第五章 OJT
第30話 記憶
現実と現実ではない世界の境界線が徐々に曖昧になっていくのは、忌まわしい記憶とともに脳裏に深く刻み込まれている。
――お姉ちゃんは見えないだけだよ。
今でも時折、夢に見る、妹と交わしたあの日の会話。
当時、十歳年の離れた妹は高校三年生の十八歳。
それはそのまま、妹の享年になる。
私と妹は郊外の小さなアパートで二人暮らしをしていた。両親はいない。離婚といった類ではなく、二人そろって亡くなったからだ。
二人の最後は労災による死亡事故だ。
両親の職場は準大手とも言える菓子メーカーの製造工場だった。高卒の両親は揃ってこの工場に就職し、出会い、燃え盛る炎のなか一生をここで終えた。
死者十名、工場の全焼という衝撃的なニュースは世間を揺るがした。小さな町工場の話ではない。そこそこ名の知れた菓子メーカーの話だったからだ。事故の後、業務上過失致死の疑いで警察や第三者委員会による徹底的な追及が行われた結果、その実態は歪んだ組織の在り方にあると結論付けられた。
直接の火災原因は、洋菓子を成形する際に発生する切れ端の滓が熱をもち、そこから出火したことによるもの。通常ならば、そのような残滓は定期メンテナンスとともに綺麗に除去されるのだが、ここはそうではなかった。
生産第一主義でフル稼働に追われ、5Sが徹底されていなかったのだ。生産量の必達こそが唯一の評価対象になっており、誰もがおかしな状況を指摘できなかった。当然、このような職場は、閉鎖社会の負の側面を色濃くしてパワハラの巣窟となる。誰しも生産以外の価値を見出せず、溜まりに溜まった矛盾が大惨事となって噴出した。
非難経路に一時保管の荷物などが置かれていた事実も認められたり、防災訓練もシフトの関係で参加しない者もいたりして、まるで組織の体を成していなかったことも問題となった。
当時高校生であった私はこの事実に愕然とするどころか、なんて杜撰な状況なのかと呆気にとられたものだ。
歪んだ組織というのは誰にも止めることができない。
究極まで突き詰めれば、あらゆる問題の根っこはこれに尽きるのではないか。
どんなにルールが整っていても、トップに問題があれば、それが悪しき風土に直結し、不正の温床となる。
食品偽装だって。
粉飾決裁だって。
独裁者の横行だって
当時、社会を知らない年齢の私でもそう思った。
突如として降りかかった災いは、私たちの生活を一変させた。
遺族補償年金や会社の補償金を受け取り、妹と安いアパートで二人暮らしを始めた。生活費の大部分は補償金で賄えたが、妹はまだ小学生であったため、精神的なフォローが必要であった。
妹が頼れる存在は私しかいない。
否応なしに決意を新たにしたが、妹は二人暮らしになった途端、私にこう言った。
――お姉ちゃんなんだよね。
私はこの言葉の意味がわからなかった。
私なんだよねって、なに?
妹が頼る相手が?
それとも、こうなった責任が?
妹は、幼き頃から奇妙なことをよく口にした。
駅のホームで待っている時に、「お姉ちゃん、電車は連れてってくれないよ」
家族でハイキングした時は、「お姉ちゃん、その道で本当にあってるの」
二人でショッピングモールに買い物にきた時も、「お姉ちゃん、誰と会話してるの」
幼児は大人には見えない何かが見えるという。
俗に言う霊感、都市伝説の一種。
一説には未成熟な脳が、何かに過敏に反応した結果なんて研究結果もある。
妹は私を心配しているようだったが、どちらかと言えば、ふらふらと危なっかしい妹を正しい方向へ導く方が多かった。
大きくなればそのうち収まる。そう思っていたが、奇妙な発言は妹が成長し、中学生になっても続いた。そして、いつしか、そんな日常は当たり前になっていき、私はそうなの、そうなのと適当に流すようになっていた。
今となれば、果たしてそうすることが正解だったのか分からないでいる。
私は何にも見ていなかったのか。
それとも――
ただ単に、自分を守っていただけなのか。
第五章「OJT」開始――
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