第三夜 口裂け女 7
それからもマスク男は毎日欠かさずlineを送ってきた。
以前よりずっと返信に迷いつつも、『口裂け女』は受信を楽しみにしていた。
デートも何度かするようになった。
映画を見に行ったときは、暗がりでそっと手を繋がれて映画の内容どころではなかった。
服を選んでもらったときは、マスク男がセンスの良さを発揮した。
飲食も気にするようになったのか、マスク男は食事に誘ったりはせず、いつもオシャレなカフェを選んでくれて、『口裂け女』は安心してストローで飲み物を飲んだ。
何度も会っているうちに、『口裂け女』のこころのガードもだいぶん下がった。
マスク男の冗談でくすりと笑ったり、マスク愛について語る姿にうんうんとうなずいたり。
『あっ』をつけずに話しかけることもできた。
しかし、やはりマスク男の一挙手一投足にどぎまぎしてしまい、会っている間は気が気ではなかった。マスク男はいつなんどきも紳士で、スマートで、知的だった。そんなマスク男がふと垣間見せる『口裂け女』への執着に、たまらなくどきどきした。
いやでもわかった。これは恋なのだと。
実らないことが決まっている恋でもいい。今この瞬間を恋して生きる。『口裂け女』の毎日は、マスク男のおかげで充実していた。
それでも、ふと思うのだ。
自分がもしこんなみにくい姿の『怪異』でなければ、この恋は実っていたはずなのに、と。
いつか来る決別の時を恨んだ。
今日もまた、『口裂け女』のスマホにlineの通知が舞い込んでくる。
『やっと仕事終わりましたー! 調子どうですか?』
あれ以来、マスク男はまず先に『口裂け女』の体調を気遣ってくる。
『お疲れ様です。今日はとても調子がいいです』
『よかった! じゃあ、今夜は通話できます?』
『はい、できますよ』
『やったー!』
話していることは変わりなく、ただ『口裂け女』はマトモに会話をすることを覚えた。コミュ障メンヘラちゃんにしてはなかなか上出来だ。
距離は確実に縮まっている。肌で実感できた。
そしてこの恋は終わるのだろう。実ることなく、苦い思い出となって胸に淀むのだ。
マスク男が風呂から上がるタイミングで通話をして、いつもと変わらないようなことで笑って、甘い言葉を不意打ちでささやかれてノックアウトされ、おやすみなさいの言葉と共に通話を切る。
いつものやり取りだ。『怪異』にはもったいないような『普通』だった。
スマホを握りしめ、ため息をつく。
普通の女の子って、こういうものなのか。悪くないな。
ゆっくりと時間をかけてこころの壁を溶かされていくのは心地よかった。
普通はここから先の未来があるのだろう。
しかし、『怪異』に『未来』などという上等なものは似合わない。
暗がりの中、指先で自分のいびつな口元をなぞる。
みにくいバケモノだ。
なぜこんな風に生まれてきてしまったのだろう?
もっと別の『怪異』ならば、もしかしたらこの恋が実ったかもしれないのに。
神様とやらがいるのなら、思いっきり恨み節をぶつけてやりたい。
こんなことになるのなら、出会わなければよかったとさえ思う。
別に悲劇のヒロインぶるつもりはなかったが、避けられない悲劇の渦中にあるのは事実だった。
こんな時に前を向いたままでいられないからメンヘラちゃんなのか、メンヘラちゃんだから前を向けないのか。どちらかはわからないが、この湿っぽい性格は外見にも増してみにくい。
そんな自分に良くしてくれているマスク男はまさに聖人だった。普通の男なら途中で匙を投げる。マスク男は実に根気強く『口裂け女』との間合いを詰めてきた。
先にホールドアップするのはどちらか。
事態はもうそこまで差し迫っているのだ。
散り際の桜のように、終わりの予感を漂わせる恋は今、咲き誇っていた。
「ほら、もうすぐ桜が咲きそうですよ」
夜カフェデートの帰り道、ひと気のない川べりを歩きながらマスク男が言った。
「桜が咲いたらお花見ですね」
きっとそのころにはこの恋も一足先に終わっていることだろう。決して来ることのない輝かしい未来に目を細めるように、『口裂け女』は笑った。
「そうですね。私、お弁当作ります」
「本当ですか? うれしいなぁ」
「ちょっとだけお酒も飲めるかもしれません」
「だったら、よさそうなワイン見つけてきますね! もちろんストローつけます!」
「ワインをストローで飲むって、なんだか変な見た目ですね」
「基本的には香りを楽しむものですからね。でも、おいしければどうだっていいんです」
「桜、きれいだろうなぁ」
「僕は隣のあなたに見とれてしまいそうですけどね」
「ふふ」
あるはずのない未来の空想は、実に美しいものだった。来ることがないからこそ、余計に素晴らしいもののように思える。
こぼれてきそうになる涙を必死にこらえていると、鼻の奥がつんとした。
「っと、いけないいけない。今夜はちょっと遅くなりすぎましたね。近道して帰りましょうか」
「そうしましょう」
マスク男の提案に、『口裂け女』がうなずく。
川べりから伸びる細く薄暗い路地を歩きながら、マスク男はスマホの地図を見ていた。
「ええと、ここがここだから……この道を曲がれば駅まですぐですよ」
一メートル後ろを歩きながらマスク男についていく。
その先には、ネオンもきらびやかなホテルが立ち並んでいた。
いわゆるラブホ街だ。どこの都市にでもある、特定の行為のみを目的とした施設。
『口裂け女』は、ああ、気まずい場所に出てしまったな、くらいに思っていたのだが、マスク男は違った。
すごい勢いで『口裂け女』の手を引くと、速足でホテル街の出口まで歩く。
『口裂け女』はびっくりしたが、マスク男は無言だった。できるだけ早くその場所から遠ざかろうとしている。
やがてホテル街を抜け、居酒屋の赤提灯が立ち並ぶエリアに入ってくると、マスク男はようやく歩調を緩めた。
「……あの、」
「すいませんでした!」
『口裂け女』がなにか言うより先に謝られた。何に対して謝っているのかわからず、頭に疑問符を浮かべていると、マスク男はばつが悪そうな顔をして、
「軽率にああいう場所を女性に歩かせてしまって……謝ります」
「そ、そんな。気にしないでください」
そういうことか。合点がいった『口裂け女』は慌ててとりなした。
「よくあることですよ。私も気にならなかったですし」
「……いや、僕がいけないんです」
赤提灯の軒先で、マスク男は猫毛の頭をかいた。これまたどういうことだろうか?
「なぜあなたがいけないんですか?」
「ほら、その……」
マスク男は珍しく言いにくそうに口ごもる。『口裂け女』は黙ってその続きを待った。
「……あなたには、あまりああいう場所にいてほしくないというか……大切にしたいんです。お姫様みたいに」
「……私は、お姫様なんかじゃ……」
「でも」
『口裂け女』の言葉を遮って、マスク男は初めて見る真っ赤な顔でうつむいてしまった。
「……男として、ちょっとは期待しちゃうじゃないですか……僕、そういう自分がいやで……」
また不意打ちを食らってしまった。マスク男に負けないくらい真っ赤になった『口裂け女』は、同じようにうつむいてめまいをこらえる。
やっぱり、私はこのひとのことが好きなんだ。
今この瞬間、恋をしているのだ。
みにくい『怪異』である自分が。
そんなまぶしすぎる瞬間が、たまらなくいとしかった。
「……ありがとうございました」
まだ赤みが残る目元で、『口裂け女』は苦笑して過去形で告げた。
今までのすべての輝かしい瞬間をくれたこのひとに。
そう遠くはない別れの日を思って、『口裂け女』はこころからの感謝をマスク男に送った。
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