第四夜 人面犬 5
春が来て、夏を過ごし、秋を送り、冬を迎えた。
それを何度か繰り返すと、『人面犬』は中年になっていた。
ご主人は少し年を取ったくらいだが、『人面犬』の変化は劇的だった。少し動きが鈍くなり、あれほどあった食欲も落ち着いた。こころにも余裕ができ、すっかり大人になっていた。
しかしご主人と過ごす時間は相変わらずで、中年になった『人面犬』もずいぶんと大切にしてくれた。昔のようにはしゃぐことは少なくなったが、その分穏やかにご主人と過ごすことができた。
『人面犬』は考えていた。
確実に寿命が迫っている。
これまで病気とは縁のない生活をしていたのは奇跡だったのかもしれない。とはいえ、老いに伴う衰弱からは逃れられなかった。やがてはこのからだも動かなくなり、老衰で最期を迎えるのだろう。
その最期はすぐそこまで来ている。
ご主人と過ごす生活のタイムリミットが近づいているのだ。
若いころはそれに抗おうとしていたが、今はもう、それが自然の摂理だと割り切ることができた。もちろんご主人をひとり残して逝ってしまうのはこころ残りだが、仕方のないことなのだ。
が、神様に対しての敵愾心を忘れたことはなかった。
ご主人を理不尽に傷つける神様。
そのときが来れば、必ず噛み殺してやる。
そんな思いを抱えながら、『人面犬』はご主人との一日一日を大切にして過ごしていた。
ある日の晩、『人面犬』はご主人といっしょに日課である夜の散歩をしていた。最近のお気に入りの散歩コースだ。
昔に編んでもらった目出し帽は小さくなってしまったので、新しいものを何度かまた作ってもらった。かわいい花柄の目出し帽をかぶって、『人面犬』はご主人の隣を歩く。
このコースは平坦でからだへの負担も少ないが、夜になるとひとがいなくなる。『怪異』である『人面犬』にとってはありがたいことだったが、ご主人にとっては危険な道だった。
今日もまた、等間隔で闇を照らす街灯の下を歩きながら、『人面犬』はご主人といっしょの散歩時間を楽しんでいた。
散歩中はひとに聞かれるのを懸念して黙っていることにしている。無言でてくてくとアスファルトを踏みしめ、時折ご主人と目を合わせながら、『人面犬』はリードを引いた。
ふと、電柱の影にうずくまっている人影を見つける。どこか痛いのだろうか? それともただの酔っ払いだろうか?
もちろん、おひとよしのご主人はそれを見過ごさなかった。
「あの、大丈夫ですか?」
『人面犬』といっしょに近づいて、声をかける。どうやら若い男らしかった。うずくまって顔も見えない。反応もない。
「あの……」
ご主人がいよいよ心配そうに再度声掛けをしたそのときだった。
うずくまっていた若い男は急に立ち上がると、がっ、とご主人の持っていたバッグをわしづかみにした。
「ひゃあ!?」
悲鳴を上げたご主人が、それでもバッグを渡すまいと必死に抱えている。若い男はひったくりだった。
しばらくの間、ひったくりとご主人はバッグを引っ張り合い、両者一歩も譲らなかった。
「おら!! はよ離せやクソババア!!」
「だれがクソババアや!! あんたなんかに渡さへんわ!!」
そのバッグには買い物用の財布も入っているはずだ。決して裕福ではないご主人が手放すにはあまりにも大きすぎるものだった。
「だれかー!! ひったくりやー!!」
大声でご主人がひとを呼ぼうとするが、ひと気のない道だ、誰も出てこなかった。『人面犬』はこのコースをお気に入りにしたことを後悔した。
「クソババア、殺すぞ!!」
引っ張り合いをしていたひったくりが、懐から街灯を反射してぎらりと輝く包丁を取り出した。このままではご主人が危ない。
『人面犬』はとっさに目出し帽を脱ぎ捨て、大声でわめいた。
「やめろ!! ご主人から離れろ!!」
顔だけ人間の中年男性の犬に罵声を浴びせられ、ひったくりは最初きょとんとしていた。
そして数秒後、バッグから手を離し、真っ青な顔で後ずさった。
「……な、なんだ……!? なんなんだこのバケモノ……!!」
「離れろ!! あっち行け!!」
「……ひっ……!!……バケモノ……!!」
『人面犬』の姿におそれおののいたひったくりは、そのまま夜道をこけつまろびつ逃げ去ってしまった。
あとには、鼻息を荒くした『人面犬』と、バッグを抱きしめてへたり込むご主人が残された。
初めて自分がバケモノでよかったと思えた。こうしてこわい顔をしているだけでご主人を守れたのだから御の字だ。
「大丈夫? ご主じ……」
ご主人に歩み寄って声をかけようとすると、ご主人はバッグを放り出して『人面犬』をきつく抱きしめた。
なにが起こったのかわからない『人面犬』はきょとんとしてご主人を見やる。
ご主人はぽろぽろと泣いていた。
「……ごめんなぁ……!……イヤな思いしたなぁ、ごめんなぁ……!」
『人面犬』を抱きしめながら涙するご主人は、繰り返し謝っていた。おそらく、ひったくりの言っていた『バケモノ』という言葉が原因だろう。それで『人面犬』が傷ついたと思っているのだ。
『人面犬』はそんなご主人の涙を舐め、
「僕は大丈夫や! ご主人守れたんやから! 僕はなにもこわなかったよ! イヤな思いだってしてへん!」
「……ごめんなぁ、ごめんなぁ……!」
「大丈夫やご主人! なんもこわいことあらへん! ご主人は絶対に僕が守るんや! 僕はそのために生まれてきたんやから!」
まるで愛の告白のような言葉でご主人をなだめる『人面犬』。バケモノ呼ばわりだなんて、少しも傷ついてなんかいなかった。むしろ、ひったくりを追いやることができたこの不気味な姿に感謝したいくらいだ。
少しして、ご主人はやっと泣き止んでくれた。なおもぺろぺろとご主人の顔を舐める『人面犬』を撫で、ご主人は鼻声で笑ってくれた。
「……あんたはほんにええ子やなぁ……」
いつくしむような言葉で『人面犬』を褒めてくれる。こういう時、自分はご主人にとって『特別』なのだという優越感じみたものを感じるのだ。
『人面犬』はそれを忠義心だと思っている。
が、きっと別のものが見ればそうではないと言っただろう。
『怪異』たる『人面犬』には、まだその感情の正体がわからなかった。
えへへ、と笑ってご主人の手になつきながら、『人面犬』は言った。
「僕はご主人の用心棒や! 絶対守る!!」
「あはは、どこで覚えてきたん、そんな言葉? えらい頼もしいなぁ」
「困ったことあったら任せて!」
「うん、頼りにしてるで」
そう告げて、ご主人は『人面犬』の名前を呼んで犬のからだを抱きしめた。
これでいいんだ。
自分はこのために生まれてきたのだから。
ご主人を守り抜き、そしてご主人より早くに死ぬ。
そのために今を全力で生きる。
かすかに胸が痛んだが、それはきっと幻痛だ。
「さあ、帰ろう、ご主人」
リードを引っ張って言うと、ご主人は『人面犬』を離して歩き出した。
それからというもの、『人面犬』はさまざまなトラブルからご主人を守った。
ある時は押しかけの訪問セールスがしつこかった。なので、家の奥からこわい顔をして出てきて、セールスを追い払った。
ある時はご主人が留守の間に空き巣が入り、それも威嚇して追い返した。
そのたびにご主人はかなしそうな顔をして謝ってくるのだ。
なにもこわくないのに、なぜご主人は『人面犬』がバケモノ呼ばわりされるたびにそんな顔をするのだろうか。
ご主人の顔をぺろぺろ舐めながら、『人面犬』は大丈夫だと言い続ける。
そしていっしょに眠り、また新しい一日を始めるのだ。
『人面犬』は、しあわせだった。
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