第2話 龍神様・前編(神社から消えた神)

「やっぱり此処に神様の気配はないな」

 拝殿の奥にある本殿を覗き込むようにして、長谷部はせべは自分の感覚が間違っていないことを確信している口調で鮎子あゆこに告げた。


 県道から逸れ、かなり山奥にある集落の神社だ。新緑の眩しいこの季節は山の中からいろいろな鳥の鳴き声が聞こえる。

 一見長閑のどかだが、神社の周りはどこか寒々しい空気が漂っていた。此処に神が居ないとすると、此処の土地を守るものは居ないのだ。

 いくら本殿があっても、それは空っぽのうつわにすぎない。


「それはダムが原因?」

 鮎子は神社からさらに山奥に続く舗装された道路を眺める。この先に、五年ほど前にダムが出来たのだ。


「だと思うね。ほら、この側溝のような跡。今はただのくぼみだけど昔は此処に川が流れていたんだと思う。水の流れが変えられたんだろう」


 龍神様と集落では呼ばれ、大事にされていた神社だと云う。過疎化も始まり、この集落に住んでいるのはお年寄りばかりのようだ。

 ここ数年、毎年のように水不足に悩み、この集落は死を迎えようとしている。


 集落に一軒だけある小さな旅館に戻って夕食を食べながら、旅館のあるじの話を聞く。今年も雨が降らなければ、水田は完全に駄目だろう。


 なぜこんなことになってしまったのか、龍神様の力がこんなに弱まってしまうほど、信仰が薄れたとは思えないのに、やはり人口減少とともに弱まったのか──と、主が溜息をつきながら絞り出した言葉がいつまでも鮎子の頭に残った。


「鮎子がここの集落の記事を見つけたのは、やっぱり呼ばれたのかもしれないな」

「ハセさんに助けを求めているんじゃない?」

「声は聞こえないけどね」


 長谷部の手が布団に横たわった鮎子のうなじに伸びてきた。その大きな手を受け入れながら、鮎子は目を閉じた。


 *


 図書館勤務をしながら趣味で日本古来の神を調べている鮎子は、図書館に入ってきた地方誌を何気なく見ていて、ある記事が目にとまった。

 降水量が少なく、水不足に悩む土地の記事だった。地図も小さく載っていて、その地図を見たときに結界が崩れているような印象を持ったのだった。


 その夜、家の近所にある馴染みの店のカウンターで飲みながら旬の肴を楽しんでいると長谷部が現れた。

 起きてからそんなに時間は経っていないのだろう。まだどこか眠そうで、髪はあちこち跳ねているし、無精髭が生えている。鮎子に気づくと


「なんだ、来ているならメールくれれば良かったのに」

 そう言いながら隣に座った。


「メールしなくても、起きれば此処に来るかと思って」

 鮎子が答えると、長谷部は「たしかに」と言って小さく笑った。


 この店にお互い一人で来ていて、カウンター席で何度か見かけるうちに話をするようになった。長谷部はフリーライターとのことだったが、ペンネームを使っているらしく、どの雑誌にどんな記事を書いているのかは知らない。


 飲みながら話をするうち、長谷部が神社仏閣に詳しく、この世のものではないものをはっきりと見ることは出来ないが、気配を感じることが出来るらしいことを知った。


 最初は胡散臭く見えて、B級オカルト雑誌のライターなのではないかと思ったくらいだ。

 しかし、鮎子が神社に抱く疑問にはすぐに答えてくれるし、話も面白く、気づけば恋人という関係になっていた。


「今日ね、ちょっと気になる記事を見つけたの」

 鮎子はそう言って水不足に悩む土地の話をした。それからスマホを出して地図アプリを立ち上げる。


「ここの集落なんだけど、見て。龍神社って書いてあるでしょ。地図を広域にすると、あと二箇所、この山には龍神社があるの」

「ああ、たしかに」


 長谷部は鮎子のスマホを手に取ると、地図を眺めていたが「ん?」と眉をひそめた。

「ダムが出来ているのか」

「そう。流れが崩れてるっぽくない?」

「この三社がどの位置にあるのか、実際に行ってみるか。次の休みはいつ?」


 その言葉を待っていた。フリーライターの長谷部は時間の自由がきく。鮎子の休みに合わせて日本各地の神社巡りに付き合ってくれるのは有り難い。

 しかもマイカーを持っていて運転してくれるので、車の免許を持っていない鮎子でも、助手席に乗っていれば目的地に到着する。

 そんなわけで今回、一泊二日で水不足に悩む集落に足を運んだのだった。


 翌日は早朝から残りの二社の龍神社を目指した。どうやらダムに一社。そして残りの一社は山頂付近にあるようだ。


 まずはダムの駐車場に車を停め、目指す龍神社に向かう。昨晩泊まった集落にあった神社とは違い、境内も殆ど無いに等しい神社だ。

 かろうじて鳥居はあるが、数歩も歩かないうちに祠があった。しかもそれは新しい。


 由緒書を読むと、もともとはダムのあった場所に立派な神社が建てられていたが、ダムの底に沈んだため、新しくこの場所に建てられたらしい。


「なるほど、もとの神社は水の底か」

 長谷部は目を細めてダムに蓄えられている水を眺めた。朝日を受けて水面は鏡のように銀色に輝いている。


「じゃあ、この新しい祠にも神様は居ないのね」

「居ないね」

 長谷部は即答した。鮎子も由緒書を改めて読む。


「ご祭神が龍神としか書かれてないのが気になるよね」

「一言に龍神って言ってもいろいろだからな。昨日の神社では由緒書が古すぎて読み取れなかったし、旅館のおやじに聞いても龍神様としか分からなかったからな。山頂の神社に行ってみるか」


 車で十分ほど行くと舗装されていない道になり、砂利道を進んだ。それもしばらくすると終わり、これ以上は車では行けないようだった。


「地図を見る限り、ここから神社まではそんなに距離はないだろう」

 そう言いながら長谷部はエンジンを止めた。

 鮎子は顔に日焼け止めを塗り、虫除けスプレーを腕にかけてからアームカバーを付け、帽子をかぶった。長谷部が

「相変わらずの完全防備」と笑う。

「だって虫に好かれるの嫌だもん」


 もともと肌が弱い鮎子は、虫に刺されると過剰に反応して内出血もしてしまう。薬は持参してきたが、なるべくなら虫には刺されたくない。


 獣道のような細い道を二人は進んだ。蜘蛛の巣は先頭を歩く長谷部が取り除いてくれるので、その後ろを外れないように鮎子は慎重に歩いた。


「あった。あれだな」

 長谷部の声で鮎子も顔をあげると、石で出来た鳥居があり、その奥に拝殿が見えた。それは集落で見た神社と同じくらい古くからあるものだと分かった。

 拝殿の塗装は剥げているが、その佇まいには威厳が感じられる。拝殿の奥に本殿はなかった。


「山が御神体か」

「そうみたいだね」

 日本古来のありかた。自然信仰だ。


 鮎子は切れた息を整えるように一度息を吐き、それから大きく吸った。拝殿から見える山頂は深い緑の木々に覆われていた。此処から山頂を眺め、古代の人々は神に感謝と祈りを捧げていたのだろう。


「どうも怒りを感じるよ」

 長谷部が眉間に皺を寄せてつぶやいた。

「山が怒ってるの?」

「うーん、どうなんだろう」


 拝殿脇に小さい看板が立っていた。黒ずんでいてそこに書かれた文字は読みづらかったが、確かに何か書いてある。目を凝らして見ると、あめかんむりの文字のように見えた。長谷部がそれを見て


高龗たかおかみか?」と言い、ますます眉をひそめた。

高龗たかおかみ? あ、水を司る神様」

「高は山峰のこと。おかみは水を司る蛇、つまり龍とも言えるね」

「たしか貴船神社の御祭神だよね」

「ああ。本宮に祀られている。高龗たかおかみ闇龗くらおかみは対になっていてほしいところだが、ここには闇龗は居なそうだ」


 イザナミが火の神・迦具土かぐつちを産んだとき、陰処ほとを火傷してしまい、それが元で神避かむさる。

 つまり死んだということだ。


 嘆き悲しんだイザナギは十拳剣とつかのつるぎを抜いて迦具土かぐつちの首を斬った。その剣の柄についた血から生まれたのが闇龗くらおかみだ。迦具土かぐつちの死体からは多くの山神が生まれたという。

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