第20話 不明

 寒風が激しく窓を震わせた日。

 突然、瑠香は強い倦怠感に襲われた。


 もしやと思い産婦人科を訪れたが、期待したものではなく、ストレスあるいはホルモンバランスの乱れと診断された。医師の診断通り、一時の症状だろうと楽観的に考えていたが、その期待は甘かった。日ごと覇気を失い、瑠香は本屋のパートを辞めることになった。

 食事の用意だけは必ずするといって、律儀に用意してくれた。


 何を聞いても虚ろであった。


 放って置けば正午を越えて夕方まで、そのまま寝続けた。

 そして、寝静まった深夜にむくりと起きては散歩に出かけた。

 どこに行くのと瑠香に問い掛けると、

 妙に明るく、

「私さ、夜型人間になったのよ」と笑って、運動不足だしねと夜な夜な外へ繰り出した。


 日中働いている僕はその全てに付き合うことは出来なかったが、時間を見つけては夜の散歩に付き合った。深夜の住宅街というのは驚く程に静かだ。徘徊している人の姿はなく、たまに通り過ぎる車を見掛けるぐらいで、家々の明かりもほとんどない。明滅する街灯に羽虫が群がるだけ。まるで、全ての住人が死に絶えたような気がした。歩き疲れたら夜の公園のベンチに並んで座った。


 瑠香は楽しそうだった。


 潰れたパン屋に、蔦の絡まった廃屋、錆び付いたバス停。何かが潜んでいそうで、結局何もいない夜の街で瑠香は饒舌に口を動かす。



 明は信じる? この世界とは違う世界があるってことを。

 異世界? 

 パラレルワールド? 

 うーん、そういうのとはなんか違うのよね。

 例えばさ、灯に群がる蛾は自分が蛾だということを本能のまま理解していて、決して人間がどういう考えをしているか、どのように自分たちを観察しているかわからないじゃない。

 人間だってそうよ。

 蛾の気持ちになって考えたところで、どこまでも人間の想像の範疇を出ない。

 蛾からすれば、それは違うよって鼻があったら鼻で笑われるわ。

 つまりね、同じ世界に蛾と人間が住んでいたとしても、私たちは全く違う世界に住んでるってことなのよ。

 ただ、お互い見えているだけ。

 人間は蛾が見えてるし、蛾も人間が見えている。

 でも、住んでる世界は違う。

 お互いは決して交じり合わない。

 だから、仮に何かの拍子で蛾が人間の感覚をもって生まれたら、それはとても耐えられない。

 だって、性同一性障害ですら、当人にとっては耐え難い苦痛なわけじゃない。

 女の世界の住人が、無理やり男の世界に閉じ込められてる。

 皆、耐えられないと思うわ。



 夜が明けるまで瑠香は僕に禅問答のような問いを続けた。熱心に、こちらがうんざりするまで延々と。そのまま僕は眠りにつき、瑠香も体を丸めて眠りにつく。そして、日が昇る。窓から日が差して、一日が始まったのだと理解する。



 ――ああ、ここじゃないわ。



 瑠香の言動は徐々におかしくなっていた。その症状は、躁鬱とも心神喪失とも違う。ただ、この世界で疑問に思っていることを延々と楽しそうに語っていた。それが、今となっては妙に不気味に思い出される。


 元々、瑠香は世間を皮肉る天邪鬼的な性格であった。そんな性格が災いしたのか、はたまたそうなってしまったのか、学校に馴染めず、高校を中退後フリーターになっていた。

 彼女は過去のことについて多くは語ろうとしなかった。両親は離婚しており、戸籍上は母親に育てられていた。ただし、母親とは不仲であったようだ。その証拠に、結婚式は頑なに拒んだ。式を挙げると親族を呼ばなくてはならない。友達もいないし、といった理由だ。そのため、僕は両親の挨拶にすら行ったことがない。いずれ会わせるとだけ言われていたが、その「いずれ」が彼女の葬式になるなんて想像すらしなかった。


 瑠香が死んだことを伝えると、淡々と「わかりました」とだけ言い残して、通夜だけ顔を見せたが、告別式には姿を見せなかった。憤りを感じつつ、僕は「ああ、瑠香は両親に恵まれていなかったのか」と、言いようのない悔しさで涙がこみ上げた。

瑠香の最後の日を思い出す。


 十二月。

 休日の早朝。

 空はからっと気持ちの良い青空だった。


 いつもならば、瑠香は起きることが出来ず、暗くなるまで寝ていたが、珍しく僕より先に起きていた。


 買い物に行こうと誘われて、セール品の洋服や、夕飯の食材、日用品を買った。陽の光を浴びながら歩いて帰ろうと提案した。瑠香は「いいね」と笑顔で応えた。

大きな川に架かる橋の真ん中で、瑠香は立ち止まった。


 何かと思い振り返ると、瑠香は笑いながらこう言った。


 ――ねえ、わたしって大丈夫かな?


 その問いに、僕はこう返した。


 ――大丈夫だよ。何にも心配することはないよ。


 瑠香はそっかあと目尻を下げたあと、買い物袋を地面に落とした。「あ、そこから行けるんだ」とピクニックにでも行くように軽々と橋の柵を乗り越えて、そのまま川に飛び込んだ。


 ぱんっと何かが破裂する音が響いた。


 意味が分からず呆気に取られてしまった。

 大変なことが起きたと理解するまで一、二分程かかった。

 いや、あの時は、永遠に時が凍り付いたように感じていた。

 急いで、川を見下ろすと、キラキラと太陽が水面を不気味に輝かせていた。


 妻はなぜ死んだ。


 今日の夕飯は何しようかって話していたのに。


 生活費を稼ぐ明には美味しいものを出さなくちゃね、と笑っていたのに。


 明日のこと、明後日のこと、その先のこと、色々と話していたのに。


 僕の知らないところで思い詰めていたことなんて、決して。


 瑠香が川に飛び込んだのも。


 急に倦怠感に襲われたのも。


 全て不明。


 思い出す。


 橋の上で茫然と立ち尽くす僕の隣に、黒い染みのような者がいたことを。


 確か、そいつはこう言っていた。




 もうすぐだね。



 

 と。


 そこからだ。


 僕が人成らざる者が見えるようになったのは。


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