夕日が沈むまでに

志野理迷吾

第1話 ハイタッチ

 僕が坂沙さかささんのことを初めて意識したのは、体育の授業中だった。昼食後の眠気と気怠さを伴いながら行われていた卓球で、偶然ペアを組むことになっただけ、それでも僕の高校生活を鮮やかに彩るには十分すぎる出会いだった。



「なぁ、大輔だいすけ。俺さ、川井かわいとペア組みたいんだ。」


 山田先生が体育座りする生徒たちを前にルール説明をしている最中、僕は、右側に座る岸津きしつが耳元に顔を近づけてくるのを横目で確認した。

 僕と岸津は一番後ろに座っているため、先生はそれに気づくことなく説明を続けている。岸津は僕の耳に息だけでなく、若干唾が飛んでいることも気にせず話すと、顔を前へ向け首を亀のようにやや伸ばした。その目はしっかりと川井さんを捉え、好意を隠そうともしていない。


「とおるちゃんの説明終わったらペア組むだろ、協力してくれよ。」

「そんなこと言われても…。」

「なんたって、もうかれこれ約半年待ってたん——」


 岸津は返事に困っている僕のことなど気にせず語り始めた。それを無視して僕は川井さんの方へと視線を移す。川井さんの後ろ姿は、クラスメイトの頭や体でほとんど隠れてしまっているものの、綺麗に背筋を伸ばして座っているのがわかる。

 川井さんの隣には、クラスメイトであるにも関わらずほとんど会話をしたことのない坂沙さんがやや腰を丸めて座っている。

 ボブカットで首が見えている川井さんとは対照的に、坂沙さんは肩甲骨あたりまで髪が伸びている。二人の髪はしっかりと手入れがされているためなのか、体育館を照らすライトの光が反射し、天使の頭についている輪のように見える。


「だからさ…って聞いてるか? 真剣なんだよ。」


 そういえば、今年教師になったばかりで僕たちの副担任である田中先生は「教師はブラックすぎて髪の手入れをする暇もないよ」と嘆いていた、と考えているといつの間にか岸津の顔が再び耳元にあった。


「真剣なのはわかったよ。」


 反射的に距離を取るため体を左に倒しながら、少し雑に返事をした。

 こちらの返事をどのように受け取ったのか、満足そうに頷くと岸津は口から息を大きく吸い、鼻からゆっくりと吐き出した。


「もう1年生終わっちゃうから、まじ焦って——」


 中学校を卒業し高校に入学したのは、7ヶ月前。空には雲が一切なく普段なら鬱陶しいと感じる太陽も、その日は、校門に一本だけ植えてある桜の木を照らすスポットライトのように輝いていた。

 僕と岸津の出会いは入学式で、僕の右隣の席が岸津だった。まだ会話もしてもいなかったのに、岸津は、校長先生の長い話に飽きたのか僕の肩に頭をのせてスースーと気持ちよさそうに眠っていた。

 入学式を終え教室に行くと、席は名前順に決められていたので岸津が前の席だった。先程まで人の肩を枕にしていたことなど既に忘れてしまったのか、太陽のような笑顔をこちらに向けて自己紹介をしてくれた。その笑顔は、鬱陶しさと同時に多少のことなら許してしまうくらいの人懐っこさを感じさせた。

 そして、僕も自己紹介をしてからというもの行動を一緒にするようになった。


「まじ焦ってるんだって。このまま人生最初の一目惚れを無駄にできないって!」


 入学式後の教室では、僕と岸津のように自己紹介が盛んに行われていた。しかし、そんなざわめいていた教室が、一瞬静まり返った。憧れの人が目の前に現れて、身動きできなくなったような雰囲気が周りから感じられた。


「初めまして、川井です! よろしくね!」


 声が聞こえた方に顔を向けると岸津の前の席に一人の生徒が立っていた。「制服を着れば見分けがつかない」と言っていた祖母の言葉が嘘だとわかった瞬間だった。  

 彼女は、軽く微笑み会釈をすると机の横にリュックサックを引っ掛け、そのまま椅子を引いて座った。川井さんの左隣に座っていた坂沙さんにも僕たちと同様に声を掛け、「ヘアピンかわいいね」などと話していた。

 岸津は口を閉じることを忘れたまま、鼻血を出していた。


「大輔が坂沙のこと好きで、坂沙とペア組みたいってことでよろし——。」


 それからというもの川井さんは、入学直後にも関わらずその容姿や人当たりの良さから岸津やクラスの男子はもちろん、先輩たちの間でも噂されていた。

 しかし、川井さんは、4月中にあっさりと3年生の先輩と付き合ってしまい、学校中の男子は落胆することとなった。その中には岸津も当然含まれていて、5月からは川井さんに話しかけることもなく、虎視眈々と別れるのを待っていた。

 そして、つい1週間前、川井さんが彼氏と別れたという噂が流れた。それも彼氏の浮気が原因だというから、そんなことがあるのだろうかとその信憑性しんぴょうせいを疑った。

 それでもどうやら別れたのは本当らしく、その情報を得て以来、岸津のやる気はこれまで以上に満ち溢れている。


「よーし! じゃあ各自ペアを作って活動を始めるように!」


 山田先生の説明が終わると同時に、岸津は素早く川井さんの方へと歩き始める。僕も慌てて岸津を追う。


「川井! ペア組もうぜ!」


 川井さんとの距離は、通常の声の大きさで話すには少し遠く、岸津は両手でメガホンを作ると口にあてて叫んだ。

 周りの男子は一斉に岸津を睨んでいるが、本人は全く気にしていない。むしろ他の男子に取られまいと少し駆け足になっている。


「あ、岸津くん、ごめんね! 伊香いこちゃんとペア組むから——」

「え、いや、待って!」


 川井さんは申し訳なさそうに両眉を下げ、顔の前で両手を合わせている。しかし、岸津もあきらめない。岸津も両手を顔の前に合わせ頭を下げている。

 僕は、ペア探しで歩き回る同級生とぶつからないよう、なんとか避けながら岸津たちのところへたどり着いた。


「岸津、もうあきらめ——」


 僕は岸津の肩に手をのせ、しつこくお願いしている岸津を止めようとした、その時。


家沖けおきが坂沙とペア組みたいって言ってるからさ!」

「「え?」」


 岸津以外の全員が目を丸くしている。

 僕も岸津が何を言っているのか理解するまでに数秒かかった。


「ちょっと、岸津。」

「あ、ごめん、隠してるんだっけ?」

「隠してる? 何わけのわから——」


 岸津は、2人から顔が見えないように僕の方を向き、顔全体を使って何やら訴えてくる。しかし、僕にはさっぱり岸津の思惑がわからない。そんな僕と岸津のやりとりを遮ったのは、川井さんだった。


「うん、わかった。岸津くん、ペア組も!」

「ほんとに! いいのか!」


 岸津は川井さんの言葉を聞くと素早く体を回転させ、両腕を上に挙げてガッツポーズを作った。そして、「ありがとう」と言いながら川井さんへと近づき握手を求めた。

 川井さんは差し出された手は握らず、その代わりに微笑みを返した。そして、顔を僕の方へと向け、ゆっくりとこちらにやって来ると口を開く。


「頑張ってね。」

「…あ、うん。」


 よくわからなくても笑顔で言われてしまえば、返事をしないわけにはいけない。無理やり頬を上げて応えた。

 川井さんの肩越しに見える岸津は、張り切って準備体操を始めている。そんな様子を見て、自分の目標に向かって全力で取り組む姿勢が羨ましいと感じた。

 坂沙さんの方を見ると、急にペアが変わり困惑しているのが表情から読み取れた。僕は申し訳なさを込めて軽く頭を下げた。坂沙さんは、それを挨拶と受け取ったのか頭を下げ返してくれた。


「よーし! あと一点!」


 授業も終わりに近づき大半が疲れて手を抜き始める時間、岸津の声が体育館中に響き渡る。

 希望通りに川井さんとペアになった岸津は、額に汗を浮かべているものの疲れを一切見せるどころか、軽快にステップを踏みゲームを楽しんでいる。

 得点を取るたび、川井さんにハイタッチを求めるが「ナイス!」と声をかけてもらうにとどまっている。それでも、本人にとってはかなりの励みになるのか得点のたびにどんどん声を大きくしている。

 さすがに周りのクラスメイトたちも煩わしさを感じているような視線を岸津の方へと向け、山田先生も怪訝そうに眉間に皺を寄せたまま岸津へと視線を向けている。しかし、誰も何も言わないのは、川井さんが顔の前に両手を合わせ、口だけを動かして「ごめん」と伝えてくれているからだろうか。


「ドンマイ、家沖くん!」

「ごめん、坂沙さん…」

「気にしない気にしない!」


 岸津はサッカー一筋であるものの生まれ持った身体能力を活かし、卓球も難なくこなしている。一方で僕も野球一筋であるものの、それ以外のスポーツは全く才能がない。

 僕は先ほどから散々ミスし、その度、今まで顔見知り程度だった坂沙さんに励まされる始末である。坂沙さんに対する申し訳なさと、自分の不甲斐なさに嫌気がさし、早く授業が終わってほしいとすら考えている。

 しかし、そんな僕でも、まぐれで上手くいくことはある。


「え、やった…やった!」

「やったね!」


 諦めて投げやりにラケットを振ったことで、これまでの力みが逆になくなったのか、スマッシュが綺麗に相手のコートに決まった。

 僕は、無意識にラケットを持っていない左手を握りしめていたことに気づき、少し照れ臭くなった。

 坂沙さんの方を向くと、坂沙さんも左手を握りしめて僕の顔を笑顔で見ていた。

 僕は野球部の試合で部員とするように、手のひらを坂沙さんに向けた。僕の肩くらいの身長の坂沙さんは、僕の差し出した手に少し飛び跳ねるようにパチンと手を合わせてくれた。


「今日はありがとね、またペア組めるといいね…!」

「うん、こちらこそ。」


 それから体育の授業はあっという間に終わり、坂沙さんが僕に笑顔で言ってくれた。僕はスマッシュが決まった時以上の照れ臭さを感じ、なんとなく意地でも表情が緩まないようにしなければならないと思った。


「伊香ちゃん、早く着替えないと次の授業に間に合わないよ!」

「あ、うん!」


 川井さんが女子更衣室の方へと歩きながら振り返り、坂沙さんに声を掛けた。坂沙さんは、手を胸の前あたりに小さく出し、そして左右に小さく振ってくれた。


「じゃあ、またね。」

「うん、また。」


 最後まで素直になれない自分を責めると同時に、この楽しかった時間への名残惜しさを感じる。

 僕も坂沙さんと同様に小さく手を振ると、坂沙さんは最後ににっこりと笑い川井さんの方へと小走りで行ってしまった。


「お前、坂沙とハイタッチしすぎだろ。」


 山田先生に片付けを手伝わされていた岸津は気がつくと僕の真後ろに立っていた。先ほどまで額で輝いていた汗は、タオルで綺麗に拭かれている。

 岸津に呆れた顔で言われたのが悔しくて、僕も言い返す。


「岸津は、全部無視されてたね。」

「うるせぇ。」


 岸津は吹き出すように笑い、僕もつられて自然と笑っていた。

 体育館についているドアは換気のためか全て開かれ、普段なら足元を冷やすだけの外から入ってくる空気はなんだか心地よく感じた。

 あと1週間で文化祭当日となる。全く根拠はなくても、「きっと楽しいものになるはずだよ」と冷たい空気たちに教えられた気がした。

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