う白い花の群生地から、人のような存在が見え隠れしていること。
土の割れ目から澱んだ色の霧が漂っていること。
木々の合間から無数の目が僕らを取り囲んでいること。
この世は、僕らが思った以上に、見えるものと見えない世界が表裏一体であること。
ぽつりぽつりと感情を交えず語り掛ける、彼の一言一言に戦慄を覚えた。
普通の人間には見えない濁った風が、土から、別の世界から染み出し、その粒子を吸い込んだものがウコンに混じる。いや、人が何かの拍子でヒューマンエラーを起こすように、植物もまたエラーを起こす。
目の前に広がるのは、エラーを起こした物体ということか。
「すぐに止めなきゃ」
じっとりと汗が湧き出し、思わず立ち上がるが、この熱は彼には届かなかった。
ただ、曖昧な顔をされた。鼻で笑われたようでもあった。
なんて無責任なと食って掛かろうとしたが、すぐにそれは無意味だと理解した。
結論からいえば——何も問題ないのだ。
あの植物から何も検出できない。
ただ、見えない何かに汚染されているだけであり、誰も証明できない。
こんな話、社内はおろか世間に理解を得られるかどうかすら怪しい。
「逸脱した粒子を摂り込んだ者は、一定の割合で精神に何らかの異常をきたすようです。でも、果たして、それが本当にこのウコンのせいであるかは誰も証明できません。病院に行っても無駄です。説明しても心身疲労と見做されて、抗精神薬でも処方されるか、ストレスが原因とありきたりの診断を受けるだけです。血液検査をしても、何も出ません」
「つまり、君が嘘をついて、私を騙している、ということになる恐れがあるのね」
「はい、流石ですね」
誰も証明することが出来ないから、疑義照会の対象にすら成り得ない。
だが――私は彼が嘘を吐いているとは到底思えない。
私は見えない世界が見え、その存在に怯え、彼らに誘われる者たちを見てきた。
異界の空気に侵された者たちは、現実と異常の境があやふやになっていく。
誘われる先は――死だ。
いや、彼らの世界にとでも言うべきか。
「狂ってる。悪意の塊じゃないの」
「小雪さんは、当社だけが悪いと思ってますか?」
「当たり前じゃない! こんなもの今すぐにでも止めなきゃ!」
そう興奮する私を、彼は憐れむように鼻で笑う。「そうじゃないんです。うちはたまたま汚染されたウコンを使用しただけなんです」
「いや、ちょっと待って」
彼の含みに眩暈が起こる。
まさか、この負のシステムは。
「この仕事を通じて僕は知りました。この世界から逸脱したものって一種類だけじゃありませんからね。僕たちの取引は様々な業界に跨っています」
食品の原料。
家畜の肥料。
穀物。
果ては医薬品の原料。
予防接種に混入された原料。
指を折りながら淡々と吐き出される言葉の数々に眩暈を起こす。
ああ、思い出した。
――最近では自衛隊にも決まった。
こんなことが。
「今思うと、人や植物、昆虫、生けるもの全てが理の外に逸脱してしまう切っ掛けは、どこにでもあるんじゃないかと思います。ただ、一定値を超えて汚染粒子を摂り込んだものから逸脱してしまう。ここまで社会全体に仕組みが張り巡らされていたら、これが原因だ、なんて特定するのはそもそも無理なんだと思います」
「人が死に向かって狂っていくのが風邪……のようなものと言いたいの?」
「ええ。つまりは、そうなのかと思ってます。風邪って究極的には発生源ってわからないんですよ。だって、この人から感染したという確かな証拠はないですから。それに、誰彼構わず感染するものでもない。もしそうであるなら、早々に人類は滅亡していたはずです」
人類の発展は見えないものとの闘いであった。
交流が加速し、感染が拡大し、未曽有の死の嵐を巻き起こした。
太古の昔、まだ医学と呼ばれる文化も衛生という概念もなき時代は、それこそ死の呪いと呼ばれたり、魔女の仕業だと罪も無き人々がつるし上げられたりしていた。
医学の発展はウィルス、細菌という目には見えなかった存在を可視化し、特定することに成功したが、未だ完全な克服には至らず、今もなお100%万全な解決方法、防御方法は存在していない。
未だ、見えない、得体の知れないものは世界中にあるのだ。
それは、ウィルスという名称だけではなく、異界の大気や生命と表現されることだって、時が経てば分類されるかもしれない。
私がずっと追いかけていたリスクという概念は、やはり理解できなく、理解する必要がなかったものだったのだ。
どこにも不正が問えない。
原因すら解明できない。
何も検知できない。
だが、確実に一定の割合で人が逸脱してしまう巧妙に仕組まれた罠。
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