Lesson4. JKがなんとかしてくれる。

 土曜日は一日じゅう自室の学習机にへばりついてしゃかりきに受験勉強する予定だったけれど、「s」からはじめるつもりだった英単語ひとつ覚えられず、単語帳の栞代わりに使ってる赤い透明シートがうらめしい。日曜日はぜんぶ振り切るみたいに外へとびだした。長袖一枚ではもう寒いぐらいだったが、どうせ近所だし、家族共用の健康サンダルをはだしに履き、三分てくてく歩いて角をみっつ曲がれば、ハローキティのカーテンが瓦葺きの戸建ての二階にむかえてくれた。野間が小学校にあがり、自分の部屋をもらってからはずっとそのカーテンだったはずで、左耳のリボンもずいぶん色あせている。ほかの子とちがってキーホルダーひとつ付いてない通学カバンを見るかぎり、とくにハローキティが好きというわけではなさそうだったので、たぶんお母さんが選んだものなんだろう。

 チャイムを押すと油性ニスがてらてら光る扉のむこうで「キンコーン」とかんだかく鳴り、いつも鍵はかかってないので返事がなければそのまま上がるのだけど、一段飛ばしで階段を叩くかろやかな足音が聞こえてきた。

「へい、お待ち!」

 そう言って笑顔をさかせた野間は、肌が透けるほどうすい下着シャツ一枚に、中学のときの紺地にしろいストライプが二本はいったジャージ姿だった。使い古したシャツなのか、丈がちんちくりんで、おへそと水色のパンツがはっきり見える。ジャージからはべろんと両ポケットが垂れうさぎの耳みたいにはみだしていた。

「お前、もうちょっと気を遣った格好しろよ。女のくせに」

 いつもどおりの野間ではあったが、さいきん甘井ちゃんのことばっか考えていたので、清楚な彼女とのギャップについ呆れた声をあげてしまった。べつに野間に甘井ちゃんみたくなってほしいわけではないけれど。野間には野間の良さがあると知っている。男女の分け隔てなく話してくれるし、素直だし、明るいし。いちばんの友だちだと思ってるし、だからこそ相談に来てるわけだった。

「なんで新立なんかに気を遣わないといけないのよ」

「僕じゃなくて、宅配の人とかかもしれないだろ」

「車のエンジン音で分かるわ。歩きでこの時間に来るのって新立ぐらいやん。なんなん、暇なん? 受験勉強は?」

「うるせえな。親かよ。つうか、僕にもちょっとは気を遣えよ」

「新立に気を遣ってなんの得があるのよ。高橋とかなら化粧して下着替えて出るわ」

 言い合いもそこそこに、野間は振り返り、先導するように急な階段をよつあしで上がりはじめた。サンダルをけとばして、野間のうしろを続く。飾らない格好、というよりだらしないといったほうが正しい野間だったが、トレードマークのポニーテールだけはきれいに整えていた。階段を上がるたび、それこそ馬みたくゆさゆさ左右に揺れる。野間の存在感がある尻よりもそっちのほうを注目していた。野間の尻を見たところで、いまさら欲情したりしないし。

「なに飲む? 麦茶でいいよね?」

 部屋に僕をいれるなり、野間はそう言い捨てて、またバタバタと階段を降りていった。残された僕はベッドに腰をおろし、おもむろに部屋を見渡す。あいかわらず殺風景だなあ。可愛らしいのはハローキティのカーテンぐらいで、布団カバーは枕ごとシックなモノトーン。銀色の無骨なパイプデスクに、無印良品のペンケース。成長に追われるように女子らしいものが減ってる気がする。野間の部屋にはしょっちゅう来てるので、そんなことに着目したりはしなかった。この日は、いつも話さないようなことを相談したかったからか、他人行儀な心持ちだったのである。

「ウィーン、麦茶デース」

 時代おくれのロボットみたいに作った声が聞こえ、野間が素足のさきで器用に扉を開けた。麦茶のたっぷり入ったムーミンのタンブラーがふたつ載ったお盆を両手に抱えている。僕のがリトルミイで、野間のがスナフキン。

「はい、どうぞ、百万円になりまーす」

 野間は軽い調子でうたうように言って、麦茶のタンブラーを乱雑な手つきでお盆ごとちゃぶ台の上にガンと音を立てて置き、背中からベッドのうえに倒れ込んだ。ぎし、と建て増しの部屋全体が揺らいで、天井からぶらさがるまるい蛍光灯のひもが震えた。昔そのひもはもっと長く、床まで垂れ下がっていたのだが、僕と野間がじゃれあってるうちに引っ張ってちぎれてしまい、以来そのままとなっている。

 しばらく麦茶が飲めなかった。べつに自白剤が入ってるわけじゃないけど、飲めばぜんぶ話さないといけない気がして、膝をしきりに揺らしながら、自分のなかでだけ懊悩をまぎらせた。

「甘井っちのこと。でしょ?」

 さきに切り出してきたのは野間だった。横になったまま声を出したので、眠そうな、へんに色気のある声だった。たぶんそう言ってほしかったんだと思う。こくんと頷くと、前転しそうなぐらい大きな素振りになった。

「なんでわかったん?」

 分かるに決まってるので、間抜けな言い口だった。首をかしげるようにひねり、野間のほうを見た。きつねみたいな目がますます細く僕を見つめていた。ポニーテールは見えなくて、別人みたいだった。乳首が見えそうなぐらい胸元が開いていたが、見たいと思わなかったので、やっぱり野間だと思った。

「だって、新立の悩みらしい悩みなんか、他にないんだし」

 そう言われると、逆にすっきりした。自分の悩みなんか、そう言われるぐらいのしょうもないものだ、と思えば、割り切ることもできた。ほかの誰かに言われても、そうは思えなかっただろう。野間がいちばん自分のことを分かってくれている、と思うし、たとえそうでなくても、分かっていることにしてあげたい、という自負はある。自負、という言葉が近いと思う。野間は自分だし、自分は野間だ。時間でいえば十数年であれど、割合でいえば物心ついてから百%の人生を、不可分に分け合ってきたのが僕たちなのだ。

 高橋くんに教えてもらったことを野間に伝えた。もっといろんなことを話したいと思ったし、話せると思ったら、よく考えたら高橋くんに教えてもらったのは「甘井ちゃんが」「ティーチャーと」「エンコーしてる」のSVOだけで、しかも「maybe」がどっかにつくあやふやなものである。そんなことでこんなに悩んでいたのか、と思えば陳腐で、僕の甘井ちゃんにたいする気持ちも陳腐に感じられる気がして、実際そうなのだろうということにも気づいたけれど、それは野間には見せたくなくて、結果、怒ってるふうを装った。

「知ってたよ。うちらは」

 野間はそう言って頭をかいた。どうでもよさそうというか、面倒くさそうな口調だった。なんだかんだで野間は僕の恋愛相談に乗ってくれていて、からかい半分ながらも結局のところは応援してくれている節があったので、そういう口調は甘井ちゃん絡みでは珍しかった。強いていえば、野間が自分のことを語るときの声色に似ていた。話題がそっちに迷いこむと、決まって「もう無理」と唾を飛ばし、僕を撥ねのけるのが野間だった。

「それならなんで教えてくれなかったんだよ」

 舌鋒するどく迫ったのち、野間が「うちら」という言葉を使ったことにはっと気づく。

「いや、だって有名だったし。女子はたぶん、みんな知ってるし」

 てっきり新立も知ってると思ってた、と野間は言いたいわけだ。耳のおくがぐわんとなる。それはつまり、「好きな子がエンコーしてても、ぜんぜん平気で日々を過ごせる奴」だと思われてたってことだ。クソな奴じゃねえか。野間にそう思われるのは違う。クソな奴ってのが違う、といいたいのではない。世界中で野間だけは僕をそんな奴だと思ったりしないだろう。

「有名ってなんだよ。みんな知ってるわけ? 高橋くんだけでなく? 福井さんも? JKも?」

 そう吐き捨てた。黙ってくれていた、気持ちは分かる。高橋くんがそうしたのは分かるし、野間がなんでそうしたかも痛いぐらい分かる。分かるくせ、分からせようとする僕は、否定したかったはずのクソだということを自ら体現していた。

「福井は知らないと思う。JKは……」

 そこまでを言って、野間は僕のほうを向き直り、外していた目線をあわせて、にかっ、と八重歯を見せた。そんな音が出そうなぐらい、いい笑顔だった。なにを意味したかったかはすぐに分かった。

 福井さんもJKもこのことは知らないのだ。が、なぜそう思ったのか、その理由はそれぞれ違う。福井さんが知っていれば、間違いなく僕にそのことを言う。彼はいい意味でもわるい意味でも隠しごとができない。あの高橋くんですら「福井さんにだけは言うな」とあわてて念を押さざるを得ないような男なのだ。いい奴なんだが、とことん抜けていて、空気を読めない、というより、異星から来たんじゃないかというぐらい、空気という概念がもはや彼にはない。福井さんは、僕が甘井ちゃんを好きだってことも知っているけれど、それを忖度してエンコーのことを隠したりなんかぜったいしない。「それでいいの、新立は?」とかなんとかいって、ズレた優しさを見せるのが福井さんだ。そして、JKはその対極にいる。もしJKがこのことを知っていれば……。

 野間の背中ごしノールックパスから僕がレイアップを決めたときみたく、僕らはびたびたに右手を叩きあった。そうだ、JKがこのことを知れば、きっとなんとかしてくれるはずなのだ!

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