第49話 転

 シノに記憶を失うと宣言したその晩、ヨウは未来の自分に向けて手紙を書いた。件の狂った手紙だ。正気でない時に書いたのだから仕方がない。一年たったら思い出すように、と未来の自分に向けてメッセージ。

 そして、わざわざ夜の学校に忍び込んで、その手紙をヨウの実験室に置いた。茶色の封筒に入れて。自分の筆跡だと勿論わかるように。これも記憶を引っ張り出すきっかけにするつもりだった。


 それを終えるとまた家に戻ってきた。カレンダーは主張してテーブルの上に置いておく。記憶を失ったあと混乱しないように。

 ここまでしても、アオの部屋にはやっぱり入れなかった。そこは、アオが死んでから一度も足を踏み入れることができなかった。


 黒い油性マジックを手に取る。そしてそこら辺にあった紙に試し書きをする。あまりインクが残っていないのか少し掠れたが、文字を書く上では問題なさそうだった。そして手にこう書いた。自分にむけてのメッセージ。


 ――プレゼントを喜べ。


 そう、忘却はプレゼント。未来の自分は忘却というプレゼントに喜ぶのだろうか。いいや、喜ばなければならない。そうでなければシノに申し訳が立たないのだから。


 忘却の薬を水で飲み込んだ。カプセルに包まれているからもちろん味なんてしない。

 あとは眠って起きたらこの一年くらいを忘れているはずだった。眠るよりも先に意識が朦朧としたような錯覚に襲われる。だっていつも実験で薬を飲んだ時はそうだったから。

 眠りに落ちる寸前、海の香を感じた気がした。


 ♢


 そうして次の日起きて目が覚めたら、海に浸かっていた。シノのことを綺麗さっぱり忘れて。見事に記憶を失っていたのだ。どうして海にいるかもわからず、ただ今ここにいないアオのことを無意識に探した。

 そこはかなく漂う喪失感に身を任せながら。



 ――そうして、狂った計画が完成し、仕組まれた忘却の一年が始まったのだ。



 ♢


 でも、あの日ヨウが飲んでいたのは、ただの偽薬だった。だからこそ簡単に思い出すことが出来るのだ。思い込みというものは素晴らしいもので、プラシーボ効果を知っているヨウですら騙された。確かに、忘却の薬なんて実際飲んでいたら本当の廃人になってしまっていたかもしれなかった。シノには感謝しなければならない。


 きっと記憶を失ったあの日、ヨウが手渡してシノに見せた忘却の薬と偽薬をシノがそっとすり替えたのだ。シノの思惑はわからない。でも、少なくともシノに感謝しなければならない。


 シノのおかげでこの一年を笑ってすごせたのだから。


 ♢


「ヨウ、全てを思い出しましたか」

 シノの澄んだ声ではっと意識が現実に引き戻される。目の前には薄く微笑むシノ。彼女の制服の胸ポケットで卒業生の黄色い花が咲いていた。ヨウの胸にも同じものが咲いている。

 そう、今日は卒業式だった。


 今のシノと過去のシノでは口調に大きな違いがある。今のシノはやけに丁寧だ。同級生のヨウであっても敬語だ。でも、細かいイントネーションや、話す内容はシノのままだった。すぐに変えられる口調なんて重要じゃない。

 振り返ってみると、シノの選ぶ言葉は今も昔も変わらなかった。それにひどく安心した。


「ごめんなさいね、ヨウ」

 シノは大して申し訳なさそうに淡々と言う。

「何で……」

 すべてを思い出したのに混乱していた。シノは安心したように微笑んでいる。


「もう偽薬を飲んだことには気付きましたよね。ヨウが一部の記憶を失っていて、その実全く失っていなかったのは、全て私が仕組んだこと。あの日ヨウが飲んだ忘却の薬は、私がすり替えた偽薬。運よくその日の仕事で偽薬を持っておいてよかった……」


「どうして、そんなことをしたの……」

 シノにメリットがない。口はからからに渇いていた。

「……それを訊いてしまうのですか。そんなの、決まっているじゃありませんか」

 初めてシノはきれいな笑みを崩した。そこにあったのは剥き出しの感情。


「ヨウに、きちんと生きていてほしかったんですよ。忘却の薬を飲んで、失敗したら毒薬で死ぬなんて言われた時の私の気持ちがわかりますか? ……私はヨウに、いつか妹さんのことを受け入れ、全てを大切にして生きてほしかった。たぶんそれがヨウにとってしあわせなことだと思うから。そう考えるのはいけないこと……」


 シノは別に悲痛な表情を浮かべている訳でも涙を流しているわけでもない。でも、その言葉がヨウに一番刺さった。

 ヨウはふと泣きたくなった。涙なんて枯れたはずなのに。


「ありがとう……。ううん、いけなくない。嬉しい。すごくうれしい。……ありがとう」


 生きていていいんだ。生きてほしいと願ってくれる人がいるんだ。

 ならば、生きるしかない。アオが死んだことも背負って、生きる。これがヨウがアオにしてやれる最大の弔いで、生きてほしいと願ってくれるシノに対する最大の謝辞だった。一年経ってアオの死を受け入れる心の準備ができたのかもしれない。


「いいえ、どういたしまして」

 シノはようやく笑みを溢した。そうだ、シノとの思い出だって大切にして生きていく。それがヨウにとって一番しあわせなことなのだから。


 シノのおかげで、前を向いて歩けるようになった。今を大切に生きようと思った。



 ――ここで終わっていたら物語はハッピーエンドだったかもしれない。ただ、シノの言葉がヨウの胸に冷たいものを落とした。


「ねえ、ヨウ。……あの日裏路地でヨウが見せてくれた猛毒、私にくれませんか」

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