第16話 記憶探し

「宝探しをしましょう」


 夜の学校にて静かに言ったのはシノだった。正確には記憶という宝探しだ。


 記憶は宝である。しかし、宝とはそれが貴重たる所以に宝であることが多い。一度失えば二度と手に入らないというような貴重さ。


 よって、何でも憶えられるヨウにとって記憶は宝ではなかった。忘れることがないのだから。しかし最近それが覆されそうになってきている。



「いいね、宝探し。それで、ヨウはどんな手伝いをすれば良い?」

「ありがとうございます。では、まずはついて来てもらえますか」

 ヨウの返事を待たずにシノは夜の学校を歩き始めた。まるでヨウがついていくのが世の理と思っているような、堂々とした背中。

 勿論ヨウもついていくのだけれど。


 シノがどこへ行こうとしているか、ヨウには皆目見当もつかなかった。でも、どこへ行くのかは訊ねなかった。目的地がどこであろうと、ヨウがシノについていくのは変わらなかったのだから。



「ここです」

 シノが理科室の横の壁を指差すまでそう時間はかからなかった。

「ここ? ……見るからに壁だけど」

「いいえ、違います。それが嘘か真かはヨウが一番良く知っているはずですよ」

 ヨウに返事をする隙を与えず、シノはヨウの手をそっと掴むと、そのままヨウの手のひらを壁に押し当てる。


 そこでようやく気づいた。シノは焦っている。ヨウが知り得ない何かに。

 だって、シノはいつだってヨウの返事を待ってくれた。でも今日はそうじゃない。


 そんな思考を吹き飛ばすように、壁の一部が音もなくスライドして液晶に映し出されたテンキーが現れた。


 “パスワードをお入れください”


 見覚えのある赤い文字、見覚えのあるテンキー。間違いなくアルバイトと同じテンキーだった。


 何も考えずに、百桁ほどのパスワードを入れる。でも、アルバイトで入力するのとはまた違うパスワード。手が覚えていた。こうするのが当たり前だというように。


 “認証成功”


 壁がスライドして人一人が通れるくらいの隙間が開く。


 近未来SFみたいな展開に胸が躍るかと思いきや、何の感慨も浮かばなかった。だって、ヨウはこの隙間を知っている。幾度となく通ったことがある。それは確信だった。


 でも、肝心の記憶だけがなかった。訳がわからない。


「ヨウ? 入りましょう?」


 ここで一番驚くべきなのはシノの反応だった。

 こんなイレギュラーな展開なのに、シノから驚愕が寸分も感じられない。いつものように平然としている。今も、まるで教室のドアが開いたのを見るような佇まい。

 それにしてはその瞳に緊張が漂っていたけれど。


 でも、今はそれどころじゃない。


 ――この中に何があるというのだろう。


「ううん、なんでもない。入ろう、シノ」


 暗闇へと足を踏み入れた。



「……っ」


 ヨウを迎え入れたのは、教室一つ分ほどの部屋一面に広がる淡い水色の花だった。暗がりでそれはやや発光しているように見える。


 近づいてみると、小指の先ほどの大きさのその花はクラゲのような形をしていることがわかる。クラゲの体のような形の花弁、クラゲの触手のような雄蕊と雌蕊。それからどこか甘い香り。


 乱雑に置かれた机には試験管、ビーカー、シャーレやピペットなど列挙できないくらい沢山の実験器具のようなものが所狭しと並べられている。薬でも作れそうだ。


 そして、教室と同じ数だけ取り付けられた窓からは無数の星が見える。でもきっとこれは偽物。プラネタリウムみたいな仕様なのだ。だから、これに意味はなく、ただの個人の趣味だ。

 なぜ断言できるか?


 だって、この部屋はヨウが作ったのだから。


「綺麗……」

 こんな異常しか転がっていない部屋でシノは怖気付くどころか、黒曜石の瞳をキラキラとさせて見入っている。


「この花はなんですか、ヨウ」

 嗚呼。わからない。知らないんじゃない。憶えていないのだ。



「わからない……憶えていない」


「あら、ヨウは何でも憶えられるんじゃないですか?」


 そう言ってシノは偽物の星空をバックに笑う。流れ星が一筋流れた。全てが作り物めいてとても綺麗だった。


「そのはずなんだけど……」

 口籠もってしまう。もっと早くに否定すればよかった。


 何でも憶えられるなんて嘘だよ、ちょっと誇張しすぎた。人より記憶力がほんの少しいいだけだよ。だから、そんなに買い被らないでほしいな。


 そこでやっと気づいた。ヨウは知らないうちに、何でも憶えられることを自分の誇りにしていたということを。

 それをアイデンティティの拠り所としていたことに、今更気づいてしまった。


 そして、恐れた。今ここで記憶を辿ることができなければ、その拠り所を失ってしまうのではないかと。


 ――アイデンティティの喪失。


 それは思春期真っ只中のヨウにとって一番恐るべきことだった。それを自覚して、ヨウは初めて記憶に怯えた。



 そんなヨウの思考を遮るのは、やはりシノの澄んだ声だった。ヨウを恐怖に引き摺り込んだのもシノだったけれど。


「ねえ、これはヨウ宛の手紙ではありませんか?」

 ――シノは一体何者なんだろう。こんなにヨウの情緒を掻き乱す意図は?


 そんな漠然とした疑問は、目の前に差し出された一封の封筒に掻き消される。


 “ヨウへ”


 住所も郵便番号もない、シンプルに書かれた茶封筒だった。紛れもなく筆跡はヨウのものだった。意味がわからない。


「ありがとう、シノ」

 余裕がないまま茶封筒を受け取る。さっき余裕がないのはシノだとか言っていたけれど、今余裕がないのは確実にヨウだった。


 そこら辺に落ちていたペーパーナイフで封を切る。

 中から現れたのは、一枚の便箋だった。



 “いつの日かのヨウへ”


 そんな書き出しから始まる本文。まもなくヨウは続きに書かれていた一行目から目が離せなくなった。



 ――忘却のプレゼントを受け取った気持ちは、どう?

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