終章 新世界

第43話 待ち合わせ

 小雪さん、お元気ですか? 


 何の連絡もせず、仕事を放っぽり投げて、突然いなくなり申し訳ありません。

 また、ご心配おかけして申し訳ありません。

 今、僕は別の場所で働いています。

 北は北海道、南は沖縄と内部監査部に所属していた時と同じぐらい忙しいです。

 出張の連続で、家に帰る暇もなく、といっても今は前の住居を引き払っているので、別の場所に住んでいるんですが、まあ、散らかり放題です。独り身なので仕方ないですが、今は寂しくありません。

 僕には仲間がいて、妻がいて、いつも励まし合ってますので。



 このメールを受け取った時、言い知れぬ不安が全身を駆け抜けた。

 咄嗟に思ったのは、これは死者からのメッセージということだ。


 仲間?

 妻?

 励ます?


 一体これは何のことだ。


 気が付けば、柳生さんの死体が足元に転がるなか、脇目も振らずに彼に返信をしていた。



『今、どこにいるの?』



 彼が指定した場所は、今、苦悶の表情で目的地を目指す山のなか。

 最寄り駅からタクシーを呼び、とても登山口とは思えない路肩で降りて歩き出した。ここは観光地でもない、名もなき山。こんなところになぜ。

 それに、山を登るなんて、いつぶりだろうか。


 遠い記憶を呼び起こす。


 その日は、よく晴れた秋の空だった。


 両親が亡くなり、小学生の妹と二人の生活が始まったが、状況が状況だけに明るい日常は訪れなかった。妹はそのまま不登校になり、日々の澱みに膿んでいた。そんななか、ひと時の癒しを求めて妹をハイキングに誘った。


 ――いいよ、お菓子何もっていこうか。


 そんな軽いノリでバスを乗り継ぎ、高原へと足を運んだ。

 通常、思い出は美化されるものだが、私の場合そうではない。どちらかと言えば醜い風景と重なり、忌まわしい記憶になっている。


 妹と訪れたのは有名な湿原地帯。その日は平日にも関わらず多くの観光客でごった返していた。燃えるような赤や黄色に彩られた叢が風に揺れる。観光客は思い思いに絶景スポットで写真を撮り、私たちも互いの思い出を写真に収めた。一通り観光を楽しんだ後はベンチに座り、二人とも何も語らず景色だけを眺めていた。


 清涼な空気を吸い込み、心の洗浄を済ますといつの間にか空が薄暗くなった。陽は傾き、四方を囲む山肌に影が差す。すっかり長居し過ぎた。


 そろそろ帰ろうか。また、普通の日常が待っている。


 そう言って元来た道に足を向けるが、妹は一向に帰るそぶりをみせなかった。腰から根が生えたようにベンチから立ち上がらなかった。周囲に誰もいなくなり、私たちだけが取り残された。


 ――まだここにいる。

 ――名残惜しい?


 そう聞くと、妹は静かにこう答えた。


 ――私はこっち側にいる人間だもの。


 冷たい風が妹の黒髪を寂しく揺らす。

 トンボが周囲を舞い、その一匹が妹の膝に乗った。妹はじっとその様子を見つめて口を歪ませた。


 ――人間が虫になったらどう思う? 自分が虫だって意識だけがずっと残ってさ。食べたくないのに小さい虫を生きるために食べて、飛びたくないのにずっと羽をばたつかせて。いつまでも人間の意識のまま虫を演じないといけないって最悪じゃない? お父さんもお母さんもきっと。


 そう言って勢いよく右手を振りかぶると、一気にトンボを叩き潰した。


 その瞬間、私はわかってしまった。


 だが、それを認めるわけにはいかなかった。だから、強く否定した。


 ――二人はただの労災よ。ミス、欠陥、怠慢、偽善、なんでもいい。私たちをこんな目に遭わせたのは工場の責任。あいつらのせいなの。


 そう唇を震わせる私に、妹はそっかあと頼りなく笑った。


 ――でもね、ここにもたくさんいるよ。


 ――いない。


 ――お姉ちゃんは見えないだけだよ。たくさんいるの。夜になるとよく見える。ここは夜が濃いぶんよくわかる。もうすぐここも。


 ――だから、いないって!


 私は思わず叫んだ。

 その瞬間、妹は「あっ」と小さな声を出した。そして、「消えた」と漏らした。



 ――やっぱりお姉ちゃんってすごい。



 妹は幼い頃からずっと見えない何かに囲まれていた。妹にとってはそれが当たり前であり、いつしかその世界を受け入れていた。ただ、私はそうではない。私は妹みたいにはなりたくない。ずっと怯えていた。


 私と妹には見えない亀裂――いや、元々住んでいる世界が違うのだと理解した。


 それから、私は妹に触れることはなかった。心のどこかで彼女の存在を否定していた。

 あの手この手で社会に送り出すために手を焼いてきたが、この子と一緒にいてはいつか自分が狂ってしまうのではないかと恐れた。


 強くならねば。

 一分の隙も見せないように。

 闇に取り込まれないように。

 規則正しく。

 まるで機械のように。

 そうだ、それこそが正しいんだ。

 自分自身をそう律した。


 だが、今でもそれが正しいのかわからないでいる。


 あの日を境に妹はよく笑うようになった。張り付いた笑み。人は本音から遠ざかる程、より精巧な笑みになる。


 だから、私は人の笑顔を信じない。


 あの時、あの子の手に触れていたのなら、世界を変えることが出来たのかもしれない。


 不安を助長する木々のざわめき、まるで迷路のように入り組む山道が、過去から現在へと時を進める。


 太陽の光は天蓋のように覆う葉によって遮られ、早朝から登り始めたというのに、いつまでも薄暗いままだった。スマホはすでに圏外で、誰からも連絡はつかない。

 どこまでも続く深い森が異界へと誘う。そんな感覚に襲われながら転ばぬように大地を踏みしめていくと、やがて開けた場所が見えてきた。やっと目的地かと思うと、急に疲労感が襲い、膝を曲げて息を荒立てた。ぽたぽたと大量の汗が頬を伝い、大地に落ちていく。


「お……い……」


 斜面の上から微かに声がした。

 見上げると黒い影が見えた。逆光ではっきりとは見えなかったが、それは私が求める人物に違いなかった。



「秋山君なの?」



 影は何も答えない。ただその存在が幻かの如く淡く揺らめくだけ。悲鳴を上げる太腿を叩き、斜面を上る。一歩ずつ私が近づくほど黒い影は鮮明になっていった。


 そして、はっきりと視認できる距離まで近づくと、彼は声も出さずに笑った。


 彼は出会った当初からどこか物憂げで、寂しさを抱えて、あまり明るい表情を見せなかった。



「お久しぶりです」



 私は秋山君の笑顔を初めてみた気がする。





 終章「新世界」開始――


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