第7話 アルバイト、そして睡魔

「宝くじを買わずに当てたいなー」

 そう胸の中でぼやきながら今日もバイトへ向かう。


 バイトはもちろん禁止だ。中学生だし、法律的にも校則的にもアウト寄りのアウトだ。


 でも、せざるを得ない。生きていくにはお金を稼がなければならないのだから。

 母も父も今はいない。父は離婚していない。研究者の母は自分の興味関心のまま、ヨウたちを置いて海外へ行ってしまった。家はあるが、お金を用意してくれる人なんていないのだ。では、どうするか。


 体を売るのは論外。人間切羽詰まったら何でも出来るというが、多分性格的に無理。では、自分にあるのは何か。言わずもがな、何でも憶えられる頭脳と際限のない好奇心。これを活かすしかない。



 深夜零時。黒いパーカーのフードを目深に被る。男か女かもわからないくらいに。そして、足音をなるべく立たないようにして裏路地に入る。足早に通り過ぎ、三番目の角を右に曲がって、次に五番目の角を左に曲がる。それを五回ほど繰り返すと、地下室への入り口が現れる。


 "パスワードをお入れください"


 赤い文字がスクリーンに浮かび上がる。テンキーに百桁ほどのパスワードを寸分違わず打ち込む。打つのにも時間がかかるくらいの長いパスワードだが、勿論全て暗記している。というか、メモをすることは許されていない。


 カチッ


 軽い開錠の音がしたので中に入る。地下室特有の湿っぽい空気はなく、ただ乾いた無機質な空間がヨウを迎え入れる。


 左右対称に造られたこの建物は、常人が入ると気が狂うようになっている。どこまでも等間隔に並んでいるドア。しかもドア以外の壁が鏡で覆われている。そのせいでこの廊下が永遠に続くように感じるし、自分が今どこにいるかもわからなくなる。ヨウは館内図を頭にインプットしているので大丈夫だけれど。

 廊下に入って十九番目のドアの前に立つ。


 コン、コン、コン、コン、コン。


 五回もノックをして中に入る。薄暗い室内の中に、これまた黒いフードを被った人間が一人。


「こんにちは」

 軽く挨拶をして白い袋を机に置く。中身は薬だ。


 そう、ヨウは薬を売って生計を立てている。麻薬とかの危ない薬ではない。でも、自白剤や強めの睡眠薬などの法規制ぎりぎりのラインのものだ。誰に需要があるか? そりゃあ、裏社会とかそういうところだろう。ヨウが自分で作った薬はよく効いて安全性が高いというところで人気があるそうな。どうでもいいけれど。


「……」

 相手は無言で黒い袋を置く。チャリ、と音がした。お金が入っているのだ。薬に対する報酬。手にとって金額を確認する。よかった、紙幣も入っていた。それから次の仕事に対する依頼の手紙。これは一時間経ったら消えるインクが使用されている。多分、裁縫で使うペンと殆ど同じ仕組み。でも、今読む時間は与えられていなかった。


 ぺこりと一礼して退出する。


「ふう……」

 ドアを閉めると静かに吐息を洩らしてしまった。

 実は命の瀬戸際に立っていたのだ。


 ノックは五回。初めの挨拶は時間にかかわらず「こんにちは」。依頼通りの薬を机に出す。お金の確認。一礼して退出。


 この一連の流れから一ミリでもズレたら抹殺されることになっている。あなおそろしや。多分、これは健全な組織からの依頼ではさらさらない。

 でも、中学生が働けるなんて、それくらいだ。生きていくにはこれくらいしないと。

 

 自分の作った薬を買ってもらえるということで、一抹の承認欲求を満たしているのかもしれない。だから、やめられないのかも。多分もう引き返せないけれど。





 今日の午後一発目は国語の授業だった。

眠い。眠すぎる。

 やっぱり深夜のバイトは酷だ。昨日寝たのは深夜三時だ。いや、今日か。

「春暁。孟浩然。春眠暁を覚えず。処処……」


 テープから音読される音声が遠くから聞こえてくる。声はいいのだが、どこか抑揚の少ない声は耳を右から左へと通り抜けていった。如何せん眠すぎるのだ。


「……花落つること知る多少」


 よりにもよって、この漢文なんて。尚更眠くなってしまう。春眠暁を覚えず。私も春の陽気に包まれて微睡みたい。


 そんなことを思っているうちに、意識は深い海の底へ沈んだ。



 夢を見た。

 クラゲになる夢。

 ゆらゆらと漂っていた。ただ、何も考えずに。視界には何も映っていなかった。ただぼんやりとした光を感じれるくらい。クラゲは光しか感知できないから。図鑑で読んだ通りで安心する。


 ここは、寒さも暑さもなかった。喜怒哀楽もなければ、快も不快もなかった。


 こんな世界が、羨ましかったのだろうか。

 漂っていたはずなのに、身体は深い海の底へと沈んでゆく。


 どこまでも深く、同時に静かで、冷え切った暗い海の底へ。


 キーンコーンカーンコーン


 ♢


 夢に侵された脳にチャイムが鳴り響く。はっと目を覚ました。目を覚ます直前、びくっとしてしまう。確かその現象をジャーキングといったっけ。


「では、今日の授業を終わります」

 先生の声。起立気をつけ礼の号令。のそのそと立ち上がって見た目だけの礼をする。


「あー終わったー」

 なんて男子が大声でわめきながら他の男子と騒ぎ合っている。元気だな。


 そう思っていると目の前にひときわ美しく輝く人影が。勿論、輝くというのは比喩だ。緑色蛍光タンパク質をもつオワンクラゲは発光するけど人は発光しない。


「おはようございます」


 うん、やっぱり眩いほどの美少女がそこにはいた。優しい彼女は眠たげな私を慮ってくれているのか、いつもより僅かに小声だ。


「うん、おはよー」

 時刻はもう十四時を回っている。おはようの時間な訳がない。


「よく眠れましたか?……ふふっ、ここ跡になってますよ」

 そう言いながら私の頬を指差す。

「えー、恥ずかしー」


 棒読みにならなかったか心配になる。だって、実際は左程恥ずかしくなかったのだから。生理現象を恥ずかしがっていては生きてゆけない。

 そりゃあ、頬を教科書やらペンやらが載っている机にくっつけて寝たら跡ができる。あまりにも自明の理なのだから恥ずかしいわけがない。


「珍しいですね、ヨウが授業中に寝こけるなんて。いつもは何かの本を熱心に読んでいるのに」

 この少女は存外他人をよく見ている。


「ちょっと、昨日寝るのが遅くっなちゃってねー。気になった本があって読み漁っちゃってたの」

 勿論嘘だ。寝ていてできた頬の跡が少しかゆくなって頬を掻く。


「嘘ですね」


 即答で返される。しかも笑顔で。

 完全に目が覚めた。ちょっと、いやかなり返しに困ってしまう。どうしよう。頭をフル回転させてもいい切り返しが思いつかない。


 先に口を開いたのはシノだった。しまった、先手を取られた。

「ふふっ、だって、ヨウは嘘を吐くとき頬を搔くんですもの」

「え」

 チェックメイト。思わず固まってしまう。


 そんな癖、あったのか?いや、無くて七癖というし……。でも単純に痒かっただけだし……。それが癖か……?


 軽やかなシノの笑い声。


「そんなに固まらないで、ヨウ。勿論私のハッタリですよ。ちょっと目が覚めるかなと思ってカマをかけただけです。……でも、その様子じゃあやっぱり嘘だったのかもしれませんね。ヨウったら面白い」


 花のように笑いながらシノは言い切った。でも煽るような口調にもかかわらず、彼女の物言いはカチンとこなかった。

 やっぱり、普段の振る舞いって大事だ。あと、顔。こんなに愛嬌のある顔で笑われたら、こちらまで笑顔になってしまう。


「んもう、シノったらひどいんだからー。おかげで目がさめたけど」

「それはよかったです。でも、どうやらお疲れのようですね。どうですか、少し外の風を浴びにいきませんか」

「賛成ー」


 微妙に惰眠を貪った所為か、少し頭痛がしていた。この教室は空気がこもっていて少し息苦しい。外の風を丁度浴びたいと思っていたところだった。このシノという完璧美少女はヨウの願いを正確に読み取ってくれる。決して不快にならない程度に。


 教室の外へ出ると爽やかな風が二人を迎えた。


「いいところを知っているんです」

 ついてきてください、そう言ってシノはヨウの前を歩いてゆく。


 シノが歩くのに合わせて彼女の豪奢な黒髪がゆらゆらと揺れる。ただただ綺麗だった。光の加減で数本銀糸のように揺らめく。


 後ろ姿まで美しいのは反則だと、眠気に侵された頭でそう思った。

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