陽の章 第八項 ~黒境~


人として誰かと言葉を交わすことを、彼女は許されなかった。

人として誰かに触れることを、彼女は許されなかった。

人として誰かを愛することを、彼女は許されなかった。

ただ世界の為に、ただ人々の為に、ただ祈り続けた。


「彼女にも、人としての幸せを得る権利はあるはずだ」


そう声高に叫ぶ愚かな少年のことを、

希望に満ちた眼差しで見るようになったのは、

いつの頃からだったか。


大人が諭しても、少年の想いは変わらず、

大人が気付かぬ間に、少女の想いは変わっていく。


少年は青年に、少女は乙女になった。


「君の祈りに頼らない世界の在り方が、きっとある。

 俺と一緒に、それを見つけに行こう」


青年は、あの日のままの瞳で言った。


青年の手に触れることは、崩壊を意味していた。

青年を愛することは、破滅を意味していた。

それでも、在りもしない希望に縋るように、

彼女は手を伸ばした。

情に溺れ、使命を忘れた者が導く末路など、

幾千の歴史が証明していたというのに……



陽の章 第八項 ~黒境~



「姉さん……」


王都グレイスへの道半ばの馬上、

今まで複雑な面持ちで沈黙を保っていたクレミアは、

意を決するように息を吸い、隣の姉へと語り掛ける。


ティニアは唇をきつく結び、返答を寄越さない。

想定済みであった姉の態度に、クレミアは構わず続けた。


「一体何者なのでしょう、アルム様は」


自分の目撃した一部始終を思い返す。

そこに生まれるのは、ただただ深い疑念ばかりだ。

今までに見聞きし、知ったつもりでいた世界の姿が、

丸ごと書き換わったような感覚。

馬に揺られる頭には酷い圧迫感があった。


「……俺が知るか」


視線を正面に結んで一瞥もくれず、

ティニアは吐き捨てるように言った。




「行くぞっ!」


「……来るか」


怒号が飛び、浮き足立つ白の軍勢。ただ一人悠閑に佇むアルム。

最大の紡月を放とうとする姉の後姿に、クレミアは固唾を呑む。


緋鳳斬を直接目にするのは、クレミアにとって二度目の機会だが、

先の一度は訓練中の試射を偶然目にしただけだ。

実戦で放たれた際の破壊力については、戦果報告を聞くに留まっている。


「緋鳳……ざあああああぁぁぁぁぁんっ!!!」


敵軍数百の兵を継戦不能に至らしめる一撃が、

咆哮と共に、撃ち放たれた。


ティニアの眼前に展開された紡月の光。

それを十字に切り裂くように双剣が振り下ろされた直後、

真円を描いていた赤光が、灼熱を纏い膨れ上がる。

渦巻く豪炎は程なく、虚空を舞う巨鳥を形取ると、

耳を劈く咆哮を発し、白の軍へ向かって羽撃いた。


炎塊は苛烈な勢いで飛翔し、

なおも夥しく膨れ続ける体躯を以って、

眼前の敵を圧し殺さんと翔ける。

その雄姿と吹き付ける熱に、

クレミアは僅かに眉根を寄せ、眼を細めた。

確かに強大な紡月だ。

緋鳳の巨躯は圧巻の一言に尽きる。


オオオオオオオオオォォッ!


緋鳳が傲岸な雄叫びをあげながら、

敵を呑み込むべく嘴口を大きく開く。


大気を焼き、風を押し退けながら迫る緋鳳に対し、

白の軍勢が狼狽の声を上げて身を竦める前で、

アルムは右腕を真っ直ぐに突き出し、


「……」


緋鳳がアルムを捕え、丸呑みにした。

その勢いのまま、緋鳳は全身を地に叩きつけるように滑り、

左右に広げた翼で白の軍が余さず抱かれるまでには、

逃げる間も、辞世の言葉を残す間も無かっただろう。


「はっ……ははっ!」


ラグナ平原を焼き尽くす灼熱は、鳳の形を失ってなお、

更に広く高く燃え広がる。

白銀を軟化させるだけの熱に捲かれた者は、

生きながらえたとて、剣を振るえる状態ではいられまい。


「はははははっ!

 これが赤の王族だ! これが赤の紡月だ!

 何やら妙な己惚れがあったようだが、

 その身で直に味わってみた感想はどうだ!?」


揺るぎない勝利の確信に高笑いを抑えもせず、

ティニアは炎の中のアルムに問う。

返答を期待などしていないだろう。

緋鳳は過たず、かの剣士に直撃したのだ。

後陣から顛末を見守るクレミアの眼にも、

アルムが無事である可能性は否定的に映っていた。


「ふむ……

 これが緋鳳などと、良く言えたものだ」


「なっ!?」


或いはその声に、僅かばかりの苦悶でも混じっていれば、

それが負け犬の遠吠えに聞こえる筋もあっただろう。

だが、漸く収まる気配を見せ始めた炎の中から漏れた声には、

些細な変化すらも感じられなかった。


「かつて六色の聖戦に於いて、

 赤の女王リーシェの放った緋鳳斬は、

 黒の国を覆う紡月壁『アブソリュート・サークル』を、

 崩壊させた事があるという」


声が紡がれると共に、

白の軍を覆っていた緋鳳の残火が霧消していく。

その隙間から垣間見え始めたものに、真っ先にティニアが、

次いで後陣の者達が驚嘆の声を漏らした。


「それに比べて君が今放ったものは、

 せいぜい、鳥の形をした炎を出す、曲芸だな」


紅炎が完全に消え失せた後、そこに残ったのは、

アルムを筆頭に、全く炎焼の跡を認めさせない白の軍。

白の軍を囲むようにして、円形に焼けた平原。

そして、円形に合わせ半透明に黒く縁取られた、半球形の空間だった。


「馬鹿な……これは!?」


有り得ない。

緋鳳が完全に防がれたことが、

曲芸と揶揄されたことが些事に思えるほどに、

白の軍を囲う黒い『壁』に、ティニアは強く驚愕を示した。

クレミアもまた、あまりの衝撃に我が目を疑った。


空間を隔て、あらゆる攻撃を防ぐ黒い壁。

誰もが知識としては知っている。

それは、リハデアに存在しないものだ。

それは、リハデアから永久に失われた筈のものだ。


「緋鳳を語るのであれば、

 せめて私の紡月くらいは破って欲しかったものだな」


黒の紡月。

六色の聖戦にて失われし黒の国、

ディメイルに産まれた者だけが持つ筈の力。

それを、禁忌の名を騙る剣士は、ここに発現して見せたのだ。


「馬鹿な……本当に黒の……」


黒鉄の鎧を身に纏い、漆黒の長剣を振るう。

あからさまなまでに黒を顕示したところで、

ティニアは勿論、クレミアでさえ、

白の女王が仕込んだ妙な籌策なのだと断じていた。


だが、目の前にいる黒衣の剣士は、

疑いようも無い手段で以って、

その身なりに嘘偽がないことを証明している。


「勝敗は決した、と考えていいだろうか。

 緋鳳が君の最強の紡月であるなら、

 これを破れない君は、剣で勝負する外ないが、

 既に君は剣での敗北を認めている」


或いはこの黒い壁こそが、

白の国が仕込んだ、壮大で軽忽な奇策なのかも知れない。

それでも、剣技で完全に敗北し、最大の紡月も無効化されたのは、

寸分違わずアルムの言葉通りだった。

少なくとも今のティニアには、アルムを打ち破る手段がない。


「……そう、だな。俺の負けだ。

 潔くない真似をして済まなかった」


脱力しつつあった腕が、

辛うじて双剣を取り落とさず、鞘に収めた。

敗北感や諦観よりも、未だ、

存在し得ない現象を目の当たりにした困惑が大きい。

それでも赤の戦士として、一度剣で敗北した後に、

己に絶対的に有利な条件を提示するという痴態を晒した上で、

なお大敗を喫したとあっては、

せめて決闘としての顛末くらいは全う出来なければ、

未来永劫に残る恥を、赤の王族の歴史に刻むことになる。


「私刑とは言ったが決闘は決闘だ。

 敗者には敗者なりの誇りを与えるのが、

 剣士としての……」


「姉さんっ!」


腹を決めたティニアが、

今度こそ自ら首を差し出そうとしたところで、

背後から響いた華奢な叫び声が、それを途切れさせた。

声の主を認識するまでもなく、

ティニアは顔相を憤怒の色に染め、

半ば無意識のままに肩を怒らせて振り返る。


「出てくるなっ!

 クレミア、お前も赤の王族なら分かるだろう!」


陣から抜け、自分の許へと走り寄るクレミアに向かい、

ティニアは戦に於いての号令より尚激しい怒号を浴びせる。

気の弱い軟弱者の妹姫は、いつも通り、

それだけで俯いて肩を縮め黙り込む。そう思っていたのだろう。

だが、


「……分かりませんっ! 死を自ら選ぶなど!」


クレミアは退かない。

反射的に一度は走り寄る脚を止めたが、

唇を震わせながらも一際大きな声で言い放つと、

断固とした、確かな足取りでティニアに向けて歩み始めた。


手先の震えは怯えや萎縮ではない。頑然たる怒りだ。

痛いほどに握りしめた拳を大きく振り、

乾いた土を踏み抜くように進む彼女の眼には、

沸々とした焦熱が滾っている。


「貴様っ……!」


更に深い怒りの血相を見せる姉は、しかし驚きを隠せていない。

それもそうだろう。

王となるべく生きる第一王女と、有事の備えである第二王女。

そもそも生まれからして二人は対等ではない。

まして武官の種のティニアと、文官の種のクレミアでは、

取り巻く環境の全てが違うし、与えられる権限も違う。

関係は完全な主従。逆らう事も、口ごたえすらも諌められた。

全てに於いて姉の後ろを行き、言葉を譲ってきたのだ。


それでも、譲れないものはある。

少なくともクレミアにとって、それは間違いなく自己の根幹だった。


「死に誇りなどありませんっ!

 まして民を導くべき王族が、軽々に命を投げ捨てるなど、

 それは、どのような生き恥にも劣る恥辱のはずです!」


首から上が熱い。

涙を湛えた眼球は燃えるようだ。

クレミアの生まれて初めての反抗を支えるのは、

腹の底から噴き出す堅固な熱だった。


「貴様のような柔弱が!」


「難敵がいるなら強くなれば良い!

 惨敗の汚名を雪ぎもせず死ぬなんて!」


「赤の戦士としての正道すら理解出来ん愚物が!」


「愚かで良い! 惨めでも良い!」


強く、強く姉の瞳を見詰めて吐き出す本心は、

間違いなくクレミアの赤の王族としての有様だ。

きっと赤の国の誰にも同意を得られない。

それを知りながらも、幼い胸に抱き続けたものは変わらない。


「私はそれでも、守れる命は全て守ってみせます!」


フィアシスと出会い、心を通わせ、命を尊ぶ白の考えに触れ、

自分が納得の出来る在り方を模索したクレミアが、

戦場に見出した己の責務だった。

既に、自分が率いる兵を実戦で失くしたことはある。

自分の槍で奪った敵兵の命も随分増えてしまった。

理想と現実の隔たりは大きくなるばかりだが、願うものは一つだ。


「クレミアッ……!」


ティニアの右腕が振り上げられた。

それでも視線は外さない。引き下がるわけにはいかない。

亡くす痛みに比べれば、姉の拳など。


「姉妹喧嘩は結構だが」


「っ!?」


夜の帳が、下りたのか。

瞬きすらしなかった視界が刹那に黒く染まり、

併せて投げ掛けられた冷淡な声に、

クレミアはただ、そんな惚けた感想を抱いた。


「最後まで付き合っていられるほど、暇ではない。

 用が済んだのであれば、私は白の国へ帰らせてもらうが?」


「……」


二人の王女の間に出来た黒い膜、正しくは、

クレミアを囲むように貼られた直方体の壁は、

ティニアの直情をも容易く圧し留めた。

怒りの形相こそ残しているものの、

まるで、感情だけが抜き取られたかのような姿だ。

あれほど燃え盛っていたクレミアの熱情も、

たったこれだけの間に、すっかり鎮まってしまっている。


アルムは二人の王女に対して問い掛けた。

どちらかが返答をする必要がある、という事に気付いたのは、

幸いにしてクレミアが先だった。


「こ、こちらの用件は全て終わりました!

 どうぞ、ご帰還を……!」


「クレミアッ!」


遮るティニアの怒声も、遅きに失した。

先の剣での戦いに於いてアルムは、

ティニアの命を奪う気は無いと言葉にしていた。

クレミアが終わりを告げた時点で、結論は見えている。


「……」


「……もう良い。好きにしろ。

 こいつのせいで、何もかも滅茶苦茶だ」


音が聞こえそうなほどの歯軋りの後、

力無く天を仰いだティニアは、

深い溜息を吐きながら吐き捨てるように言った。




「……アブソリュート・サークル、と言ったか」


足下が土から砂に変わり、馬の歩みが重くなった頃、ティニアは呟いた。

それがクレミアに向けた言葉なのか定かでは無かったが、

姉が自分から発した言葉に対し、

クレミアは自分の中にある知識を素早く搾り出す。


「アブソリュート・サークル。

 かつて、黒の王都を囲むように存在していた、

 何人の侵入をも許さなかった絶対の紡月壁。

 黒の聖魔石『オブシディアン』の力で維持していたとされる、

 黒の紡月の中でも、最大最強のものですね」


今のリハデアに現存する、数少ない六色の聖戦の記録。

中でも、聖戦で滅んだ黒と青の国について記された書は、

極めて希少ゆえに、存在を知る者すら限られている。

それらの閲覧の許可については、それこそ王族か、

王族に連なる家系の学者にのみ委ねられている代物だ。

黒や青の紡月の名を、一つでも答えられる人間は、

三国を見ても両手で足りるほどだろうか。

ただ、少なくとも今のクレミアは、

それを誇らしげに語れる心持ちではなかった。


「黒の鎧を纏い、黒の紡月を放ち、

 青の剣と思しき剣術を扱う、白の国に属する剣士。

 そしてその名が異邦人『アルム』か。

 悪趣味な冗談を並べ立てたような奴だ……

 まあ、腕が足りんとまで言われれば、

 暫くは自分の腕を磨く以外にあるまい」


苦笑を浮かべながら話すティニアの表情は、

平時のそれに戻りつつある。

いくら高過ぎるほどに気位が高いとはいえ、

グレイスの第一王女ともあろう者が、

己が命の重みを心得ていないわけはない。

誇りや潔さに対する強迫観念染みた考え方は、

赤の国の情勢に対する焦りが大きいのだろうと、

クレミアは結論付けていた。


「今回の件を出しに動き回る痴れ者もいるだろう。

 先んじて釘を刺しておかねばな」


如何ともし難い、二人の王女を取り巻く環境については、

ティニアの立場をこそ、固く縛り付けている。

此度の敗戦がそこに及ぼす影響を考えれば、

うんざりとした溜息が漏れるのも無理からぬ事だ。


年若い自分に出来る事は、まだ少ない。

姉の横顔を眺めながらクレミアが想うのは、

血を分けた二人の王女が手を取り合って進むことも出来ない、

赤の国の悪習に対する煩わしさだった。

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